壱 贄たちの船



 急に悪寒がして、弥生ははっと目を覚ます。

 胃の中のものがせり上がる感覚。

 口元を押さえ、わずかな光を頼りに暗闇をかき分け部屋の外へ。

 金具が緩んでいたのか木の扉は少し押しただけでも勢いよく開き、バタンと外の壁にぶち当たる。

 しかしその音すら掻き消すくらい、部屋の外は酷い大時化おおしけであった。

 痛いくらいに強く打ちつける雨粒。

 ぐらぐらと激しく揺れる船。

 弥生はよろめきながらなんとか船のへりを捉え、限界に迫った濁流を黒い海へと解き放った。


「おえええっ……!」


 船酔いか。あるいは何か悪夢でも見ていたか。

 いずれも彼女にはよくあることで、今更驚きはしない。

 「またか」という諦めを乗せて、吐瀉物はどろどろと口からこぼれていく。


「惜しいことをした……。昨晩は今生こんじょうの別れとご馳走を振る舞ってもらったのに」


 落胆する気持ちとは裏腹に、身体の感覚はすっきりと冴えている。

 弥生は降りしきる雨水で口を拭うと、明け空のような目をじいっと凝らして辺りを眺めた。


 大蛇が空でとぐろをまいたかのような分厚い灰色の暗雲。

 荒れ狂う白波に、黒く濁った海の色。

 まるで世界から色が消えてしまったようだ。

 この船が出発した岸はとうの昔に見失っているし、目的地となる島の姿も一向に見えてはこない。


 まさか、遭難?

 すでに黄泉の国に辿り着いているとか?


 そんな考えがよぎり、弥生は苦笑いを浮かべる。

 しかし他に乗り合わせている人々にとってはその方が都合が良い者も大勢いることだろう。

 なぜならこの船の行く先は「鬼ヶ島」。

 これは鬼へ捧げる供物くもつ——生贄たちを乗せた船だからだ。

 ある者は罪人。

 ある者は謀略に嵌められた者。

 ある者は生活の糧のために売られた者。

 そして、ある者は……。


「皆の者、希望を捨てるにはまだ早いぞ!」


 出てきた船室の方から声がする。

 激しい嵐の轟音に負けない豪放磊落ごうほうらいらくな声である。

 気になった弥生はそっと部屋の戸の隙間から中の様子を窺った。


 薄暗くてはっきりとは見えないが、うずくまっている人々が多い中で一人仁王立ちする大柄な武人が一人。その腕や足は棍棒のように骨太で、さらに勇ましさを強調するかのようなきりりとした太い眉が特徴的だ。背には見慣れない得物を背負っている。それは、岩でも叩き割るのかというくらい巨大な斧だった。普通の人間ならば持ち上げることすらできまい。


(あれは……)


 弥生が思い出す前に、本人は自ら高らかに名乗り出る。


「我こそは坂田金時さかたのきんとき。都一番の力持ちと称され、このたび帝より直々に鬼退治の命を受けここに参った!」


 俯いていた人々が次々に顔を上げる。

 坂田金時といえば確かに都では名の知られた武人であった。


「本当に、本当にあの坂田様なのですか?」


 一人の女が縋るように尋ねる。

 坂田はうむと力強く頷いた。


「正真正銘、我が坂田金時だ。その証拠にこの大斧まさかりを見よ! 金の字が彫られていよう。これを持てるのは我の他にはおらん」


 座り込んでいた人々がぞろぞろと近づき、坂田の斧を確認しては感嘆の声を漏らす。

 まずいな、と弥生は爪を噛んだ。

 確かに彼は坂田金時。それについては疑うつもりはない。

 彼女がしている坂田の容貌とも一致している。

 ただ……。


「帝から直々に命を受けたというのは真か?」


 もう一人、痩せ細った男が尋ねると、坂田は懐から丁寧に折り畳まれた書簡を取り出した。


「これがその宣旨せんじである。慈悲深き帝は、昨今の鬼どもによる民への被害をひどく憂いておいでだ。そこでこの坂田に直々に鬼退治をお命じくださった。ああ、皆は運が良いぞ! 鬼など我が斧で一網打尽にしてくれよう! かような粗末な船であるが、大船に乗ったつもりでいるが良い!」


