移ろいの狭間で、君を想う。
やんわか
エピローグ
巧は、少し薄汚れた懐かしい暖簾を潜り「居酒屋みまつ」に入る。
海に面した港町の一角にある、決して広くはない店内は、仕事終わりのサラリーマンや漁師の風貌をした威勢の良い男性客達で賑わっていた。
「いらっしゃい。お一人?ごめんなさいねぇ、今満席で…」
店の制服を着たふくよかな女性が巧を出迎えた。
余程忙しいのだろう、額には汗が滲んでいた。
「お久しぶりです花江さん。元気そうですね。」
そう言った巧の顔を不思議そうに見つめた女将の顔は、すぐにぱあっと明るくなった。
「あらあ、巧君じゃない!どこのイケメンさんが来てくれたものかと思ったわ。しばらく見ないうちに男前が増したわねぇ。」
少し強めに肩をパンパンと叩かれた巧は苦笑いを浮かべた。
やはり花江の笑顔は大吾そっくりだった。
「もう来てます?」
「いるわよ。いつもの特等席に。あの子ったら、待ち切れずにもう1人で飲み始めてるのよ。全く、そういう所だけ旦那に似て。」
花江が厨房で忙しそうに動き回る大将を睨みつけるのを見て、巧は思わず吹き出した。
二人共、昔のままだった。
不意に小上がりの若い男性客が「すいませーん!」と手を上げた。
「忙しそうですし、自分には構わず。」
と巧が促すと、花江は
「ごめんなさいねぇ。せっかく久しぶりに会ったのに今日はお客さん多くてね。そっちにはアルバイトの子をこまめに行かせるから、ゆっくりしていってね。」
と言い残し、巧に手を合わせながら小上がりの方に小走りで駆けていった。
巧はそんな花江の後ろ姿に会釈をして、店の奥へと向かった。
「遅い!」
大将の真司曰く、よっぽどの常連客しか通さないという店奥の小さな個室の襖を開けると、色黒の大男が不機嫌そうな顔でビールを飲んでいた。
部屋のテーブルの上には、既に空のジョッキが5杯分と、僅かに焼き鳥が数本だけ残った大皿が並んでいた。
「悪い、大吾。遅くなった。」
巧は着ていたコートを部屋の壁にあるハンガーに立て掛け、大吾の向かいに座った。
冷えた身体に掘り炬燵の温かさが心地良い。
間もなくして、部屋の襖をコンコンと叩く音がして、店の制服を着た若い青年が注文を取りに来た。
巧がビールを2杯とつまみを適当に頼むと、花江の指導の賜物だろうか、青年はハキハキととても気持ちの良い返事をして部屋を後にした。
部屋の中には向こうの客の笑い声が響いていた。
「仕事が忙しいのはいいことだが、誘ったのは巧だからな。」
幾ばくかの沈黙を挟み、大吾が口を開いた。
「まあ、巧が時間にルーズなのは昔からだけどな。覚えてるか?県予選の初戦当日も寝坊して、、」
「おいおい、中学の時のことはもう時効だろ。」
巧は微笑しながらスーツの内ポケットから祝儀袋を取り出し、大吾に差し出した。
「今日はこれを渡したくてな」
大吾の驚いた顔を尻目に巧は続けた。
「親父から聞いたんだけど、もうすぐ生まれるんだって?結婚式も行けなかったし、少しだけど諸々の祝いだ。」
「おお、、悪いな。ありがとう。」
大吾は罰が悪そうに祝儀袋を巧から受け取った。
「煙草、いいか?」
巧はテーブルの隅に置かれた小さな灰皿を引き寄せながら大吾に尋ねた。
大吾が少し驚きながら無言で頷くのを見届けると、巧は煙草に火を点け、天井に向かってゆっくりと煙を吹いた。
「…止めたんじゃなかったのか?」
巧は大吾の質問には答えなかった。
部屋の中には再び沈黙が訪れた。
「大吾、俺に気を遣って黙ってたろ。」
沈黙を破る巧の言葉に、大吾はピクリと大きな身体を揺らした。
「いや。そういう訳じゃ…。」
先程までの威勢は消え、みるみる身体が縮こまっていく大吾の姿を見て、巧は微笑した。
「別に責めてる訳じゃない。」
巧は煙草の火を灰皿で消しながら続けた。
「もう5年も経ったんだ。気にしないでお前達の事はなんでも話してくれよ。」
「その割に、俺等に会ってくれなかったよな。5年も。」
大吾の返答に巧の手が止まる。
「別に。ただ、忙しかっただけさ。」
「そう、か。」
不意に後ろの襖が開き、先程の青年がビールを2杯運んできてくれた。
巧はそれを受け取り、片方を大吾に差し出して
「とりあえず今日は祝いの席だ。とことん飲もうぜ。」
と微笑んだ。
それに釣られて大吾の顔も緩んだ。
「おう。ありがとう!」
合わせられた2つのジョッキから、カチャン、と気持ち良い音が響いた。
「それにしても、久しぶりに合うのにうちで飲むのかよ。俺達ももう立派な社会人だぜ?もっと良いとこの小料理屋とかさあ。」
大吾は一気にジョッキの半分近くのビールを
流し込み、残っていた焼き鳥を頬張りながら話した。
「馬鹿言え。俺はここより良い店なんて知らないよ。」
巧は一口ビールを口にした後、再び煙草に火を点けて言った。
