最終話 最初から間違っていたんだ


 私はいったい何を召喚した?

 ヴァルバレッタの思考はその一点に集約された。

 私はいったい何を召喚した?

 異界異国の勇者と思われた存在の一部。それは屈強なオークが片手で抑えきれないほど極太な触腕だった。

 金属を思わせるきらめく灰色で、硬い液体か柔らかい岩石のように自在に形を変えて蠢き、その先端は三本の指のような鉤爪が虚空を掴み、空を引っ掻き、虚を引き裂き、暴れ回っている。引き千切られ、破断した部位からは蛍光ピンクな毒々しい粘液が撒き散らされ、ザザンの筋肉とアーリアの衣服を濡らしていく。

 私はいったい何を召喚した?

 いや、違う。

 いったいいつから勇者が人間タイプだと勘違いしていた?

 異界異国の存在だ。古代エルフ種のヴァルバレッタと同じく二本の腕二本の脚頭一つのヒューマノイドタイプとは限らない。

 異界での厳しい生存競争に勝ち抜くために、過酷な環境に適応して最適化した進化を遂げているはずだ。それがこの触腕だ。

 千切れたそれ単体でも巨大な軟体動物のように伸縮拡大を繰り返し、凶暴な意志が感じられる筋肉の塊は今も獲物を求めて生命を燃やしているかもしれない。レベル−30勇者の一部でさえこれだ。本体は、いったいどんな奴なのだ。

 私はいったい何を召喚した?


「アーリア、ザザン! ここは一旦退くぞ」


 相手は、いや、敵は正体不明だ。その能力も特性もわからぬまま戦うのはあまりに危険過ぎる。


「そんなああ、アーリアちゃあん! 行かないでよおお!」


 閉鎖環境六畳間からヒトヒロの欲に歪んだ声が響く。部屋の中に閉じこもっているはずなのに、まるで引きこもり部屋そのものがスピーカーとなってそれの声を増幅させているかのようで、いやに耳障りな音が召喚部屋に充満した。


「待ってよおお、もう一回、一回だけでいいから、手を突っ込んでおくれよおお!」


 アーリアは無言で首をぷるぷると横に振った。こんなものが潜んでいた密閉空間に生腕を差し入れていたなんて。


「こいつ、腕を一本失っているのに、痛みを感じないのか?」


「ヴァルバレッタちゃんでもいいよお」


 むしろ楽しんでいるようにも思えた。猫が鼠をいたぶるように、我々はマイナスレベルに弄ばれていただけなのか。

 ヴァルバレッタは咄嗟に魔術詠唱に入った。

 こいつは意味不明過ぎる。この声を聞いていると、のんびりとした口調の怪しい雰囲気に飲まれてしまう。


「アーリア、ザザン、後で合流する。飛ばすぞ!」


 逆召喚術、起動。その瞬間に二人の姿が掻き消えた。安全な場所へ、強制送還だ。とにかくこいつと同じ空間にいるのはヤバ過ぎる。マイナスレベルが感染してしまいそうだ。

 次はヴァルバレッタ自身の転移だ。そうすれば、一時的にも異生物ヒトヒロと距離を置ける。策を練るのはそれからでも遅くはない。

 だがしかし、それでいいのか。

 ヴァルバレッタにはこいつを喚び出した責任がある。元の異界へ還すか、血の一滴肉のひとかけらも残さずに滅ぼすか。どちらにしろ何もせずに逃げるわけにはいかない。


「ん、んんー? いなくなっちゃったあ? ヴァルバレッタちゃん、どこお?」


 思わず小さな手のひらで口を覆うヴァルバレッタ。息を潜め、気配を消し、足音も衣擦れの音も立てずに密閉六畳間の外壁に身を寄せる。この角度なら宅配ボックス投入口の隙間からも完全に死角になるはずだ。


「そんなああ。ヴァルバレッタちゃんも俺を触っておくれよおお。ぺたぺた触ってよおお」


 金属製にレベルアップしたドアががつんと揺れ動く。部屋の主であるヒトヒロ自身もこの強固な扉は破れないのか。ヴァルバレッタは華奢な身体をますます縮こませて死角に隠れた。