 がはははは、と坂田の笑い声が船室に響いた。

 彼の笑い声には邪気祓いの効果でもあるのか、先ほどまでの暗澹とした空気はどこへやら、皆の表情に希望が灯り始めている。

 しかし弥生だけは曇った顔のまま。

 面倒ごとには巻き込まれたくはなかったのだが、放っておくのはあまりに不憫だった。

 雨でびしょ濡れの小袖姿でずかずかと部屋に戻り、坂田の目の前で足を止める。

 坂田はぎょっとしたように目を見開いた。


「おお、そなた一体どうしたのだ。あまりの辛さに海へ身投げでもしようと思ったか? なんと哀れな……! しかし案ずることはない! この坂田が同乗するからには、誰一人傷ひとつつけさせは」

「その宣旨、日付はいつのものですか」

「うん? いきなり何を……」

「だから、その文の中に書かれた日付はいつかと聞いているのです」

「お、おお。日付、日付……いつだったか」


 坂田が太い指で宣旨の文を開く。

 弥生は瞳を細めてそこに書かれた内容をじっと見つめた。

 日付は今よりひと月前の二月三日。


「……偽物ですね」


 瞼を閉じ、きっぱりと断じた。


「偽物!? そなた、畏れ多くも帝の文に疑いをかけるなど……!」

「簡単なことです。その日、帝は物忌ものいみでしたから」


 物忌。それは陰陽道の考え方で、穢れを避けるために謹慎することを指す。

 帝が物忌の日は特に宮中大掛かりでお祓いのための儀式が優先され、政務が止まることも少なくない。ゆえにこの日付で宣旨が出されることは考え難いのだ。

 ちなみに、宣旨というのは帝の命令を記した文書であるが、帝が直筆するものではない。弁官という役人に伝えられ書かれるもののため、体裁さえ知っていれば偽造は存外簡単だ。

 ……弥生のように、宣旨を書く弁官の筆跡をしている者相手でなければ。


「その文書を書いたのは弁官ではないですね。おそらくは別の誰かが坂田様を鬼ヶ島に向かわせるために偽造したのでしょう」

「そんな馬鹿な……! そもそもなぜそなたにそのようなことが分かる?」


 鼻息荒くする坂田に対し、弥生は落ち着き払って自らの瞳を指差してみせた。

 明け方の空のように群青色の虹彩に、その縁を飾る日の出のような朱色。


明星眼みょうじょうがん、といいます」

「みょうじょう、がん?」

「この眼で一度見たものは私が望もうと望むまいと脳裏に刻まれる体質でして。私は一度本物の宣旨を見たことがあるので、筆跡が違うと分かるのです」

「むむ。かような能力があるなど、にわかには信じ難いが……」

「そうですね、すぐには信じていただけないでしょうから、少しお時間をいただいても?」

「いったい何をする気だ」


 坂田の問いに、弥生は不敵に笑ってみせた。


「その文を書いた人物を当ててみせましょう。人の筆跡の記憶は膨大ですから思い出すのに時間はかかりますが、どこかで見たことのある筆跡であれば当てること自体は可能です。きっと坂田様の知る人物が挙がると思いますよ」


 すると坂田はぶんぶんと首を横に振った。


「いや、いい。当てたところで何か得するわけでもない。であれば我はこれを本物と信じて鬼ヶ島に乗り込むまでよ。たとえこれが偽物でも、帝が鬼を疎ましく思っておられることには変わりないであろう?」

「…………」


 弥生は曖昧な笑みを浮かべる。

 この人は知らないのだ。

 帝は鬼退治などとうに諦めてしまっていることを。


 そもそも「鬼」というのは。

 古来より人の営みの隣に潜み、人に害なすものとして恐れられてきた種族である。

 と言っても、従来多くの人々にとって「鬼」は伝説上の生き物でしかなかった。

 彼らは独善的で、群れることはない。人への被害も死体を漁ったり山中で人攫いをしたりする程度で、人間社会を揺るがすほどの脅威ではなく、鬼と遭遇しないまま生涯を終える人は少なくなかったのだ。


 状況が変わったのは今より五年前。

 都から離れた北東の方角の海。その沖合にある島に鬼たちが集まっているのを地元漁師が発見した。

 当時は漁師の見間違いではないかと誰も気に留めなかったが、ほどなくしてその漁師の住んでいた村から若い女子おなごが消える事件が起きる。近隣の村でも同じような事件が相次ぎ、生き残った村人たちはこれ以上鬼による被害を増やさないため、月に一度生贄を捧げることを鬼に約束してしまった。

 それから数年、困窮した村人たちは都へやってきて、帝に嘆願書を提出した。村にはもう生贄として送れる人間がいないので都からも人を出してほしい、という内容であった。

 しかし一国を治める主としてはそうやすやすと鬼からの要求を飲むわけにはいかない。帝は鬼どもを根絶やしにすべく、信頼できる検非違使や腕利きの武人たちを集め、鬼ヶ島へ送り込むことを決める。それが、ふた月前のこと。


