明け星姫と百が鬼

乙島紅

序 桃夭



 群青色の薄明はくめいの空。

 東の空にそっと輝く金の星。


 朝露が桃の葉の上をつうと滑り、先端で軽やかに跳ね落ちる。

 無垢な雫が濡らしたのは、血と泥で汚れた若い女の頬だった。


 覚醒とともに思い出す全身の痛み。

 女は一瞬眉をひそめ、わずかに呻く。

 ごんごんと鐘が打ち鳴らされているがごとく疼く頭を手で押さえ、ゆっくりと瞼を開く。

 その瞳の色は、まさしく今の空をそのまま映したかのようだった。

 世にも珍しい群青色の虹彩。そのふちは夜明けを告げるかのような朱色。


「ようやく起きたか、明星眼みょうじょうがん


 彼女の傍らにいるきじさえずる。


「その呼び方はやめてと言ったはず。弥生やよいよ、弥生」

「それより明星眼、あの子はどうした? ちゃんと無事なのだろうな」


 相変わらず聞き分けの悪い鳥だ。

 弥生は呆れたようにかぶりを振った後、懐からそっと一つの果実を取り出した。

 ほのかに色づく、小さな桃。

 しかし普通の桃ではない。

 ぼうっと淡い光をたたえており、人肌のようにほんのりと温かい。

 耳を寄せてみると、中からとくとくと小さな鼓動が聞こえてきた。


「うん、大丈夫。生きてる」

「本当か!? 本当に本当なのだな!?」

「疑うなら自分で確かめてよ」


 喚く雉の頭に桃を近づける。

 途端、その小さな丸い瞳からぶわっと涙が噴き出した。


「おお……! 生きて……! 生きていらっしゃる……!」


 そんな雉とは対照的に、「鳥って泣くんだ」と冷静に彼を観察する弥生。

 そもそも鳥が喋ることに何の違和感も持たないのかと言われればそうであるが、この鳥とはそれなりの付き合いになるのでもう彼女の中では当たり前のことになってしまっていた。

 それ以外にも、では妙なことばかり起きるものだから。


 ぴゅうと音を立てて強い風が吹く。

 周囲に群生する桃の木の葉が一斉になびき、一瞬開けた林の向こうの景色。

 一面に広がる青い海と、その先にあるゴツゴツとした岩でできた島。

 あれは鬼ヶ島。

 その名の通り、人に害なす鬼たちが暮らす島。

 弥生はあそこから逃げてきたのだ。

 海を渡り、浜辺を走り、山を登り。

 今いる場所はおそらく山の頂上にあたる場所。

 ここから海と反対側に下れば人里がある。

 なんとかそこまで落ちのびたい、けれど。


 立ちあがろうとして、弥生は痛みに呻くと同時に右膝を折る。その脛には矢が刺さっていた。血はすでに渇き、赤黒くべっとりと彼女の足に張り付いている。

 これではまともに歩けそうにない。

 さらに悪いことに、眼下に見える浜辺には彼女が乗ってきた船とは違う船がいくつも着いていた。おそらくは追っ手だ。この場所が見つかるのも時間の問題だろう。


 弥生は奥歯を噛み締める。

 そろそろ潮時か。


「例の、頼んでおいたことは?」


 雉に尋ねると、彼は林の奥をくちばしで指す。


「あっちだ。一里ほど先に小さな沢を見つけた」

「沢の流れの向きは?」

「海とは反対側だな」

「うん。他には?」

「無い。ざっと飛んで回ってみたが、他に水の流れは見つからなかった」

「……よし」


 弥生は頷き、近くに落ちていた棒切れを拾ってそれを支えになんとか立ち上がった。

 桃を懐にしまい、雉が指した方角へとよろよろ歩き出す。

 雉は慌てた様子でぴょこぴょこと後ろについてきた。


「おい待て。一体何をするつもりだ」

「言ったら君は反対すると思うよ」

「なんだと!? だったら尚更……!」

「けど、この子が助かるにはもうこの道しかない」


 弥生の言葉に鳥は口をつぐんだ。

 彼が静かになったことで麓の方のざわめきがかすかに聞こえてくる。

 刻一刻と追っ手たちが迫ってきているようだ。


「……わかった。オマエに託す」


 雉はわずかに飛び上がり、弥生よりも数歩先へと降り立った。


「こっちだ。来い」


 案内をしてくれるらしい。

 弥生は頷き、雉の後を追った。

 獣道の草木をかき分け、時にしゃがんで木々の合間をくぐり、奥へ奥へ。

 次第に涼やかな水の音が聞こえてくる。

 その音が聞こえているのか、桃の鼓動もまたとくんとくんと高まっていた。


「大丈夫。大丈夫だよ」


 言い聞かせるように弥生は呟き道を進む。

 身体を動かすたび、痛みで額には脂汗が浮かんだ。

 それでも彼女は歩みを止めない。

 脳裏に焼きつく、の言葉にき動かされて。



 ——こんなことで満たされるな。


 ——「鬼」となりたくば、求めて、求めて、求めてみせろ。



「着いたぞ」


 雉がそう言った時、弥生の全身はひどく熱を帯びていた。傷を放置したせいだろう。この身体が動かなくなるか、追っ手に見つかるか。いずれにせよ、終わりの時は近い。

 だから、その前に。

 やるべきことをやらなければ。


 弥生は再び懐から桃を取り出す。

 両の手の平でそっと包み、頬を寄せて。


「あなたは生きて。太郎……」


 そう囁くと、澄んだ沢の流れに桃を託した。

 桃はどこか頼りなげに揺さぶられながら小さな川を下っていく。



   桃の夭夭ようようたる

   灼灼しゃくしゃくたりの華

   の子とつ

   室家しっかよろし——



 声を掠れさせながら、弥生は歌う。

 の国の古い詩だ。

 本来は嫁いでいく娘に向けた言祝ことほぎだが、不意に思い出した。


 この沢はやがて川となり、山の麓に流れ着く。

 川は人々の生活の源だ。

 麓の村に住む誰かがきっと気づいてくれるだろう。


 どうか、優しい人に拾われますように。


 弥生は瞼を閉じてただ祈る。 


「オレは念のため様子を見守るが、オマエは」


 雉は弥生の方を振り返り、それからどこか哀しげに鳴いた。


「……オマエのそんな顔、初めて見た気がするよ」


 沢の側の木にもたれかかるようにしてこと切れた弥生。

 その顔は、わずかに微笑んでいた。

 まだまだ若い、花ざかりの年齢のくせに。

 悔い一つ無いと言わんばかりの満足げな顔。

 雉からすれば、腹ただしさすら覚える顔だった。


 彼女の物語はここで終わった。

 だが、あの子が大きくなればきっと彼女の本懐は遂げられる。

 そしてそこに自分も協力せざるを得ないだろう。


 全ては彼女が仕組んだこと。

 彼女の思い通りにことが進んでいる。

 一見悲劇に散った哀れな若者のようだが、

 その実、鬼以上に欲深く、ずる賢い女。


「まあ、だからこそあのお方はお気に召したのだろうな」


 雉はそう呟き、その場から飛び去った。

 上空から見れば、小さな桃は滞りなく川をゆらゆらと下っている。

 どんぶらこ、どんぶらこと。


 そう。

 これは、誰もが知る「桃太郎」と呼ばれる少年の、

 誰も知らない「母」の物語。


 彼女のことを語るには、時を数年巻き戻す必要がある——


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