「……誰もいないのお? みんなどこか行っちゃったああ?」


 ヴァルバレッタは動かない。私は石だ。地面に落ちてる小石だ。誰も私の存在など気にも留めない。


「誰も、いないんだよねえ」


 かきん。澄んだ金属音がして扉のカギが開けられた。そのまま数秒、沈黙が過ぎて、やがてゆっくりと開かずの扉が押し開かれた。


「……いない、よねええ」


 ヴァルバレッタはちょうど押し開かれた扉の影にしゃがみ込む形で隠れていた。この頼りないくせに決して開かれなかった扉一枚の向こうに、謎の異界生物、レベル−30勇者ヒトヒロがいる。

 ヴァルバレッタの強化魔法は、その効果は瞬間的なものだ。なのにこいつは魔法効果がそのまま持続してレベル−30を維持している。あり得ない生き物だ。そもそも生き物、なのか。


「……いるうう?」


 のそ。ねと。ねっとり。ついにヒトヒロが外の世界に踏み出した。引きこもり勇者が部屋の外に出たのだ。

 ヴァルバレッタからはまだ扉の影に潜んでいるのでその全容は窺えない。ただ、何か、とてつもなく忌まわしい何かがいる。それだけはわかる。


「ヴァルバレッタちゃあん。いないのかああ」


 生物的経験を積んでレベルダウンする生命体。そんなものいるわけがない。この現世で。だがヒトヒロは実際にレベル−30まで逆成長した。こいつは反物質世界の住人だ。ヴァルバレッタは扉の向こうの禍々しい気配に確信した。

 ヒトヒロは反物質生物だ。ヴァルバレッタの世界に存在してはいけない物体だ。

 だが、どうしたらいい?

 ヒトヒロの黒い輪郭が扉の影から現れた。

 今だ。動くのは今しかない。

 ヴァルバレッタは息を止めたまま影から飛び出した。右手を金属扉に添えたままヒトヒロの姿を見ないようにして、くるり、小さな身体の利点を生かして最小限の動きで扉を回り込む。

 扉の中、密閉六畳間の中はやはり黒い虚空だった。しかし、躊躇している時間はない。今はわずか一秒であろうと命取りだ。

 ヴァルバレッタは部屋の中へ飛び込んだ。後ろ手に金属扉を固く閉ざす。


「ああっ、そこにいたのお!」


 ヒトヒロの怒号が追ってくるが、開かずの部屋のカギはそれの侵入を許さなかった。


「開けてよお、ヴァルバレッタちゃあんんん!」


「開けてたまるか、このバケモノが!」


 金属扉を背に、カギを確かめる。かなり頑丈そうなカギが取り付けられていた。宅配ボックスの荷物取り入れ口の隙間も小さい。ロックは完璧だ。閉鎖環境成立。密閉六畳間完成。引きこもり垂れ耳エルフの誕生である。

 異界の反物質生物ヒトヒロは扉をガンガンと叩いて叫び続けた。


「出ておいでよお! ヴァルバレッタちゃあんんん!」


「うるさい。黙れ」


「俺の部屋だよおお!」


「今は私の部屋だ」


「なんでだよおおお!」


「絶対に部屋から出てやるものか!」


 と、垂れ耳エルフ召喚師。今は引きこもり垂れ耳エルフ。


「その手その足引き千切ってでも出してやる!」


 と、元引きこもり勇者、異界反物質生物ヒトヒロ。




 密閉された部屋に頑なにこもり続けるかか、あるいは強引に扉を破いて引き摺り出すか。お互いのプライドを賭けた頭脳戦第2ラウンドが始まろうとしている。

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〜「絶対に部屋から出てやるものか!」超級こもりびと勇者 VS 「その手その足引き千切ってでも出してやる!」垂れ耳エルフ召喚師〜 密閉六畳間フロントライン 鳥辺野九 @toribeno9

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