参 毒酒




「猛毒、だと……!?」


 坂田の太い腕が震えているのが指先から伝わってくる。


「いやしかし弥生、そなた何ゆえそう思ったのだ。ことによっては災禍王殿に対する無礼になるぞ」


 坂田がちらりと災禍王の方に視線を向ける。

 彼は相変わらず親しげな笑みを浮かべていた。

 それが弥生には白々しく見え、形容し難い悪寒がした。

 幸い、他の生贄たちも弥生の言葉を聞いて手を止めている。まだ酒を飲んだ者はいない。

 人と鬼、その場にいる皆の注目を浴びながら、弥生はごくりと唾を飲み込むと、おもむろに口を開いた。


「私はここへ来る前はとある貴族のお屋敷で下女として働いておりました。私のお役目は勉学が苦手な主人あるじの代わりに書を読み、その内容をかいつまんでお聞かせすること。学問に造詣が深いお家柄でしたから、書庫には古今東西さまざまな書が溢れておりまして、私はそのほとんどに眼を通しております」


 それはつまり、読んだ書の内容はすべて覚えているということ。

 一言一句、紙に書かれたありのままの姿で明星眼が記憶に写しとっているのだ。


「あの鬼はこう言いましたよね。『の国ではこの羽を浸して酒を飲むことが多々あるのだ』と。私の記憶では……そのような酒は一種類しかございません」


 弥生は懐から一冊の書を取り出した。

 表紙はない。

 中身もない。

 書というよりそれは、白紙の紙束であった。


「確証を得るために、少しお時間をいただきます」


 細い指で表紙をめくる。

 それから、ぱらぱらぱらぱらと音が響くほどの速さで彼女は一枚一枚めくっていく。

 書の最後まで行き着くと、再び表紙に戻って最初からめくり直す。

 常人の眼には彼女が急に奇行に走ったようにしか見えないだろう。

 しかし彼女の眼には、しかと映っているのだ。

 彼女が過去に見た記憶が、一言一句違わずに白紙の書の一枚一枚に投影されているのが。

 ただあまりに膨大な記憶だから、ある程度あたりをつけなければ思い出すのに途方もない時間がかかってしまう。

 それを彼女は「読みたいページを探るときの動作」に見立てたのだ。

 記憶の厚み。座標。

 それを白紙の書に触れた感覚で探っていく。


「『離騒』の十一……『春秋左氏伝』、『韓非子』、『史記』の呂太后本紀……ただ、『新修本草』の段階では……いやでも『本草集注』には……」


 高速で書をめくりながらぶつぶつと呟く弥生。

 集中しすぎていつの間にか災禍王が近くまで来ていることにも気づかなかった。


「……邪魔をするなら我が相手になるが?」


 床に置いていた得物を掴み、坂田はぎょろりと視線で牽制する。

 災禍王は足を止め、しゃくを口元に当て不敵に笑う。口の隙間から見える鋭い牙が怪しく光り、愛想の良い隣人ではない、鬼の本性を覗かせるようであった。


「邪魔などしませんよ。ただ興味深いから近くで見ていたいだけです」

「どうだか。弥生の言葉が真ならそなたの言葉はすべて嘘偽りになるからな」

「くく。嘘をついたつもりは無いのだが……。まあ疑うならそれでも構いませんよ。いずれにせよ、そのでは私の肌に傷ひとつつけられないでしょうから」

「なんだとッ!?」


 坂田の大まさかりは彼の最も信頼する相棒である。それを侮辱されて黙っていられるわけがあろうか。頭に血が昇り、勢いのまま立ち上がる。ならば証明してみろと得物を振り上げ、斬りかかろうとした刹那。

 彼と災禍王との間に誰かが割って入ったので、坂田ははっと我に返った。

 弥生である。

 彼女はぱたんと白紙の書を閉じ、それを元の懐へと戻すと呆れたようにため息を吐いた。


「坂田様。どうか冷静になってください」

「ならん! この鬼は我の相棒を蔑んだのだ! このまま黙ってはいられぬ!」

「お気持ちは分かりますが……妙だとは思いませんでしたか。私たちはこの船に乗るときも、降りるときも一度も武器を取り上げられていません。確認すらありませんでした」

「くっ……!」

「それこそが鬼たちの自信の証左です。人が武器など持ち込んだところで無意味だと、そういうことですよね?」


 弥生はちらと災禍王に視線を向ける。

 彼はにやりと口角を釣り上げる。


「ええ、その通り。どうせなら目で見ていただいた方が良いでしょう」


 そう言って、彼は卓上の林檎の横に置かれていた短刀を手に取ると、躊躇うことなくもう片方の掌に突き刺した。弥生は思わず目を瞑る。しかし耳に届いたのは刃が彼の皮膚を裂く音ではなく、金属と金属がぶつかり合うような硬い音であった。恐る恐る瞼を開ければ、ぐにゃりと刃先の曲がった短刀が目に入る。唖然として口が開いたままの人々の注目を浴びながら、災禍王は使いものにならなくなった短刀を坂田の足元へと転がした。

