伍 鬼の本性



 災禍王の部屋は知慧とものえ御殿の最上階にあった。

 交易で手に入れたのであろう異国情緒漂う絨毯が床に敷かれていて、彼の国のものらしい調度品がいくつか並んではいるが、装飾品として置かれているようであまり普段使われている形跡はない。最もよく使っていそうなのは部屋の奥にある文机だ。読んでいる途中のものだろうか、周囲には書の山が積み上がっている。


「降りろ」


 言うがいなや、どさっと荷を下ろすかのように弥生は床へと放り出された。災禍王の腕の高さから落ちたのだからそれなりに高さはあったのだが、幸い分厚い着物が緩衝材となり痛くはなかった。この時ばかりは重ね着をしていて良かったと思う弥生である。いや、そもそもこんなに厚着をしなければ他人に担がれることもなかったのだが。


「大丈夫か?」


 続けて部屋に入ってきた坂田の手を借り、弥生は身体を起こして居住まいを正す。

 災禍王はというと、何食わぬ顔で文机の向こう側に座ってこちらをじっと見下ろしていた。その肩には雉が行儀良く留まっている。


「女、お前は何者だ」


 やがて災禍王が口を開き、弥生は答える。


「弥生と申します。さるお方のお家に下女として拾われた身ゆえ、家の名はございません」


 ありのまま答えたつもりだったが、災禍王は首を横に振った。


「違う。そういうことを聞いたわけではない」

「では何をお答えすれば?」

「どうしてその眼を持っているのか答えろ。それは明星眼と呼ばれるものだろう」


 災禍王の指先が弥生の瞳に向けられる。

 鬼が、明星眼のことを知っているのか。

 正直少し驚いた。明星眼の存在はあまり世に知られていない。都の貴族たち、あるいは帝でさえ知らなくてもおかしくはないのだ。外見から違和感を持たれることは多いが、生まれつき色が薄いと誤魔化すように主人から言いつけられていた。明星眼は稀有な能力ゆえ、存在を知られれば利用しようと躍起になる者が出るであろうと。

 実際、能力については伏せておいた方が有利に立ち回れる。ひょっとしたら鬼への対抗手段として使えるかもしれないと思っていたが……すでに知られているのであればどうしようもない。


「確かに、これは明星眼です。災禍王さまはご存知なのですね」

「ああ。知識としてどんなものかは知っている。見たのは初めてだがな」


 弥生はちらりと文机の横に積まれた書の山を見やる。

 知識……知識か。

 いくら災禍王が読書家とはいえ、明星眼のことは書から得られる類の知識ではない。

 一体どこから知り得たのだろう。

 気にはなるが、今はこちらから質問できる状況ではない。


「それで、先ほどの問いにまだお答えできておりませんでしたが」


 弥生は一度口をつぐみ、それから小さく溜め息を吐く。


「『どうして』かは、私にも分からないのです。生まれつきこの瞳ですが、母は私を生んですぐに死にましたし、父親はどこの誰かも知りませんので、教えてくれる人は誰一人としていませんでした。明星眼という名のものであるというのは、先日まで仕えていた主人と出会った時に初めて知りました」

「その主人とやらに会うまではみなし子だったのか」

「ええ。人と言えぬような暮らしの方が長かったですね」


 しばし間があった後、災禍王は「そうか」とだけ言った。

 何か思うところがあるような表情だが、それ以上この話題について触れる気はないらしい。


「何にせよ、お前のような人間が現れるのを待っていた」


 災禍王は椅子から立ち上がり、部屋の窓から外を眺める。

 知慧御殿は他の御殿より高台にあるため、この部屋からは鬼ヶ島を一望できるようになっていた。


「俺は、争いが好きではない」


 災禍王は外を見たまま呟く。


「だが、俺たち鬼の本性がそれを妨げるのだ。この鬼ヶ島は無用な争いを避けるための抑止力として築き上げたものだが、それでもいざこざや厄介事が絶えない。俺一人で対処するにはそろそろ限界でな、知恵の働く者の手を借りたいと思っていた」


 抑止力、という単語が魚の小骨のように弥生の喉に引っかかる。

 それは帝が鬼と戦うのを諦めたことを言っているのだろうか。そのために派兵された者たちの死が必要な犠牲だったと?

 理知的に見える災禍王だが、やはり彼の感覚は「鬼」だ。ひとの命に重みなど感じていない。

 沸々と怒りと苛立ちが込み上げるが、ここで一方的に声を荒げても何一つ好転しないことは分かっていた。

 弥生は自らの手の甲をつねり冷静さを保ちながら災禍王に尋ねる。


「お言葉ですが、他に頼れるお方はいらっしゃらないのですか。災禍王さまはご自分を『鬼ヶ島を統べる鬼の一人』とおっしゃいました。他にもあなたのような力を持つ鬼がいるのですよね?」


