無名夜行 炉辺談話

青波零也

緑の目の怪物

 ――『異界』。

 ここではないいずこか、此岸と彼岸、この世とあの世、もしくは、いくつも存在し得るといわれる平行世界。そんな未知の世界に異界潜航サンプルを放ち、そいつが得た情報を分析するのが俺たちの仕事。

 だが、正直なところ、今の俺はそれどころではなくて。

「Xうううう聞いてくださいよおおおお」

 とにかく、話を聞いてもらいたかったのだ。しかも誰でもよいわけじゃない、俺の話をしっかりばっちり最初から最後まで聞き届けてくれる、最高の話し相手に。

 寝台の上に腰掛けたXは、ちょっと焦点のずれた目でじっと俺を見上げてくる。傍目には俺の親くらいの世代に見える――実際にはもうちょい若いらしいが――この冴えない面構えのおっさんが、『異界潜航サンプル』。生きた探査機、使い潰せる実験動物。

 俺はこのおっさんについて、Xという識別記号と、刑の執行を待つ死刑囚だということしか知らされていない。サンプルの運用に背景情報は必要ない、というのがリーダーの判断だし、まあ、それに異論はない。

 何よりも重要なのは、Xが、俺の理想の話し相手だということだ。

「この前からずっと話してるじゃないっすか、彼女のこと!」

 Xは小さく頷いてみせる。Xはリーダーの許可がない限り声一つ出そうとしない。何もリーダーが喋るのを禁じたわけではなく、自分の意志でそうしているんだとか。そういうところも含めて、とにかく変なおっさんだ。

 だが、それはつまり、俺が話している間は、絶対に余計な口を挟んでこないということでもある。

「もうこの前までめちゃめちゃいい雰囲気で! 最高の雰囲気のままゴールインできるんじゃないかって信じてたわけですよ! 今度彼女の親御さんにご挨拶に行こうか、なーんてお話もしちゃったりして! なのに突然! そう、昨日突然ですよ! 彼女が打って変わって冷たくなっちゃって! 昨日は帰りに落ち合ってデートとしゃれこむつもりだったのに、待ち合わせ場所に顔も見せないし、慌ててLINEしたら、別れたほうがいいんじゃないかって言い出して! いきなり! いきなりなんですよ! マジで!」

 Xがぱちぱちと瞬きして、不思議そうに首を傾げてくる。喋らない代わりに態度が雄弁なのがXのいいところだ。言葉にせずとも、俺の話を聞いてくれている、ということはわかるから。

「心当たりなんて全然ないし、どうして突然そんなこと言い出したのかも教えてくれないし……。いや、ほんと、途方に暮れるしかなくて……。LINEもあれきり既読スルーだし……」

 こんなこと、Xに話したところで仕方ない、といえばそりゃそうなんだが。リーダーにこんな話をするのはちょいと気が引けるし、サブリーダーは「無駄口叩くな仕事しろ」と一刀両断。先輩たちも俺の話には半笑いを浮かべるもんだから、真っ当に話を聞こうとしてくれるXの存在がどれだけ貴重か。

 Xはじっと俺を見ながら、険しい顔で何かを考えているように見えた。一緒になって原因を探ろうとしてくれているのだろうか。だが、俺にわからないものがXにわかるはずもない。考えてくれるのはありがたいけれど……。

「珍しく二人して深刻そうな顔してるわね」

「リーダー」

 割って入ってきたのは、外で休憩していたはずのリーダーだった。リーダーは俺がXと話をしていても、サブリーダーのように「Xに余計な話をするな」と口うるさく言ってこないから助かる。

 Xはリーダーの方に視線を向けて、先ほど俺に向かってそうしてみせたように、軽く首を傾げてみせる。何かをリーダーに伝えようとしているのだろうか、と思っていると、リーダーが口元に指を持って行って、言う。

「何か言いたいことがあるなら、発言を許可するけど」

「ありがとうございます」

 Xの口から、低い声が漏れて。それから、俺に視線が戻ってくる。

「話を聞いているうちに、質問が、できたので。迷惑でなければ、聞いてもらえますか」

 まさかXが俺への「質問」のためにわざわざ口を開くとは思わなくて、面食らう。そんな大した話のつもりじゃなかったのだが――いや、そりゃあ俺にとっては一大事だが、Xにとってはそうではないつもりだっただけに、自然と背筋が伸びてしまう。

「迷惑なんかじゃないっすけど……、何すか?」

「まず、『らいん』って、何ですか?」

 ――質問って、そこから?