 坂田は唇を噛み、無言でどすんとその場に腰を下ろした。得物を持つ手にも力が入っていない。


「分かっていただけて何よりです」


 災禍王が満足げに切れ長の瞳を細める。

 重い沈黙。

 あの坂田でさえ、この鬼に傷ひとつつけることができない。そんな残酷な事実を突きつけられ、ご馳走を前に浮き足立っていた人々の表情は暗い。


「さて」


 災禍王の視線が向けられ、弥生は身体を強張らせた。


「宴の興はすっかり醒めてしまったようですが……そろそろ聞かせてもらいましょうか。この酒が猛毒だという根拠を」


 相変わらず笑みを浮かべているが、弥生に向けられている視線は獲物を狙う狐の如く鋭い。もしもここででたらめな回答をすれば間違いなく殺されるだろう。それだけは確信が持てた。

 今更ながら、毒酒などと口を挟んでしまったことへの後悔が募る。

 彼女が選んだのはきっと茨の道だ。

 毒酒であることを暴いたとて、その先どうなるか分からない。ひょっとしたら何も知らないふりをして酒を煽ったほうが全員楽に死ねたかもしれない。

 だが、言わずにはいられなかった。


 ——知識は人の為に使いなさい。


 それが彼女の、かつての主人から受け継いだ矜持だから。


「この酒に漬けられている羽根は、鴆鳥ちんちょうのものですよね」


 弥生は災禍王に視線を返す。

 普通の鬼よりひと回りは大きい災禍王は、弥生からすれば自身の一・五倍近くの背丈であり、近くにいると必然と見上げるような形になる。そのせいでただでさえ威圧感を感じるのに、弥生の言葉に彼は一瞬真顔になった。おそらくそちらの方が素の表情なのだろう。しかし災禍王はすぐに貼り付けたような笑顔を取り繕ってみせる。


「どうしてそう思ったのです?」


 尋ねられ、弥生は一呼吸して自らを落ち着かせながら答えた。

 気づけば先ほどから互いにまばたき一つしていない。


「先ほども申した通り、彼の国で鳥の羽根を酒に浸すというのは鴆酒と呼ばれる毒酒しか聞いたことがないのです。いにしえの書によれば、鴆という鳥は毒蛇を食らい、その毒を体内に蓄積しているのだとか。酒に浸しても匂いや味が変わらないので、暗殺に用いられたという話がたびたび見受けられます。……ただ」


 弥生は一瞬口をつぐむ。

 この先は言うか否か迷いがあった。

 しかしここは素直に話した方が得策だろう。

 災禍王の態度を見る限り、おそらくは

 ただ殺すのが目的ならわざわざ羽根を残しておく理由がない。

 彼はあえて羽根を残し、手がかりを与えた。

 気づかれることが目的だったのだとしたら、知っていることは包み隠さず話した方が良いだろうと、弥生はそう判断した。


「本当のところを言うと、鴆鳥は実在が疑われている鳥です」


 室内がざわめく。

 鴆鳥が実在しないのならば、弥生は架空の存在を根拠に酒に毒が入っていると疑ったということになる。

 しかし弥生の瞳は揺るがない。

 災禍王から視線を逸らさず、口を開く。


「ですが、私は実在しないと言われていた存在に出会った」

「ほう、それは?」

「災禍王さま。あなたのことです」


 鬼はまなこを見開いた。よく見ると彼の瞳もまたあおい。瞳孔は猫のように細く、人と異なる種族であることは明らかであったが。

 災禍王はやがてくっくと笑った。


「私が伝説上の存在だと?」

「ええ。鬼という種族は本来は独善的で、一匹狼。他者を頼ったり従ったりすることのない性質から、群れをなすことは『ありえない』と考えられてきました」

「そうでしょうね。その考えは間違ってはいない」


 災禍王が頷く。

 彼の様子を窺いながら、弥生は慎重に言葉を選ぶ。


「でもこの鬼ヶ島は違う。『ありえない』とされていたはずの鬼たちの統率者がいて、徒党を組むことによって都をも揺るがす脅威となりえています。……ならば」


 一度息を吸う。

 重い空気が肺を満たす。

 だが、躊躇いはない。

 迷いは、未練は、命への執着は、船に乗ると決めた時点で棄ててきたのだから。


「ここでは『ありえない』という固定観念は捨てるべきでしょう。実在が確かでない毒鳥がいたっておかしくはない」


 しんと静まる室内。

 人も、鬼も、唾を飲む音すら立てまいとじっと沈黙を守る。

 生贄の女と鬼の統率者。

 睨み合いのような視線のみの対話はしばし続き、やがて。

 災禍王は天井を仰ぐように笑い出した。

 そしてぱちんと指を鳴らすと、天井の隙間から一羽の鳥が入り込んできた。

 雉である。

 鳥はちょこんと災禍王の肩に留まると、くちばしを開く。


「お呼びですか?」


 それは確かに人や鬼の交わす言葉に聞こえた。

 また一つ、『ありえない』ことが起きている。

 そのことに気が滅入る……どころか少し心躍らせてしまっている自分がいる。

 弥生は思わず零れそうになる笑みを口元を覆うことで隠した。

 それを見られたかどうかは分からない。災禍王は彼女を一瞥した後、雉に対してこう言った。


「合格だ。後でこの女を俺の部屋に案内しろ」


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る