五人目 約束の魔女
――帰って来いよ。
葉書にはそれだけが書かれていて、私は、五年ぶりに帰郷した。
*
親に怒られない程度に荷物を片付けてから、大急ぎで自転車に跨がる。自分から呼び出しておいて先に到着していないというのは、なんとなく違う気がするから。
それに、
「あっつ……」
九月になったばかりで、まだまだ夏は残っている。
この街を出た時と変わらないはずの暑い風は湿気を多分に含んでいるけれど、山々を越えてきたそれにはどこか清涼さがあった。ここ数年で慣れてしまった湿りきった海風との違いを感じて、私は溜め息をつく。
畑が左右に広がる道を走り、途中で右に曲がる。樫の木さま、と呼ばれるお社を囲う森は、変わらずにそこにあった。
「ただいま戻りました」
いつもの場所に自転車を停めて、鳥居の前で挨拶をする。中へは入らずに自転車のところまで戻り、すぐ横のバス停に置かれているベンチに座った。
頭上を覆い、強い日差しを遮ってくれる木々。仰ぎ見ればちらちらと揺れる木漏れ日が眩しかった。
そうしてしばらくぼけっとしていると、遠くから、りりん、というベルの音が聞こえてきた。頭を元の位置に戻し、道路の方を見る。一台の自転車がこちらへ向かってきていた。
「創くん」
あっという間に目の前まで来た自転車に駆け寄る。本物の創くんだ。しばらく会わない間に、少し老けた気がする。
「あぁ、久しぶり」
彼は私の頭から足までをざっと見て、「変わらないな」と笑った。それから手早く自転車を停める。
創くんの笑顔も変わらないけれど、その通りに言うのは気恥ずかしくて、私はついさっき思ったことを口にする。
「創くんは老けた」
「知ってる」
家の仕事を手伝っているのだろう。高校生の時よりも日に焼けているようだ。じっと彼を見ていると、その表情は次第に呆れを滲ませた。
「何してんの。行くんだろ?」
そう言ってさっさと山道の方へ行ってしまう。私は慌ててその背中を追いかけた。傾斜が出てくる手前で道から外れる。低い木々の下を抜けていく。そして、
圧迫感のあるけもの道を進むと突如現れる、私たちの秘密基地。
並んで腰を下ろすと、創くんはショルダーバッグからクリアファイルを取り出した。挟んであるのは数枚の紙。本当なら葉書ではなく、これが送られてくるはずだったのに。
私は反射的に手を伸ばし――
「ちょっ」
クリアファイルを持っていた創くんの手が急に引かれて、伸ばした私の手が宙を掴む。もう、と軽く睨むと、彼は想像以上に真面目な顔をしていた。
「藤沢。本当に、今年の手紙はあれで全部か?」
何を言いたいのかがわからなくて、目を瞬く。
「そこにいて直接見たわけじゃないから、ちゃんと書けてるか自信がないんだよ」
「……全部だよ」
別に書けていなくたって良い。それよりも、私は他のことにがっかりした。けれど。
「嘘だ。何か隠してるだろ」
「えっ、と……」
いつから彼は、私の嘘を見破るようになったのだろう。……小さい頃はすぐ騙されてくれたものだけど。
彼はもう、全く可愛くなんてない。男の人なのだ。
「……嘘は、ついた。でも、これには関係ないよ」
だから早く見せて、とクリアファイルを渡すようせがむ。なのに、創くんは渡してくれない。
「あの店長と、何かあったんじゃないのか」
「――っ!」
……そんなところばかり、察しが良くならなくたっていいのに。昔の約束も思い出してくれないで。
言えるわけがない。
好きな男の人の前で、別の男の人から告白された話をするなんて。そんなはしたない女みたいな真似、できるわけなかった。
私は、私が周囲からどう思われているのか、知っている。でもそれは……私の自由は、全部、創くんのものなのに!