「はは、最高の褒め言葉だ。親父達喜ぶよ。」
大吾は昔と変わらない笑顔を見せて喜んだ。
2時間も経っただろうか。巧の目の前には大男がテーブルに突っ伏していびきをかいている。
勢いだけは良いが、それほど酒に強くないのを思い出しながら、巧は日本酒をちびりと口に含んだ。
空いてきたのか、向こうからの客の声もほとんど聞こえなくなってきた。
娯楽の少ない小さなこの町は、集まるのも早ければ解散も早いのが昔からの特徴らしい。
手が空いた花江も先程部屋を訪れ、大吾の姿を見て頭を抱えていた。
少し世間話もした。
今日こそ珍しく混んでいたものの、町の人口減少もあり、店の売り上げは芳しくないらしい。
それなのに、近々大手チェーンの居酒屋ができるという噂もあり、真司の還暦を期に店を畳むことも考えているとのことだ。
「変わらないものもあれば、変わるものもある、か。」
巧はボソッと呟きながら煙草に火を点けた。
俺はどうなんだろうか。
部屋の天井に広がる煙をぼんやりと眺めながら、巧は佇んでいだ。
不意に後ろの襖が開いて巧は我に帰った。
そして、振り向いた巧はその姿を見て狼狽した。
「久しぶり、巧君。相変わらずイケメンだね。」
夏美だった。
幼さが残るあどけない表情。
ショートカットの黒髪。
大きくて綺麗な瞳。
昔のままだった。
昔と違う点といえば、健康的な小麦色の肌が、やや白くなっているところ、そして何より、お腹が大きく膨らんでいるところくらいであった。
「あー、煙草臭ーい。」
慌てて灰皿に吸っていた煙草を押しつぶす巧を、夏美は悪戯っぽく笑って見ていた。
「お姉ちゃんの葬儀以来だから、5年ぶりくらいかな。」
夏美は変わらず笑顔のまま、少しだけ声のトーンを下げた。
「そう…だな。」
巧は思わず夏美から目を背けながら返した。
腫れ物に触れないようにしてくれていた大吾とは違い、夏美のストレートな言葉は巧の胸にグサッと突き刺さってくる。
巧はこの時、先程の自分への問いの答えが分かった。
自分はあれから何も変わっていなかった。
少しも前に進めていなかった。
彼女に似ている夏美の顔を見てしまえば、どうしたって思い出してしまう。
だから帰ってこなかった。
大吾と夏美から逃げていた。
もう5年も経つのに、時は何も解決してくれていなかった。
「…巧君、大丈夫?」
俯く巧の顔を、夏美は心配そうに覗きこんだ。
巧は再び我に帰ると、小さく頷いた。
「ごめんね。少し無神経だった。」
夏美はそう言いながら、テーブルの向かいで眠っている大吾の元に向かった。
「大ちゃん、起きて。帰るよー。」
夏美が大吾の肩を揺するも、大吾は全く起きる気配が無い。
「けどね。」
夏美は一旦大吾の肩を揺するのを止め、やや神妙そうな顔つきで再び巧を見た。
「お父さんもお母さんも、もちろん私達も、少しずつ、本当に少しずつ、前を向き始めてる。」
夏美の大きな瞳に力がこもっていった。
「だから巧君も、なんて無責任なことは言えないけど、、けど。」
大吾の肩に触れる夏美の手が少し震えているのが巧にも分かった。
「お姉ちゃんはきっと、今の巧君を見たらがっかりするよ。」
夏美の目には涙が浮かんでいた。
巧は何も言い返えせなかった。
「…あーあ、全然起きないや。」
夏美は急に声をいつものトーンに戻しながらため息をついた。
「まあいいか。もう少しでお店も終わる時間だし、お義父さん達に手伝ってもらお!巧君はお家に戻るの?」
「いや、そこの西友インに泊まるよ。」
先程までと全く違う夏美の態度に戸惑いながらも、巧は答えた。
「えー?せっかく帰ってきたのにお父さんに顔も見せないでビジホ?冷めてるー。」
ぷうっと頬を膨らませたその顔は、昔と全く変わっていなかった。
「親父は今日夜勤だから帰っても誰もいないんだ。明日顔を見せに寄るよ。」
「そう?ならいいけど。」
夏美は優しく微笑んだ。
「予定日、来月らしいな。」
巧は壁に掛けていたコートを羽織りながら夏美に問いかけた。
「そうだよ〜。楽しみだけど、元気に生まれてくるまでやっぱり心配。」
夏美はすやすやと眠る大吾の背中を優しく撫でながら返した。
「大吾が付いてるから心配ないさ。」
夏美は小さく頷いた。
「赤ちゃんの顔、見に来てね。私も大ちゃんも、待ってるから。」
巧は夏美の言葉に返事をせず、小さく左手を上げながら背を向け、部屋を後にした。
巧は会計を済ませ、真司・花江と少し談笑した後に店を出た。
外は雪がちらついていた。
巧は、車もまばらで静かな夜の街をゆっくりと歩き出しながら、煙草に火を点け夜空に深く煙を吐いた。
静かなせいでここまで波の音が聞こえてくる。
巧はそんな波の音を煩わしく思った。
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