三人目 貧乏な魔女
――ひとつひとつ拾っていけば、きっと、心は豊かになるから。
もうとっくに、その笑顔は豊かなのに。オレには彼女の考えがわからない。
*
その日、何となく真っ直ぐ帰りたくなくて、オレは海沿いの道を歩いてた。
夏季講習は早い時間に終わるから嬉しい。その分めちゃくちゃ暑いんだけどさ、それでも、暗くてよく見えない海よりは明るい方がずっと良いんだ。
ここは寂れた町だから、夜の海は真っ暗で波も真っ黒くなる。
街灯の届かない暗闇から、ザァ、ザァと鳴く海はちょっと怖い。近くにある大学の学生が騒いでることもあるけど、ホント、よく楽しめるものだと思う。オレの倍近く生きてるはずなのに、元気だよな。
とにかく、まだ夕方にもならない時間のその日の海は眩しくて、オレは最初、それが視界の端でちらつくだけの錯覚だと思っていた。
……いや、人か?
近づくにつれて、それが女の人の影であることに気づく。少し歩いては座り込んで、何かしてる。その度に揺れる鮮やかな青いワンピース。
映画のワンシーンみたいだ、とか。
大人だったら、そう表現するだろうか。オレは映画を観ないからわからない。でもそう思ったんだ。それくらい、見慣れているはずのこの海辺がいつもとは違うものみたいに見えた。
気づいたら、オレはその女の人に近づいてた。
「何してんの」
声をかけると、しゃがみこんでた彼女がゆっくりと顔を上げる。多分大学生で、その拍子に、手から何かがぽすっと落ちた。気にする様子もなく、こちらに向けられた笑顔と答え。
「拾いものを、してるんだよ」
そう言って、傍に置かれたビニール袋を開けて見せてくれる。貝殻や、変な形の木、ガラス片が入ってる。それは拾いものというより……。
「ごみ拾い?」
彼女はそれに答えずに、
「君はこの辺りの子?」
と聞いてきた。無視されたことにむっとしつつも、わざわざ嘘をつく必要はないしと頷く。
「じゃあ、君にとって、ここの海ってどんなもの?」
「……」
これは別に、無視をしたかったわけではない。質問の意味がわからなかったんだ。
「いきなりどんなものって言われても……」
彼女は助け船を出してくれるわけでもなく、オレの答えを待っている。その瞳はきらきらと楽しそうに輝いてて、何だか子供みたいだと思った。子供のオレが言うのもあれだけどさ。
仕方ないから、オレはちゃんと考えてやることにした。
「見慣れた場所だし、観光地みたいに何かあるわけでもないし……。日常……の一部、とか……」
「日常。日常かぁ」
日常、という言葉を口にするのが恥ずかしくて尻すぼみになったのに、彼女はそれを丁寧に拾った。それは彼女にも大人っぽさがあることを主張してるみたいで、オレは砂の中に沈みかかってる足をぐりぐりと動かす。
「私、ここの夏は三回目なんだけどね、まだ非日常って感じがしてる」
しゃがんでいた足が痺れてきたのか、彼女はその場にすとんと腰を下ろした。綺麗なワンピースなのに、砂が付くことは気にしないらしい。
「まぁ、非日常のままで良いんだけど」
普通に考えたら、大学三年生なんだと思う。でもそうじゃないようにも見えるのは、ふふ、と海を見ながら笑った横顔が少し寂しそうだからだ。
それだけで、彼女には、ここではないどこかに日常を持っていることがわかった。そしてその日常を、懐かしんでるということも。
今さっき会ったばかりだというのに、何だかもやっとした。心臓の下あたりで、細い糸が絡まっているような。
この人の話をもう少し聞いてみたい、そう思って彼女の隣に座る。口が開いたままのビニール袋から、灰色がかった流木が飛び出ていた。
「散歩しながら、時々こうやって拾いものをするの。ここ、結構色んなものが流れてくるんだね」
「さぁ」
オレはわざわざ散歩したり、何かを拾おうと思ったりしたことがない。そしてそれが、“日常”と“非日常”の違いなのだ。
