肆 鬼が棲まう御殿



 あれから数刻。

 弥生はすでにきじのことが嫌いになっていた。


「だーかーらー、何度言ったら分かるんだオマエ! その濃い着物が先じゃない、あっちの薄いのを先に着て重ねろと言っただろ!」

「そっちこそ何度言ったら分かるの! オマエじゃなくて『弥生』よ! それに私は下女の身分なんだからそんなに重ね着をする必要はないの! 動きにくくてしょうがない!」

「人の世の身分なんて知るか! オマエは災禍王様に選ばれたんだから、相応の格好をしろと言っている!」


 わあわあぎゃあぎゃあ。

 二人(正確には一人と一羽)が喚く声は小部屋の外に漏れ、前を通る鬼と人間たちが何事かと顔を顰めていく。


「お、おい、弥生よ。大丈夫なのか……?」


 見張りとして部屋の外に立っていた坂田はおそるおそる尋ねる。


「すみません坂田様。この鳥、聞き分けが悪くって。もうすぐ出ますから」

「うむ、そうしてくれると助かる。ここは我には少々居心地が悪くてな……」


 坂田は周囲をちらりと見ながら幅広な肩をすぼめる。

 ここは鬼ヶ島の一角、「色華御殿いろはごでん」と呼ばれる場所らしい。

 意外なことに縄に繋がれていない人間を多く見かけるが、その多くは遊女あそびめのようであった。着崩した煌びやかな着物をまとい、鬼にすり寄るように腕を組みながら渡殿を歩いていく。御簾のかかった小部屋がいくつも立ち並び、それぞれの部屋から賑やかな音楽や唄、そしてそれに混じって時折嬌声が聞こえてきた。

 坂田はそれを聞くまいと耳を塞いだ。

 やはり、にわかには信じ難い。

 この島では……人と鬼が共生しているなど。


 弥生が「合格」と告げられたあの後、災禍王は他の鬼たちに毒の入った酒を下げさせた。

 曰く、酒以外に毒は入っていないから料理は食べるようにと。

 そうは言われても、危うく毒を盛られるところだった人々の食指はそう簡単には動かなかった。みな黙ってじっとしていたが、それに構わず真っ先に食事を食べ始めたのは弥生であった。

 どうやら船に乗っている間に胃の中のものを吐き切ったのと、明星眼の記憶を漁ったことで体力を消費して空腹が限界だったようだ。

 彼女が毒は入っていない、あの鬼は嘘はつかないみたいですよ、と言ったことで他の者たちもおそるおそる食事に手をつける。

 その様子を災禍王は愉しげに見つめながら、この島について説明をした。


 まず、最初に彼が生贄たちを「共に働く仲間」と言ったのは嘘ではない。

 この島は七つの御殿を中心に区域が分かれている。

 「財果さいはて」、「色華いろは」、「食虚うろばみ」、「名残なごり」、「睡永とわろみ」、「虐嵐いじらし」、そして「知慧とものえ」。

 それぞれに御殿を治める鬼がおり、生贄船でやってきた人々は月ごとに各御殿に割り振られて仕事を与えられるという。

 人々が不満を抱えて反乱を起こすことは鬼の本意ではなく、基本的には共存する方針らしいが……待遇は御殿を治める鬼に委ねられるそうだ。


「まあ、食虚か虐嵐に配された場合は……正直不運としか言いようがないな。それに比べてお前たち、俺の治める知慧とは運が良い。俺は暴力を好まないし、働きには対価で返すことにしている。……そのぶん選定は厳しくしているが」


 最早口調や態度を取り繕うことをやめた災禍王が「くっく」と笑い、人々は凍りついた。

 先ほど弥生に告げられた「合格」の意味。

 もし「不合格」だったら? 皆この部屋を出ることなく息絶えていたのだろう。


「お前たちには明日から御殿で働いてもらう。詳しい仕事の内容については後で担当の者から聞け。朝夕には自由を与えるが、基本的に御殿から外には出ぬように。他の御殿の者と何かあってもその身の保証はしないからな」


 それだけ言うと、災禍王は部屋から出て行ってしまった。


 その後、食事が終わると見張りの鬼たちの案内で人々は知慧御殿へと案内されたのだが、弥生と彼女の護衛として選ばれた坂田だけは雉の案内で別行動となった。災禍王の部屋に向かうのかと思いきや、なぜか色華御殿の衣装部屋に連れてこられ、今に至る。


 相変わらず弥生と雉は部屋の中で喚きあっていたが、色華御殿の人間たちをまとめているという年配の女が「良い加減仕事に支障が出ちまうよ!」と痺れを切らして扉をドンドンと叩いたのにはさすがに観念しただろう。しんと静かになったと思えば、すごすごと中から出てきた。