 少なくとも御殿は七つある。災禍王の他に六体、力を持つ鬼がいてもおかしくはないと思うが。


「名目上、この島を率いるのは俺と双子の弟、悪毒王あくどくおうだ。だがあいつは力で解決する以外の手段を知らん」

「なるほど。それでは災禍王さまの争いを避けたいお気持ちとは相反すると」

「そういうことだ。そして他の御殿の鬼どもについては、俺と弟に逆らう気はないものの互いには不仲な者が多い。御殿同士のいさかいは日常茶飯事だ。おまけにここのところ人間の数も増えてきて、鬼には理解しがたい問題が起きることもある」

「ああ……」


 容易に想像がつき、弥生は乾いた笑みを浮かべた。

 どうやらここも都と同じであるらしい。

 貴族同士の政争、女房たちの見栄の張り合い、不遇な者たちによる決起。

 心優しい主人の道尚もたびたび巻き込まれては悩みをこぼすことがあった。

 強靭な肉体を持つ鬼とて同じなのだ。

 結束のために群れを成しても、その群れの中で争いが生じる。


「つまり、私のここでのお役目は島で起こる問題を対処することだと?」


 災禍王は弥生に向き直り首肯した。


「何が起きているか調査し、お前の知識を使って解決してみせろ。それができるならこの島での身の安全を保証してやるし、食でも着物でも部屋でも、何でも望むものを与えてやる」

「……では、できなかったら?」


 念のため尋ねてみる。

 災禍王の口がうっすら開き、鋭い牙が垣間見えた。


「ひと月後に喰らう。お前だけでなく、お前と共に船に乗ってやってきた全員をな」




 その晩。

 弥生は知慧御殿の中にある、人間の女たちのために用意された部屋で横になりながら考えに耽っていた。

 周囲には共に船に乗ってきた女たちがすでに眠りについている。話によると、彼女たちは弥生と違いこの御殿の書庫の管理を任されることになったらしい。災禍王との話を終えて弥生が部屋に入ると、わっと囲まれて命の恩人だと泣きながら感謝されたが、その命を繋ぐものがまだ首の皮一枚であることはおそらく知らされてはいまい。

 まるで人質を取られたかのようだ。

 弥生は小さく溜息を吐く。

 災禍王の命令に従いながら、主人の仇を探す。そして復讐を遂げる。

 仇の鬼が誰なのか……見当もつかない今、やるべきことは山積みだ。

 ただ、災禍王に命じられた仕事は弥生にとっては都合が良いとも言える。彼の名を借りて鬼ヶ島のあちこちを調べ回ることができるのだ。通常であれば御殿から出るのを許されないようだから、仇には近づきやすくなったと言えるだろう。


 あれこれ考えていたらすっかり目が冴えてしまって眠気は微塵もない。

 弥生はするりと床から抜け出し、音を立てないようそっと窓を開けた。

 春先でまだ少し冷たい潮風が頬を撫でる。

 昼間に比べると静かだが、それでも最初に案内された色華いろは御殿には煌々と明かりが灯っていた。


 「財果さいはて」、「色華いろは」、「食虚うろばみ」、「名残なごり」、「睡永とわろみ」、「虐嵐いじらし」、そして「知慧とものえ」。


 あの後、仕事をする上でひとつ大事なことを災禍王は語った。

 それは——鬼とは欲望から生まれ、欲望に従って生きる存在だということだ。

 食欲、睡眠欲、性欲、そのほか様々に存在する欲望。

 鬼は自分が司る欲を満たそうとする。

 そしてその欲が完全に満たされると、

 死ぬと分かっていても、欲への衝動からは逃れることができないらしい。

 それが鬼のさだめ。

 死ぬために生きているようなものだ、と災禍王は言った。


「ちなみに、災禍王さまは何の欲の鬼なのですか」


 弥生が恐る恐る問うと、災禍王は平然と答える。


「俺は知識欲の鬼だ。つまり、俺を殺すのは至難のわざと思うがいい」


 なぜだ、と横でぽかんとしている坂田に対し、弥生は引き攣った笑みを浮かべる他なかった。

 知識というのは、知れば知るほど更なる知識が欲しくなるもの。

 高名な学者でもなかなか満足には至らないものだ。

 つまり、底無しの欲望を司る災禍王に死が訪れることはない。

 ゆえにこの島を統べることができるのだろうと、弥生は合点がいった。


 知識を無限に欲する鬼。

 そして知識を無限に吸収する人間の女。


 ひょっとすると災禍王にとって弥生は相性が悪い存在なのかもしれないが、そうと分かっていても欲求を満たすものであれば手元に置きたくなる、それが鬼の衝動というものらしい。


 ふと、弥生は西の夜空にひときわ明るく輝く星を見つけた。

 あれは宵の明星。

 あの星にはあけと宵、二つ名があるのだとかつて主人に教わった。


 つい感傷に浸ってしまいそうになり、弥生は首を横に振って脳裏に再生しかけた在りし日の思い出をかき消した。


(明日から命懸けの日々が始まる。眠れるうちに眠っておかなくては)


 再び床に戻り、瞼を閉じる。

 考えを手放せば一日の疲れがどっと出て、弥生はすっと眠りに落ちていった。


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明け星姫と百が鬼 乙島紅 @himawa_ri_e

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