一番わかってほしいことを察してくれない創くんをキッと睨んだ。彼はその視線にたじろいだ様子を見せ、仕方なさそうにクリアファイルを渡してくれる。
「……じゃあ、答え合わせだ」
中の紙は原稿用紙だ。かさりと開いて、文字を追っていく。
それは私が送った手紙の内容とは随分異なる――それなのに、たしかに私らしい物語だった。
*
「どうかな――……亜香音」
その言葉に、私は口を引き結んだ。喉の奥がぎゅっと締まって、痛い。泣きそうになるのを、瞬きをしないようにして堪えた。
読み終わった原稿用紙を元のようにたたみ、クリアファイルにしまう。
「……うん、合格。花丸だってあげちゃう」
創くんは昔から、物語を書くのが上手だった。小さな頃は他の人に見られるのが恥ずかしかったのか、この秘密基地で読ませてくれた。いつだって、私が最初の読者だった。
そして恐る恐る感想を聞いてくるのだ。「どうかな、亜香音」と。それが嬉しくて、楽しくて、私たちはここで、たくさんの言葉を交わした。
けれども、いつからかここには来なくなって、創くんは私を名字で呼ぶようになった。彼は物語を書き続けていたけれど、最初に読むのは私ではなくなっていた。私はそれを、学校の掲示物で知った。
彼の物語にはどれも、素敵な魔女が出てくる。
私は、彼の物語に出てくる魔女になりたかった。彼に書かれる彼女たちが羨ましかった。だからずっと、自由に振る舞っていた。
それなのに、創くんはどんどん遠ざかっていく。
心が汚れて、貧相になっていくのを感じた。このままでは本当に――彼の物語の登場人物になるどころか、読者としても相応しくない人間になってしまう。だから、逃げた。
海に洗ってもらおうと思った。私の駄目なところを全部、洗い流してしまいたかった。そうしてまっさらになった私の心が出会うのは、やっぱり創くんの物語が良い。そう思って宿題を出したのだ。藤沢亜香音の夏を書いて、と。
「僕に宿題を出した日のこと、覚えてるか?」
「うん。今日みたいに日差しが強かった。あと、凄く蒸し暑かったね」
「一昨年、海外の夏を初めて体験したんだ。やっぱりここの夏は、日本の夏だったよ」
……そんなこと、知らなかった。私が送った手紙の返事は、宿題の提出だけだったから。
「亜香音は、自分がここに帰ってくるまでの、夏休みの宿題だって言った」
「うん」
「だけど、全然帰ってこなかった」
「……うん」
仕方ないじゃない。自分の心がちゃんと洗えているか、不安だったのだから。
「このまま帰ってこなければ、宿題は毎年やることになる。僕は亜香音の夏休みを詳細に知ることができて、それを物語にして、読んでもらえる。そういう建前で、亜香音との繋がりを当然のように持つことができる。それだけで、満足できるかもしれないと思ってた」
……え?
「だけど甘かった。今年の手紙を読んで、そうじゃないことに気づいた。……僕は直接答え合わせをしたくて、あんな強引なことをした」
ごめん、と創くんは謝った。葉書の裏面に書かれた、大きな文字を思い出す。温厚な彼にしては、珍しいとは思っていた。だけど。
「私、帰るタイミングがわからなくなってたから。嬉しかったよ?」
そう言って顔を覗き込むと、創くんはすっと目を逸らした。しかしそれは本当に一瞬で、私がむっとする間もなく、彼の視線はこちらに戻ってくる。
「……あぁ、帰ってきてくれて、良かった。考えたら、あのままじゃ、約束も破ることになってたから」
「……覚えていたの?」
「当然」
嘘つき。今も、五年前も、そんな素振り、少しも見せなかったくせに。
でも私は、この答えを待っていたのだ。大正解。百点満点だ。ううん、もっとあげたっていい。
「それ、怒ってるのか喜んでるのかわからないぞ」
図星をつくような言葉は、勿論、無視する。
代わりに私たちは、あの幼い日にした秘密の約束を、もう一度重ねた。
今度はちゃんと、秘密ではないものにするために。これから先、ずっと続いていくものにするために。
五人の魔女 ナナシマイ @nanashimai
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