弍 災禍王
***
ひと月前、都にて——
雪がしんしんと降り、凍えるような寒い日の早朝。
とある貴族の屋敷の門を叩く乾いた音があたりに響く。
「はい、ただいま」
弥生は返事をして着物を羽織り、下女たちが雑魚寝する部屋を静かに抜け出す。
普段は朝起きるのが苦手な彼女であるが、その日は冷え込みのせいかなぜか一番に目が冴えてしまって、皆が寝入る静寂の中でひとり書を読んで過ごしていた。
冷え切った
こんな朝早くに来客とは珍しい。
そもそもこの家はひと月前から主人が仕事で不在にしている。
今家にいるのは主人に仕える者たちくらいなので、客が来ることもほとんどなくなっていたのだが。
「お待たせしました。どちら様でしょう?」
門をわずかに開けて尋ねる。
少し急ぎ足で来たのもあって、吐く息がもやもやと白くなる。
門の向こうには笠を被った男が二人。どちらも俯いていて表情は窺えなかった。二人の背後には荷運び用の牛車が一台。といっても荷はあまり載っておらず、麻布がかけられたひらぺったい何かがあるだけだ。麻布の上には薄く雪が積もっていて、しばらくすれば覆い隠してしまいそうである。
「
男の一人が低い声で言った。
何やらただならぬ雰囲気を感じて弥生は警戒しながら頷く。
「そうですが、あいにく
「お返しに参った」
「え」
「念のため、ご本人かどうかあらためていただきたい」
お返し……?
本人かどうか確かめろ?
弥生の足はすくんで動かない。
口もぽかんと開いたまま。
嘘だ。嘘に決まっている。
あのお方は、道尚様は、必ず生きて帰るとおっしゃっていたのに。
検非違使の誇りにかけて、必ずや鬼たちを退治して戻ると……。
呆然と立ち尽くす弥生に構わず、男は牛車を門に寄せる。
「我々も色々と手を尽くしたが、この状況だ、身元の判別が難しくてな」
もう一人の男が麻布を取る。
その瞬間、弥生の口から短い悲鳴があがった。
糸が切れたように全身から力が抜け、彼女はその場に膝をつく。
「あ……ああっ…………!」
絶望に目を背けたくなる。
しかし彼女の群青色の瞳は荷台の上にあるものを捉えて離そうとしなかった。
腐臭が鼻をつき、嗚咽とともに胃液がせり上がる。
血に染まった白の
そこに拙く施された家紋の刺繍も。
よれた袴の裾のほつれ具合も。
泥に汚れた指の形、爪の形も。
すべて、確かに見覚えがある。
主人の道尚で間違いない。
たとえ首から上が無い遺体でも、明星眼を持つ弥生には見分けられてしまった。
「道尚さまっ……! 道尚さまっ……!」
とめどなく涙が溢れてくる。
屋敷の方からは他の下女たちが何事かと起きてくる物音がする。
遺体を運んだ二人の男は顔を見合わせると、亡骸を置いて静かにその場から去ろうとした。
「お待ちください……!」
弥生は咄嗟に男の袴の裾を掴む。
「お顔は? 道尚さまのお顔はどこにあるのです」
振り向いた男の顔がわずかに見える。彼もまた瞳が赤らみ、唇には何度噛んだか知れぬほど血が滲んでいた。
「無い」
彼は表情を隠すように俯くと、絞り出すような声で言った。
中原道尚の首は、鬼に喰われてしまったのだと。
***
「……悪趣味な」
弥生は今日何度目か分からない吐き気を堪えながら、眼前の料理を睨む。
巨大の陶器の皿に鎮座するのは、こんがり飴色に焼けた首なしのアヒルの丸焼きだ。
「む。なんだ、鳥は苦手か?」
隣に座る坂田がずいと覗き込んでくる。
「違いますよ。ただあることを思い出しまして」
かつての主人・中原道尚の首のない亡骸。
あの光景は弥生の記憶に強く刻まれているせいか、些細なことでこうして思い出してしまう。
明星眼は一度見たものを鮮明に記憶することができるが、そのぶん見たくないもの・忘れたいものまでずっと記憶してしまう欠点があった。
「なかなか難儀なものなのだな」
「ええ。ただ便利な道具というわけではないんです」
手元に出されていた水を飲んでいたら少し気分が落ち着いてきた。
弥生はひと呼吸したところで、それにしてもと周囲を見渡す。
彼女たちが今いるのは人が百人寝そべってもなお余りが出そうなほど広い大広間だ。寸刻前、鬼ヶ島に着いてすぐに案内されたのがここなのである。乗船人数分の席と豪勢な料理が用意されていて、壁には拙い字で書かれた「歓迎・人間御一行様」などという張り紙まである。
てっきり島に着くなり暴力や拘束が待ち受けているだろうと構えていた弥生にとっては拍子抜けだった。
部屋には四ヶ所の出入り口を守るように見張らしき鬼が立っているが、それくらいだ。彼らの格好も額に生えている二本のツノを除けば都で暮らす貴族となんら変わらないので、とても人を喰うような野蛮な種族には見えなかった。
「弥生。ひょっとすると、彼らは実は友好的な者たちなのではないか?」