「お、おお、弥生……見違えたぞ」


 坂田はうろたえながら感想を漏らす。

 なにせ彼が出会った弥生という女は、激しい雨と濁った波しぶきで濡れそぼった小袖姿であり、髪は潮でべたついて顔に貼り付いていたし、その顔も化粧一つなく寝不足なのかくまが酷くて血色が悪かったのだ。

 それが今、全身を拭い、髪を梳き、化粧を施し、着物を改めたことでまるで別人のようであった。

 宮仕えと言われても疑う者はいないだろう。

 いや、むしろ姫と呼んでも良いくらいか。

 彼女の瞳の色に合わせて選ばれた十二単じゅうにひとえの色合いが特に華々しく、渡殿を行き来する鬼や人も思わずこちらに視線を向けている。


 しかし当の本人はというと、せっかくの衣装が台無しになるくらいずんと暗い表情で今にも白目を剥きそうな顔をしている。


「重い……重すぎる……血の気が引きそう……」

「こらオマエ、勝手に脱ごうとするな! 災禍王様の部屋までなんとか持ち堪えろよ! そのあとは着替えても構わないから!」

「無理な相談ね……それまでに胃の中のものを吐く自信がある……こんなことならさっきあんなに食べなければ……おえっ」

「ぎゃーーーーやめろ!! 着物に吐瀉物をつけるな!!」

「そなた今日何度目だそれ……」


 ……そんなこんなで。

 着物の重みで身動き取れなくなった弥生は坂田が担ぎ、雉の案内で今度こそ災禍王が治める知慧御殿へ向かうことになった。

 御殿はその名の通り豪奢なつくりになっていて、太い柱でできた門をくぐると高くそびえる楼閣が出迎える。都では貴族の邸宅は平屋建ての寝殿造が主流だが、ここは島で敷地が限られるせいか縦に敷地を取る楼閣造りの建物が多いらしい。

 柱や壁の色は全体的に藍色に塗られている。災禍王の羽織っていた着物と同じ色だ。先ほどまでいた色華御殿は紫基調で、ここに来るまでに横を通った虐嵐御殿は赤色だった。御殿を治める鬼ごとに色が決まっているようだ。


 御殿の中に入った一行。

 弥生は思わず感嘆の声を漏らす。


「何これ……! 都でもこんなの見たことがない……!」


 そこは巨大な書庫のようであった。

 壁一面にびっしりと本棚が設えてあり、『古事記』、『日本書紀』、『万葉集』といった国内の代表的な古典はもちろん、古今東西のあらゆる書が所狭しと並んでいた。中には弥生がまだ目にしたことのない彼の国の書まである。

 気分が悪かったのはどこへやら、彼女の瞳はらんらんと輝きだした。今すぐ本棚に駆け寄りたいのか坂田の肩の上でうずうずともがき始める。

 それを見て、雉はどこか得意げに鼻を鳴らした。


「すごいだろう。ここは立地的にも彼の国に近いからな、災禍王様が直接交易で取り寄せている書もある。都なんかより早く新しいものが手に入るのだ」


 彼の説明によると、ここにある書のほとんどは災禍王が集めたもののようだ。ただ彼が表立って人間とやりとりすると怯えさせてしまうので、御殿で働く人間に仲介をさせているらしい。

 話を聞いていた坂田はううむと唸る。


「災禍王殿はよほど書がお好きのようだな。正直、我はここに来るまで鬼とはもっと野蛮な種族かと思っていたぞ。暴力や略奪を好み、人を喰らうけだものだと……」


「それはお前たち人間が鬼とはなんたるかを知らんからだ」


 書棚を眺めていた弥生たちの背後にいつの間にか災禍王が立っていた。

 彼は坂田に担がれた状態の着膨れしている弥生を一瞥し、蔑むような表情を浮かべて言った。


「やけに遅いと思えば、に時間を潰していたのか」


 どうやら当の本人には全く求められていなかったらしい。

 恨みがましい視線を雉に投げ掛ければ、彼は彼で開き直り。


「ええ、全くです災禍王様。この女があれこれ選ぶのに手間取るものですから」

「この鳥ッ! 私は初めから重ね着は必要ないって言ったでしょう!!」


 互いに相容れぬと再び口論になりそうになったその時、弥生の身体がひょいと浮き上がる感覚があった。


「っ!?」


 気づけば彼女は災禍王の腕の中にいた。

 何食わぬ顔で坂田よりも軽々と抱える災禍王。その整った顔立ちと藍色の瞳が間近にあり、無意識のうちに目が奪われてしまう。

 しかしその目線が交わることはない。


「俺の配下で働くにあたりよく覚えておけ。俺は時間の無駄がもっとも嫌いだ」

「……はい」


 低い声。

 気に入られたのかと思いきや、早速機嫌を損ねたようだ。

 何か罰を受けたりするのだろうか。おそるおそる様子を窺っていると、


「部屋までは俺が運んだほうが早い」


 と、それだけ言って、弥生を抱えたまま上階に繋がる階段の方へと歩き出したのであった。


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