「ええと、音声通話したり、メッセージをやり取りしたりするスマホのアプリっすよ」

「すまほ? あぷり……?」

 それもわからないのか、と思っていると、横からリーダーが助け船を出してくれた。

「スマホはスマートフォンの略。『最近の携帯電話』の呼び名だと思ってくれればいいわ。アプリはアプリケーションの略で、スマートフォンの内部で動くソフトウェア、と言えばわかるかしら。ちなみに既読スルーっていうのは、LINEの機能で相手がこちらのメッセージを読んでいるのはわかるけど、返事をよこさない、ってことね」

「なるほど」

 Xはその説明で納得したらしい。多分。このおっさん、時々わかってもいないのに「なるほど」って言うから、疑惑は残るけれど。

「つまり、恋人から電話で一方的に別れを告げられ、以降連絡もつかない」

「ざっくり言うとそういうことです」

 単なる確認のつもりだろうけど、改めて言葉にされると堪えるな。Xがどこまでも真剣な面と声音をしてるから、余計に胸に来るものがある。これ、いっそ笑ってもらえた方が気が楽だったのでは?

 Xはしばし黙った。まさか質問はそれだけなのか、それだけのためにわざわざ口を開いたのか。そんな危惧に囚われていると、不意に、Xが言った。

「昨日は、確か、午後から雨でしたよね」

「そうでしたね。早めに仕事も上がれるし彼女と会えるしって浮かれてたんですけど、天気だけはどうにもならない……、って、X、どうして知ってるんすか」

 この研究室の窓は分厚いブラインドで覆われているし、窓や壁越しに外の気配が伝わらない作りになっている。異界潜航サンプルに外界の情報を必要以上に与えないため、ということらしい。

 だから、Xが「午後から雨」なんて情報を知るはずがない、と、思っていたのだけれども。

「昨日の『潜航』が終わった後、皆さん、傘の話を、していました。持っている人も、忘れた人もいたようでした。だから、朝は晴れていたのかな、と」

「そうね。確かにそうだった。よく聞いてるわね」

 リーダーが感心したように声を上げる。俺だって感心しなかったといえば嘘になるが、すぐに我に返る。俺は何も、こんな話をしたいわけじゃないのだ。

「でも、雨が降ったことと、俺が彼女と破局の危機にあることに、何の関係があるんすか」

 人の話は真面目に聞くが、その一方で普段から何を考えてるのかさっぱりわからないXのことだ、本当に関係がない可能性も零じゃない辺りが怖いところだが――。

 Xは俺の言葉に対して浅く顎を引き、それから何故かリーダーに目を向けた。

「……昨日、傘、忘れましたよね」

 まさか話を振られるとは思っていなかったのだろう、リーダーは目を丸くして、それから「ええ」とXの言葉を肯定した。

「困っちゃった。ここ、私が使う駅までちょっと距離あるから」

「だから、同じ駅を使う人の傘に、入れてもらった。ですよね?」

 そこまで話が及んだことで、俺にもやっとXの言わんとしていることが理解できた。できてしまった。

 昨日、雨が降ることは天気予報で知っていたから、俺は傘を持っていた。けれど、リーダーは持っていなかった。そして、俺とリーダーは、普段から同じ駅を使っている、わけで。リーダーの目がこちらに向けられて、俺の視線とばっちり合う。

 俺とリーダーの反応を肯定と見たんだろう、Xはもう一度浅く頷くと、「ここからは、私の推測、ですが」とぽつぽつと言う。

「『彼女』さんは、昨日、あなた方が寄り添って一つの傘を差しているところを、目にしたんじゃないでしょうか。あなた方に他意はなかったと、思いますが」

「け、けど、彼女との待ち合わせは別の駅で……!」

「迎えに来た、んじゃないですか。あなたが、帰る時間と、普段使っている駅を伝えていれば、可能です。例えば、あなたを、ちょっと脅かしてみたかった、とか。理由はいくらでも、考えられます」

 そうでなくとも、たとえ一駅分、二駅分の距離と時間であろうとも、好きな相手とならもっと長く一緒にいたいと思いませんか。そう、Xはクソ真面目な面で言うのだ。

「けれど、心弾ませてあなたを待っていたのに、あなたは、知らない女性と、相合傘をしていた。もしかすると、傘の下、楽し気に談笑していたのかも、しれません」

 まるで見てきたように言ってのける。そりゃあ、リーダーと一緒に駅まで行くことは結構よくあることで、お互いにちょっとした話をしながら帰るのは、当たり前で。

 そう、俺は、リーダーをことさら「異性」と認識していなかったのだと、今更気づかされる。

 だが、彼女からしてみれば。

「裏切られたと、感じても、おかしくはない」

 そういうことに、なってしまう。

 しかも、リーダーは、控えめに言ってもとびきりの美女だ。……普段一緒にいる俺たちスタッフの間で、その事実は意識されなくなって久しいが。まあ、そういう人なのだ。

 しかし、いくらリーダーが「そういう人」であったとしても、何も知らない彼女が俺と一緒にいるリーダーを遠目にでも目にしていたとしたら、どう考えるかの想像は容易い。容易すぎる。彼女は、ちょっと……、いや、かなり、嫉妬深い性質だから。

「しかし、『勝手に』あなたの職場の最寄り駅に足を運んで、仲睦まじい二人の姿を目にしてしまった、ということを、あえて言うのも、躊躇われたのでは、ないでしょうか」

「だから、理由については何も言わなかったってこと、っすか……」

「けれど、事実を知らない、ということは、想像を広げることを止められない、ということでも、ある」

 ――人は、いつだって、悪い想像が真実であるかのように、錯覚します。

 低い声で呟かれたXの言葉には妙な重みがあった。きっと、Xにも色々あったんだろうな。人の想像力とやらに振り回されたことも、一度や二度ではなかったのかもしれない。その結果として人を殺して回ってちゃ世話はないが。

「……そして、これも、私の推測に過ぎません。言ってしまえば『悪い想像』の積み重ねです。あまり、真に受けないでください」

 そう、Xは「話を聞いただけ」に過ぎない。俺がXに語ってきた彼女についての話と、昨日の帰り際に雨が降っていた、という俺たちスタッフの話、たったそれだけの情報から組み立てられた、根拠の薄い想像。だが、少なくとも、俺にとってはそれなりの説得力がある説だった。

 そりゃあもう、リーダーの姿を見て嫉妬に狂う彼女の姿がありありと目に浮かぶ。いっそ問い詰めてくれりゃお互い気が楽だろうに、そうはできない、という辺りが、また、彼女らしいといえる。

 Xが言った「躊躇われる」というのもそうなんだろうが、確かめるのが怖いってが一番の理由じゃないだろうか。俺の心が離れてることを、直接突きつけられるのが怖いということ。事実とは異なる悪い想像に溺れながらも「本当のことを知りたくない」って考えてしまうのは、何となくわかるってもんだ。

 だが、このXの推測が正しいとするなら、問題はかなり深刻だ。

「あの、X……、俺、どうすりゃ彼女の誤解を解けますかね……」

 彼女の方から打ち明けてくれない限り、俺が何を言ってもきっと聞いちゃくれない。余計なことを言えば絶対に逆効果、なわけで。藁にも縋る気持ちでXを見やると。

 Xは、そりゃあもう、きょとーんとした顔で首を傾げて。

「さあ」

 と、のたまうのだった。

「ここまで言っといて投げるの!?」

「申し訳ないのですが、それは、専門でないので……」

「アンタの専門って一体何なんすか!? ねえ!?」

 詰め寄らずにはいられない俺、どこまでもしれっとした面で首を傾げるX。そしてリーダーはといえば、そっぽを向いて、声を殺して笑っていた。いや、これ、元はと言えばリーダーのせいなのでは? リーダーが傘を忘れさえしなければ俺はこんな目に遭わなかったのでは?

 思わず二人を交互に睨んでしまう俺に、Xはもう一度だけ「お役に立てず申し訳ない」と付け加えてから、ごくごく真面目な調子で言うのだ。

「仲直り、できると、いいですね」

 俺は、Xがどうしてわざわざこんな「推測」を披露したのか、そもそも、どうしてここまで真剣に話を聞こうとするのか、知らない。

 知らない、けれど。

 ここにいて、俺の下らない話を聞いてくれる。それだけは、確かなことなのだった。

「……そうっすね。仲直り、しますよ、絶対に」

 ――俺にとってのXとは、そういう、変なおっさんだ。

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