懐古の愛猫
亜来輝
懐旧
ちょうど、僕の薬指で幸せそうに輝くそれを嵌めた今日と同じ、二十年前の夏のことです。
思い出したくないけれど、忘れたくもない記憶がありました。
蝉の抜け殻が転がる夏、なんとなく、家に帰りたくなかった自分は、家路から外れた路地裏に入りました。そして自分を囲む汚いビルの壁を、ぼんやりと眺めていました。
ふと、幽かな鳴き声が聞こえたので目をやると、そこには見窄らしい猫がいて、ジッと自分を睨んでいました。
自分はその、見窄らしい猫に少しの情が湧いたので、給食時に食べ切れなくて残したコッペパンを与えました。
警戒しながらも完食したその猫は、不愛想で、ふてぶてしく、気だるげに、また、ジッと自分を睨んでました。そして、これはお礼だとでも言いたげに、腹ばいになったのです。
おずおずとしながらも、触れた毛並みは酷く気持ちがよくて、家では感じなかったそのぬくもりに、わずかな喜びを覚えました。
もう一度あのぬくもりに触れたくて、自分は毎日、あの見窄らしい猫のいる路地裏に通いつめるようになりました。そして気が付いた時にはもう、自分には癒しというものが心に芽吹いておりました。あの見窄らしい猫に、です。ですがあの猫はいつのまにか、自分の与えた残飯でふくよかになっており、ふてぶてしく、ジッと自分を睨んでいました。
相変わらず、不愛想な猫でした。
蝉時雨が五月縄いほど降り注ぐ夏。自分は、あの無愛想な猫が、自分の産んだ子猫に触れるのを許すほど、あの猫と親しくなっていました。
自分は、あの猫が子どもに乳を与える様を、ジッと眺めていました。-匹、他の子猫に押し出され、陽炎の揺れるアスファルトに放り出された子猫が、小さく鳴いて母を呼んでいました。
なんとなく放って置けなくて、自分は子猫の首根っこを掴み、あの猫の腹に置いておきました。拾い上げた子猫は、次は負けまいと、他の子猫と同じように母の乳を貪り、今日の生を得ていました。
あの猫は、腹の上にいる自分の子どもを、愛おしそうに舐めていました。その姿は人間よりも人間臭く、さも感情があるかのように慈しむので、ふと、恐ろしさを感じたのです。また、子猫たちが受ている愛情を羨ましいと思う自分がいることに気づいてしまい、猫たちから目を反らしました。
家に着くと、いつもは聞こえる米の洗う音と、油がパチパチと声を揚げる音がしないことに、一つ、引っ掛かりを覚えました。
また一つ、引き戸をガラガラと鳴らし、玄関に光が差した時、自分は違和を感じました。いつもは、腹を空かせる匂いがそこら中に主張しているのに、その香りがしないのです。
物音を立てないよう、自分はそろりそろりと歩いて、ちらりと台所を覗きました。いつもの、母の料理に向かう姿がありませんでした。
次に自分は、床の軋む音がしないよう、母の部屋に向かいました。自分の学年で流行しているニンジャごっこをしているような、少しの高揚感がありました。
襖に手を添え、少しの隙間から部屋を覗きました。
ただ、母が愛用する化粧品が、そこら中に散らばっているだけでした。
自分はもう少し襖を開け、また、部屋を覗きました。
ただこれもまた、いつも居間にある椅子が、畳の上で寝そべっているだけでした。
少し焦ったくなった自分は、音を立てて襖を開き、母の部屋を廊下に晒しました。
母は、家を支える木の柱に紐を引っ掛け、てるてる坊主の真似をしていました。
いったい、どうしたのでしょう。明日は晴れる、とテレビが告げていたことを、自分と母は二人で見ていたのに、てるてる坊主をしている母を見て、不思議に思いました。
ジッと眺めていると、玄関から騒がしい音が聞こえ始め、荒々しい足音が自分に迫ってきました。
父が、自分の書斎に立ち籠るために、こちらへ歩いていたのです。
自分に気づいた父が、自分の見ているもを目にした時、舌打ちをして、保険金だのなんだのをぼやきながら、ガラケーでの会話を始めました。
自分は、ただ漠然と、自分の家が冷たかった理由を知らされた気がしました。
蝉の死骸が目立つ夏になりました。いつものように路地裏に顔を出すと、自分は一つ、変化が起きていることに気が付きました。
一匹、動かない猫が孤独にいたのです。
なんとなく、あの日アスファルトに放り出された猫だと、頭が勝手に認識しました。あの無愛想な猫は、その一匹をジッと眺めていました。
自分が育てた子猫の死骸を、いつまでも見続けるのは酷だろうと思い、自分は動かなくなった子猫を拾い上げようとしました。
ですが、あの無愛想な猫は僕をジッと睨み、自分がこれから取る行動を制したのです。
あの猫は動かなくなった子猫のそばに近寄り、子猫の首根っこを噛んで、他の子猫がいる場所に戻り、そっと腰を下ろしました。
そうしてあの猫は、アスファルトに放り出された日と同じように、その子猫を舐め始めたのです。
いつまでも、いつまでも、あの猫は子猫に恩恵を宿していました。子猫を映している瞳には、静かに、けれど確かな愛情がありました。
あの猫はもう、無愛想な猫ではありませんでした。
自分の頬に伝って口に入った汗は、しょっぱい涙によく似ていました。
茹だる夏の日。自分は、思い出したくないけれど、忘れたくもない出会いが一つ、小さな路地裏でありました。
懐古の愛猫 亜来輝 @Tellalie_TRBY
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