喫茶『酩酊』

茅ヶ崎 馨

『酩酊』、椿、そして物書きの青年

…ここは、どこだ?


煙草たばこや木、コーヒーや焼いたトースト、シナモンなどの甘くささいてくる匂い。

昔ながらの換気扇、扉に吊るされ揺れている綺麗な硝子ガラス棒のドアチャイムの音。

「酒場」と言うよりかは「カフェー」や「バー」という言葉が似合う古き良き喫茶店。

古き木の扉の横には、くぐもったガラス管の中にネオンの華やかな色でこう刻まれている。


喫茶『酩酊』。


扉の少しびた金色のノブに吸い込まれるように引き寄せられて、無意識に開けてしまう。

しかし危機感は無い。むしなごやかな暖かさを感じた。


「いらっしゃいませ。御来店有難う御座います。」


甘く、幼い優しい声が耳に馴染む。


「...ここは?」

「喫茶『酩酊』で御座います。」

「ぁあ、いやそういう事じゃなくて...いやそういうことなんだけど...。」

「細かい事は後回しにして、折角せっかく御来店なさったのですから、今はお座りしては?」


危機感は、無い。言われた通りに、小さな背もたれが付いた受付椅子カウンターチェアに座る。

少し硬めなクッションが、しかし優しく俺を包む。


受付台カウンターに、持っていたスマホを置いて、一息つく。

上を見上げると、シーリングファンが滑らかに回っている。

天窓からは雄大ゆうだいな星空が見える。

この地域からは星なんて見える筈無いんだが...。

足が軽いと思ったら、靴を履いていない。

靴下のまま、受付椅子カウンターチェアに座っている。

駅の改札を抜けるまでは履いていたと思うんだが。

そういえば駅の改札を出てからの記憶が何もない。

つまり、俺は駅の改札から天界てんごく魔界じごくか異世界かどこかへと飛ばされた訳か。


コトン、という音で意識が戻り、カウンターの音の出所を見る。

透き通った綺麗なガラスのグラスに水と氷が一緒に入って、目の前に置かれている。

コルクのコースターには、「喫茶『酩酊』 SINCE1823」の刻印。

しずくしたたり落ち、少し濡れている。

コップを手に取り、喉に注ぐ。喉を洗う、美味しい冷水。

水って、こんなにも美味かったっけか。


「靴に関しては御安心を。綺麗にしてお返し致します。」


今更いまさらだが、気付く。

声しか聞こえない。


「どこにいるんだ?」

何処どこと申されましても...此処ここです。」


受付台カウンターの奥から白い小さな手が揺れる。

脚立きゃたつか何かに立ったらしく、金属音が聞こえ、顔が見える。

受付台カウンターの上に手を重ねて、あごをのせる。

頭には猫耳が揺れ、人間の耳の位置は髪で隠れて見えない。

髪は吸い込まれそうな程濃い黒に、淡い紫が混じっている。本当になめらかな、つややかな髪。

背後には淡い紫の尻尾が揺れている。

いわゆる大正ロマンと呼ばれる時代のメイド服が良く似合っている。


「誰だ…?」

「当喫茶の給仕きゅうじです。「椿つばき」とでもお呼び下さい。」


椿と名乗ったその猫?...は慣れた手つきで「品書しながき」と書かれた、大きめの冊子を俺に渡す。

今、俺の目が正しければ手に突然出現したように見えたんだが。気のせいか。

俺は適当にめくって、目についたコーヒーを指差して、「これ」とだけ。


「かしこまりました。」


黒茶色の豆が入った大きなガラスの瓶を取り出し、見たところ感覚だけでスプーンですくってミルに入れる。

小さく歌を歌いながら、軽やかに豆をく。

少しほろ苦い、濃い豆の匂いがする。

こんな匂いがすると、嫌な事を思い出す。


今朝、電車に乗って、初めて小説を応募しに行った。

少し白髪のおじさんに見てもらったんだ。

そしたら、地面に投げ捨てて「面白くない。」って。

母からも、「そんな何の役にも立たないことは止めて勉強しなさい」って。

帰りに会った友達からも、「まだそんなつまんないこと続けてたのか。いい加減諦めたらどうだ?」って。


皆死んでしまえ。

人の努力も分からない奴に何も言われたくない。

唯一応援していてくれた叔父さんも、2週間前に死んだ。

応援してくれたお礼に、必死に頑張ったのに。


「辛そうですね。」


優しい声と、温かな、少し苦々にがにがしいコーヒーの匂いで意識が戻る。


気付けば俺は、カウンターにして、目から涙をこぼしていた。

ほおには、椿の温かい手をえられている。

情けないことに、振りほどく気力も無い。


「辛くはないさ。何故か体は苦しい程に元気だ。」

「体ではありません。心です。貴方はとっても苦しそうな心の色をしています。」

「そうだろうな。努力が認めてもらえないってのはこんなにも辛いんだな。」