 その結果どうなったかというと。

 誰一人帰っては来なかったのである。


 正確には、亡骸となって帰ってきた。

 皆身体のどこかを鬼に喰われ、それは無惨な姿であった。

 恐れ慄いた帝は鬼からの要求を呑むことを村人たちに伝えると、物忌みで引きこもってしまった。

 なお、先の派兵は

 彼らが全滅したと民に知られればいたずらに不安を煽ることになるからだろう。

 だから、一部の者を除いて知る者はいない。

 知っていても他言しないようにと言われている。


「——うっ」


 ふとが脳裏に浮かび、弥生は口元を押さえた。


「そなた大丈夫か!? ずいぶん顔が青いが」


 坂田の分厚い手がよろめいた弥生の細い肩を支える。


「大丈夫、です。よくあることなので……」


 青ざめたまま、弥生はおもむろに顔を上げた。

 船室の中は坂田を除いて再び暗澹とした空気に戻っていた。

 弥生が宣旨を偽物だと言ったことでわずかに抱いた希望を失ってしまったのだろう。

 それでいい。その方がいい。

 余計な期待は絶望への落差を大きくするだけだ。

 だが……。


「皆、すまぬ! 宣旨は偽物だったらしいが、我が鬼退治をしようというのは変わらん!」


 坂田はぶれなかった。

 せっかく弥生が余計な期待をなくしてやったというのに、また他の者たちを鼓舞するように言う。


「それに安心してほしい。我には強力な味方がいる!」


 弥生はやれやれと肩をすくめた。

 だからその後ろ盾となりそうな宣旨は偽物だと言ったばかり——


「この女だ!」


 がっと肩を組まれ、弥生は思わず「はぁ!?」と声を上げた。

 彼女に構わず坂田は「がはは」と笑いながら大声で言う。


「皆、先のやりとりを聞いていたであろう? 彼女のような聡い者がいれば百人力! 狡猾な鬼どもの策略にも太刀打ちできようぞ! だから引き続き大船に乗ったつもりでいるが良い! 鬼どもは我ら二人で退治してくれる!」


 再び人々の表情に灯る希望の光。

 きらきらとした眼差しが向けられて眩しかった。

 弥生は坂田の腕を振り解こうとするがびくともしない。なんて豪腕。

 ぺしぺしとぶ厚い胸板を叩いてみるも、あまりの硬さにこちらの手のひらが腫れてしまいそうである。


「ちょっと、坂田様。私は鬼退治するなんて一言も言っていないのですが」


 弥生は心底迷惑そうな表情で訴えてみたが、坂田はにこにこと笑みを浮かべたまま、皆に聞こえないくらいの小声で言った。


「だとしてもそなた、ただ鬼に喰われるためにこの船に乗ったわけではなかろう? でなければ懐に短刀を忍ばせたりはするまい」

「っ……!」


 弥生ははっとして胸元を押さえる。

 そこにあるひやりと冷たい感触。

 単細胞でもさすがは腕自慢の武人。武器のありかは簡単に見破られていたようだ。

 彼女は観念したように溜息を吐き、だらりと手をぶら下げた。


「分かりましたよ。私にできることがあるなら協力しましょう。でも、気をつけてくださいね。目的のためなら私はあなたを囮にすることだって厭わないですから」

「うむ。そなたも気をつけておくことだ。囮のつもりが我なら生きて戻ることだってあるかもしれぬからな」


 気づけば船室の隙間から光が差し込んでいた。

 嵐が止み、日が出てきたようだ。

 船の揺れは緩やかになり、遠くから角笛を吹くボーという音が聞こえてくる。


「もうすぐ着くようだな」


 坂田の言葉に、弥生はごくりと唾を飲み込んだ。

 一人船室の扉を開け、船の甲板へと出た。

 次第に大きくなってくる、鬼ヶ島の影。

 弥生は懐の短刀の柄をぎゅっと握りしめた。


 ここにいる。

 ここにいるのだ。

 主人あるじを殺した、憎き鬼が。


 船はまもなく島へと辿り着く。

 そこに乗る者たちは皆、鬼へ捧げる生贄たち。


 ある者は罪人。

 ある者は謀略に嵌められた者。

 ある者は生活の糧のために売られた者。

 そして、ある者は……復讐のために自ら志願して乗り込んだ者。


「絶対に、殺してやる」


 弥生はそう呟き、船室へと戻るのであった。



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