やっぱりもやもやして、どうにか日常にできないものかと考える――と、いうより……。
「そんなに拾ってるなら、もう日常になってるんじゃ……?」
座っていると、オレの方が頭の位置が低い。覗き込むようにして見上げてみればふいっと目を背けられる。これは答えてくれないやつだ。この短いやりとりだけでも確信するほどの、華麗なスルー。
……やっぱり仕方がないから、オレは話題を変えてやった。
「これ、集めてどうするの?」
「バイト先に飾ってるよ」
「バイト? どこ?」
今日限りじゃなくて、また会えるかもしれない。
そう思って、オレは少し身を乗り出す。
「あそこの角にあるカフェだよ」
彼女が指差す方向を見る。……良かった。知ってるとこだ。
入ったことはないし、塾や学校へ行くときの通り道でもないけど、近くてほっとした。遠回りすれば、彼女が働いている姿をこっそり見ることもできるはず。
そんなことを考えてるとバレないように、表情は引き締めておく。
「君も来たら? コーヒーが美味しいの」
……普通、小学生にコーヒーなんて勧めないだろ。
「子供の小遣いであんなところいけないよ」
……ま、塾ばかりで使い道のない小遣いは貯まっていく一方だけどさ。
「それは残念」
……え。
「こういう時って、奢ってくれるもんじゃないの?」
子供らしく無邪気な感じで見つめてみたのに、また目を逸らされた。都合の悪いことは聞き流すってことか。別に、本気でたかろうとしてたわけではないから良いんだけど。
拾いものの話なら良いのか。さっきも答えてくれたし――と、話を続けたいと感じてる自分に気づいた。心の中で小さく笑う。良いじゃないか。クラスの女子より、たった今会ったばかりの、この名前も知らないお姉さんの方が話しやすいんだから。
カサ、と海から吹く風がビニール袋を撫でた。飛び出たままの流木にそっと触れる。
「飾るって、工作でもするの」
思い出したのは図工の授業だ。三年生くらいの時に、海で拾ったものを使って立体的な絵を描いた記憶がある。去年は、紙粘土で貯金箱を作って、その周りに貝殻を貼り付けた。しかし彼女は、
「ううん、飾るためじゃないから」
と首を振った。そして、
「私、貧しいんだよね」
と言って寂しげな笑顔を作る。オレは思わずその顔をじっと見て、それから、彼女が着ているワンピースと、砂が付いたサンダルに目をやった。
とても貧しそうには見えない。
それとも、この漂流物を売って儲けているのだろうか。
「財布じゃなくて、心が、ね」
心が、貧しい? 笑って付け足された言葉に、更にわからなくなる。
「だからこの町に来たんだよ。去年までは、海で洗いものをしてた。今年と来年は、心を稼ぐの」
うん。わかった。わけがわからない、ってことが。
「ひとつひとつ拾っていけば、きっと、心は豊かになるから」
へへ、と笑った彼女は、やっぱり、どこも貧しいようには見えない。
*
「ありがとう。今日はなんか、良い拾いものしちゃった。これ、お礼にあげるね」
いや、要らない。それなのに断りきれず持たされたビニール袋。そこから覗く流木に、そっと息を吐いた。
「あと、仕方ないからコーヒーも奢ってあげる。今度お友達を連れておいで」
私、ちょっと、裕福になったからさ。そう笑いながら手を振った彼女は、ふわりとワンピースの裾を揺らして背を向ける。
そのまま見送ってると、彼女はだんだん小さくなっていって、やがて、陽炎の中に消えてしまった。
手に持ったビニール袋を振ると、ジャリ、と耳障りな音がする。
来週、ひとりでカフェデビューしてみようかな。そう思うくらいには、オレはあの不思議なお姉さんに惹かれてたんだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます