四人目 あくびする魔女

 ――今夜こそ、寝かさないで。


 まったく、こちらの気も知らないで。少しは気にしてくれと思いながら、俺はグラスに氷を詰めた。


       *


 カラン、とドアベルを揺らして扉が閉まる。

 低めの乾いた音は耳に心地よい。両親から受け継いだこのカフェを象徴するような古いドアベルは、子供の頃から聞き慣れた俺に今でも安らぎを与え続けてくれる。大事な音だ。

 小走りで道の向こうへ消えていった常連客の少年を見送り、藤沢ちゃんが振り向く。彼女は今年で五年目の、ベテランアルバイト店員だ。

 親が海外へ移住して数年後、しばらく戻らないからアルバイトでも雇えばと言われたのでその通りにしてみたが、なるほど、確かに一人だけで店に立つよりも気が楽だった。この店の客入りは日によってまちまちだ。忙しい日にくるくると働く彼女にも、暇な日にぽつりぽつりと話をしてくれる彼女にも、正直かなり助かっている。


「今日はもう来ないかな、お客さん」

 そう言いながら、藤沢ちゃんは入り口付近に置かれた本棚から一冊の本を抜き出した。店の本は全部読み終わっているが、彼女は気に入った本を繰り返し読む質らしい。今持っている本もそのひとつで、もう十回以上は読んでいるはずだ。

「どうだろ」

 俺はさっきの客が使っていたテーブルを拭きながら、首を傾げた。窓から外を見ると、空はどんよりとしていて、砂浜に迫る波は高い。天気予報の通りなら、もう少しで強い雨が降り始めるだろう。台風が来ているのだ。

 家が近いとはいえ、さすがに危険だから今日は帰ってもらおう。そう思っていたのに、藤沢ちゃんは手にした本を窓際のテーブル席――良い角度で海を眺めることができる、彼女のお気に入りの場所だ――に置いた。そして着席……って、今から読むのかよ。

 しかしそれを口にはしない。言っても無駄だからだ。

 俺は彼女を今すぐ帰らせることを諦め、代わりに、本を開き始めたその横顔を見つめる。特別美人というわけではないが、何というか……人の目を惹き付ける力がある凛とした横顔。

 はぁ、と息を吐き、視線に気づかれる前にそっと目を逸らした。まだ片付けが残っているカウンターに戻る。

 ゆったりと時間が漂っていた。

 BGMを流さない店内で聞こえるのは、俺が食器を片付ける音と、強まる風が窓に吹き付ける音だけ。本のページをめくる音は意外と小さい。

 シャー、シャー……。ガタガタ、ガタ、ガタ。

 どれもこれも、聞き慣れた音たち。


「……貝殻を耳に当てると海の音が聞こえるって、本当?」

 突然の質問に顔を上げると、藤沢ちゃんは窓枠に並んだ貝殻を指で突っつきながら、こちらを見ていた。丁度音のことを考えていたので、独り言でも言っていただろうかと一瞬身構える。

 ……いや、違う。きっと彼女も、同じようなことを考えていたのだろう。

 すぐにそう結論付け、今度は答えを考える。藤沢ちゃんの質問は、たまに繋がりがわからない。とりあえず普通に答えることにした。経験上、それで正解のはず。

「聞こえたことはないな。試してみれば」

「そうだね」

 ちょん、と最後にひと突きしてから貝殻を手に取る藤沢ちゃんは、何だか緊張しているように見えた。

 白い指に包まれた貝殻が、ゆっくりと耳に当てられる。耳を澄ますように彼女は目を閉じ、一秒、二秒……十秒…………一分くらい経っただろうか。「長いな」という感想を破り捨て、俺はちゃんと海の音が聞こえれば良いと息を潜めて反応を待つ。

「……ふぉおわぁああ、ほぅ」

 ……は?

「なんか眠くなってきちゃった」

 なんと、大あくび……! これは非常にまずい。色んな意味で。

「それなら家に帰りなさい」

 俺は知っている。藤沢ちゃんはいきなり、すこん、と眠りについてしまうことを。そうなった彼女が、なかなか起きないということを。

 今みたいに客のいない店内で、何度その肩を揺らしたことか。

「キリの良いところまで読んだらね」

「今読んでなかっただろ!」

 思わず突っ込むと、彼女は本当に不思議そうな表情で頭を傾ける。「どう見ても読んでるでしょ?」という心の声まで聞こえてくるようだ。

 これは無視されるぞ、と思って違う言葉を探していると、しかし、意外にも答えが返ってきた。

「店長、この本読んだことない? 貝殻を集めて海を作る話」

 いや、ある。あるけど、そういう話ではない。不幸な生い立ちの子供が、努力によって大企業を立ち上げるまでになるといういかにもなサクセスストーリーだ。正直、俺はあまり好きじゃない。

「私も、これ、やってみたかったの」

 それをそういう解釈で読んでいたなら、もしかすると、彼女の謎の収集癖はこの本に影響されたのではなかろうか。いや、そういう話ではないし、納得したくもないのだが……。

 時折ふらっと散歩に出ては、海辺で様々なものを拾ってくるのだ。貝殻や綺麗なガラス片ならまぁ、良い大人が子供みたいなことを、くらいで済ませられるし、それなりに見映え良く飾ってくれるから理解できる。

 だが、いくらなんでも、人を拾うことはないだろう。二年くらい前から、彼女はたまに「海辺で拾った」人を店に連れてくるようになった。

 子猫じゃあるまいし……と思いつつ、受け入れてしまった俺も俺である。常連客になったり、新しい店員になったり。しっかり売上に貢献してくれているから何も言えないのだ。……そんな彼らと楽しそうに話をしている藤沢ちゃんを見るのも、今では楽しみの一つとなっているのだから。

 俺は、今春に大学を卒業したことで増えた彼女の出勤日を心待ちにしながら、問題を先送りにしている。

「ねぇ、だからさ」

 ふいに強い視線を向けられて、跳ねた心臓。

「今夜こそ、寝かさないで」

「――っ」

 本当に、こいつは。

 狙った発言でないことが明らかだからこそ、むず痒くなる。

 誤魔化すように腰の辺りをさすりながら、後ろの棚を開けた。強い視線の先にあるのは、俺ではなく、コーヒー豆だ。溜め息ひとつでカフェの店長に頭を切り替えられる俺の理性を褒めてほしい。

 深煎り豆を密閉瓶から多めにすくい、ガリガリと挽く。ドリッパーの用意をし、沸かした湯をゆっくりと注いで抽出、これは濃いめだ。それを氷で一気に冷やす。

 ちらりと藤沢ちゃんに目をやると、とても嬉しそうな笑顔で本の文字を追っている。息の吸いすぎを心配したくなるほどに鼻をすんすんさせていて、随分とご機嫌だ。

 底にいくにつれて青さが増すグラスに氷を詰める。

 冷ましたコーヒーを注ぎ、ストローを差してやる。

 ……結局、海の音が聞こえたかどうか、わからずじまいだったな。

 まぁ良い。今まで通り、この緩やかな関係を続けていければ、それで良いのだ。確実に近づいている終わりを、意識の外に追いやって。

 お望み通り、今夜は寝かさないでやろうか、とか。俺たちの時間が進む言葉なんて、飲み込んでしまえ。

 そんな思いを嘲笑うように、カランコロンと氷が揺れる。

「お待たせいたしました。アイスコーヒーでございます」

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