「冗談はよしてください。人を喰らう種族ですよ」
「だがなあ。実際、我が鬼を見たのは今日が初めてだ。人にも正邪があるように、鬼もまたそうかもしれぬぞ」
そう言いながら坂田の視線はさっきから卓上の料理に釘付けだ。
坂田だけでなく、他の同乗者たちも料理に興味津々ですっかり気が緩んでいる。
その気持ちは分からなくはない。
先ほどのアヒルの丸焼きを始め、色とりどりの肉・魚・野菜・汁・麺・果物。曲がりなりにも貴族の家で下働きをしていた弥生だが、それでもこれほど豪華な食事は見たことがない。おまけに調理法も珍しい。独特の香辛料の香りが特に鼻腔を刺激してくる。書物で読んだ知識でしかないが、これはおそらく彼の国の宮廷料理だ。
それを生贄たちに振る舞うなど、一体どういうつもりだろうか。
「きっと何か裏が……」
腕を組んでぶつぶつ呟いていると、部屋の前方の扉が開いた。
それを見て見張りの鬼たちが姿勢を正す。
部屋に入ってきたのは、他の鬼たちよりもひと回り背の高い鬼だった。耳の後ろあたりを三つ編みに編み込んだ長い白髪。ゆったりと羽織る女物のような煌びやかな藍色の着物。肌は病的に色白だが、筋肉はしっかりとついているらしい逞しい身体つきで、額のツノは左右のうち右だけ根元の方で折れている。ひと目見た感じでは若く美麗な青年のようだが、服装や立ち居振る舞いからして他の鬼たちとは明らかに位が違うのが見てとれる。
「人の子の皆様、船旅お疲れ様でございました」
彼は恭しくお辞儀をしながらそう言った。
「
切れ長の瞳を狐のように細めて笑みを作る。
鬼が笑顔など不気味ではあるが、敵意は感じられない。
(薄々予想はしていたけど、やっぱり鬼ヶ島の鬼には統率者がいた……それも一人ではないということ?)
少しでも情報を得ようと、弥生は周囲をじいっと観察する。
この部屋には災禍王と名乗る鬼と見張りの鬼以外は見当たらない。隠れているのかもしれないが、それであれば坂田が何か言うだろう。敵の気配とかそういうのには敏感そうな男だ。
見張の鬼たちは災禍王が現れてからどこか緊張した面持ちのように見える。今のところ物腰柔らかそうに振る舞っているが、同族に対しては威圧的だったりするのだろうか。
ともに船に乗ってきた生贄たちはというと、弥生と坂田を含めて全員で十人。うち女たちは災禍王に対して惚けた顔をしている。確かに顔は整っているし、平和ボケして心身ともに
「そこの群青色の瞳のお嬢さん」
不意に声を掛けられ、弥生の胸はどきりと跳ねた。
災禍王の視線が真っ直ぐにこちらへ向けられている。
「心配しなくとも、我々はあなたがたをとって喰らう気はない」
「……どういうことです?」
弥生は思わず聞き返す。だとしたら何のための「生贄」か。
災禍王は相変わらず笑みを崩さない。
「人は一日に二度か三度食事をするのでしたっけ。その感覚からするとご理解いただけないのでしょうが……鬼は本来それほど食事を摂る必要はないのです。現に私など、もうひと月は食事をしておりません」
災禍王の言葉に弥生は目を丸くする。一ヶ月。人間であれば餓死してもおかしくない期間である。形は似ていても生物的にはまったく構造が異なるということなのだろう。
災禍王は肩をすくめ、話を続ける。
「まあ中には食欲過多な者もおりますが……少なくとも私はそうではない。私が受け持つ月にやってくる人には共に働いてもらうことにしているのです。私は何より人に興味がありますから」
そう言って災禍王は見張りの一人に何かを合図した。
彼は一度部屋の外に出て、何かを引いて戻ってきた。台車の上に乗せられた巨大な壺。そこには「酒」とでかでかと書かれている。鬼はそれを人数分の盃に注いでいき、そこに緑色の光沢のある鳥の羽根を漬ける。
「綺麗な羽根……!」
生贄の女の一人が思わず呟く。
災禍王はにっこりと微笑んで言った。
「彼の国ではこの羽根を浸して酒を飲むことが多々あるのだとか。試してみたくはありませんか?」
そもそも酒は貴重な品だ。庶民はおろか、貴族でさえもなかなか手に入れることはできない。人々は目の前に置かれた盃にごくりと喉を鳴らす。
全員に行き届くと、同じものを手に持った災禍王は高らかに告げた。
「これから共に働く仲間となるのです。歓迎の宴といこうではありませんか!」
坂田もすっかりと気をよくしてぐいと盃に口をつけようとした、その時。
「飲んではいけません」
弥生がその手を掴んで止めた。
彼女の明星眼が、冷たく光る。
何事かと皆の視線が集まる中、彼女はきっぱりと告げた。
「このお酒……猛毒です」
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