「小説、見せて貰っても宜しいでしょうか?」

「あぁ、もう何と言われようと構わないからな。」


スマホのロックを外そうと、カウンターの上に手を伸ばす。

優しく手を止められる。

椿がなめらかにスマホに手をかざすと、丸められた原稿用紙が飛び出てくる。

淡水色あわみずいろの止めてある紐を手際よく解くと、大きな紫の目を開いて読み始める。

その間に、俺はれられたコーヒーを飲む。

苦い。

どこかに豆本来の美味しさがあって、渋みがある。

だが、透明感のある、果実のような、そんなコーヒーだった。

5分程、味わって、飲み干す。

コースターに、そっと置く。

同時に、椿が原稿用紙をカウンターに音もなく置く。


「とっても努力したんですね。」

「あぁ、成績も時間も青春も全部犠牲にした。」


それでも、駄目だったんだよ。

誰にも、理解されなかった。

理解しようとすらされなかった。

「戦争屋」と。「化物」と。「殺人鬼」と。

俺が書くのは、戦争小説。

体験談のごとく凄惨な文章。

学校でも教えてくれない戦争について、少しでも興味を持ってもらおうと、知ってもらおうとして、ずっと書き続けてる。


俺はいつだって確信してきた。

人を理解しない奴こそ、「化物」なんだと。

泣きながら、うめき、必死に告げる。


「俺だって必死に生きて、俺に書ける最高の文章を書いて、書き続けてるんだ。」

「それは、とっても素晴らしくて、凄いことですよ。」

「どこがだ。生きてるだけだ。俺にだってお世辞かくらいは分かるぞ。」


口からは、他人を否定しようと、優しい言葉さえも排除する為と、言葉が溢れる。

これで、俺も「化物」の一人だ。

自分を嘲笑あざわらいながら、心で叫ぶ。


「御客様は、「化物」等ではありません。

 世辞等でも有りません。


 『”生きる”ということはこの世で最も稀なことだ。

  大抵の人は”存在”しているだけである。』

 オスカー・ワイルド。アイルランドの詩人の言葉です。


 『プロの作家とは、書くことをやめなったアマチュアのことである。』

 リチャード・バック。アメリカ合衆国の作家の言葉です。


 貴方は何も諦めてない。

 小説について言われるのは、ちゃんと自分が書ける人が教えてくれる『助言』か。

 それとも、書けもしない、書いたこともない人がいう『悪口』かのどちらかです。

 あとは、善い人からも悪い人からもくる『感想』です。

 『助言』の中に『悪口』があるんじゃないんです。

 『悪口』の中に『助言』があるんです。

 それも万に一つ以下の確立で。

 貴方は、『助言』を、善い人からの『感想』だけを見つめて下さい。

 私は、貴方の文章から、溢れる程の努力が見えました。

 私が言えるのは、此処までです。

 後は、御客様が決める番です。

 『諦める』か、『続ける』か、です。

 『続ける』を選ぶのであれば、『酩酊』は何時でも御客様を応援します。」

 

幼い子を諭すように、優しく、甘く、荒んだ心を溶かしてくれる。


これが『酩酊』か...。




あれ、ここは…。


家の前か。

確か、最寄り駅から降りて...いや何も覚えてないな。

財布は...180円減っている。そして...何だこれは、手紙か?


手紙には

此度このたびのご来店、誠に有難う御座いました。

 

 大変失礼ながら、財布からお代を頂戴いたしました。

 又、ご自愛じあい頂けるように、ご自宅へとお送りさせて頂きました。

 此方こちらの勝手な行動をご許し下さい。


 もう一度のご来店が万に一つも無いことを。

 喫茶『酩酊』より、愛を込めて。」

と。


よくわからない。

俺はここ1年喫茶店に行った覚えもない。

それでも不思議と、美味いコーヒーの味を舌が覚えている。

何故なぜだろうな。


コーヒーの香りがするスマホをポケットから出して、液晶を触る。

時刻は午前3時程。しかし眠くはない。

ポケットを探る。

綺麗に折りたたまれた原稿用紙があった。

しかし、見ても泣きたくはならなかった。


何故か、...もう一度だけ、もう少しだけ、頑張ってみるかな、と思った。

何故だかは、わからない。


いつもより綺麗なスニーカーで、明るくなった心で、軽やかな足取りで、家のドアを開けた。


「ただいま。」



Fin


椿の花言葉は、「控えめな優しさ」「謙虚な美徳」。

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喫茶『酩酊』 茅ヶ崎 馨 @tigasakikaoru

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