坂道
死なない蛸
第1話
技術の発展に伴い世界は人間に迎合するように大きな変貌を遂げて行った。世界はどんどん人間の住みやすい環境へと変えられていった。
人間の尽きることの無い欲望はとうとうあの一大事業を実行するまでに至った。その事業とは、すなわち、世界全体の道という道を全て下り坂にするという計画であった。人間はついに重力に二度と逆らわないことを決めたのだ。
この計画に反対するものはいなかった。すべての人々は科学技術を向上させるためのみの教育を受けていたため、合理的な考え方が体に染み付いていたからであった。すなわち、重力に逆らわずに移動することが最も効率が良く、科学技術の発達に自分が貢献しやすくなると考えたのであろう。
もっとも下り坂のみだともう二度と上の層に行くことが出来ず、それは不便だとみなされたため、大量の上に行くためにもっともエネルギー効率が高いとして大きなエレベーターが各地に敷設された。人々はこうやって、「上る」という概念そのものを撤廃することに決めたのであった。
新しく生まれてきた赤ちゃんは、重力に従ってのらりくらりと道を下っていけばいいと親に教わり、そのために彼らの筋力や持久力は甚だしく低下し、それが代々受け継がれることで人間は種族として筋力や持久力が衰える結果となった。
こんなことだといざという時に大変だと思われるが、人間は天災をもコントロールしていた。たとえば、人間たちには、地球がこれ以上火山活動による地震を起こさないということが分かっていた。いや、人間が、そうしたのだ。筆者はよくわからないが、なんでも発達した科学技術を用い、全ての活断層に人間の手がくわえることで、プレートの歪みをなくしたらしい。
この他にも人間たちは工夫を凝らして、エレベーターが維持され続けるように地球を改造し続け、完璧な状態に仕上げたのだ。
人間たちはしあわせな暮らしを送った。
移動に苦労することは無い、素晴らしい時代が来ると思われた。
地震が起き、エレベーターの機能が損なわれた。
このようなことを考慮できなかったのは、もちろん地震は絶対に起きないことになっていたからだ。なのに起きてしまった。原因は誰にもわからない。恐らく地球を欲しいままにした人間に対する神様からの天罰なのであろう。
ともかく、人間は有史以来最悪の事態を迎えることになった。人間たちは、自分たちがいるところから身動きを取れなくなったのだ。下に行ける分は限られている。だからなるべくその場にとどまって生き続けなければならない。
しかし、「上る」という概念を失った人間にも、皮肉なことに「上下」の感覚は残されていた。つまり、国家や世界において主要な施設は、上の方に設置されていたのであった。しかもそれには病院や食料の貯蔵庫なども含まれているのだ。
下層にいるものは限りない絶望を覚えた。医者も見ず知らずの人のためにわざわざ下層に行くはずもないので、病気になったものは、上を見ながら歯を食いしばって、口から血を流しながら病死していくだけであった。かくして、下層の人間たちはこれ以上ない窮地に立たされる結果となった。
上層のものは、比較的余裕があった。とはいえ、ただその場にとどまりながら、近くにある健康な食材をほおばり続ける。そんな生活を強いられていた。
彼らの中には、そのような退屈にさいなまれ、下層の過酷な生活に1種の羨望を抱くようになった。頭が狂いそうなほどの単調さの中で、そのような発想に至るのは無理もないことである。実際に耐えかねた数人が、ありったけの食料を抱えて、下に向かって走り続けた。その多くは途中で大きく転んで首の骨を折って死んだ。
狂気は下層よりもむしろ上層で拡大していき、どんどん高まっていって、ついに破裂した。退屈に理性を押し潰されて狂った1人が手元の尖った石を掴んで上層の人々を殴り殺して回ったのだ。人々はもともと体力がなかったため、1回殴られただけで倒れ、そのまま動かなくなった。かろうじて生き残った1人がその狂人を返り討ちにした。しかしそうしたところで辺りに転がっているのはのは無残な死骸のみであった。彼は1度大きく唾を飲み込んでから、かすかなため息を吐いた後に、おもむろに、おぼつかない様子で下層へ転がっていった。昔までなら、死んでも行きたくなかった下層へ足を運んだのだ。彼はやっとのことで下層部の人々のもとへたどり着いた。下層人にとっては、何か救いをもたらしてくれそうな、一縷の希望をそこに見いだして上層人の発言に耳を傾けたのだが、彼は仲間の上層人の全滅を告げて息絶えただけであった。
下層の者たちはその知らせを聞いてさらに絶望を感じた。なぜなら、なんだかんだいままで情けをもって食料を下まで転がしてくれるような上層人がいたのが、死んでしまったと分かればもう豊富な食料庫から食料を得ることが出来ないということになるからだ。といって下層こそもう食料は残ってなく、もうここまで来たら道はひとつしか残されていない。
下層の者は上層へ上る決意をした。
しかし彼らに上る方法はわからない。いままで上層へ行くという決断を渋っていた理由でもある。そもそも重力に逆らうということが、彼らには禁忌のようなことだとさえ思われたのだ。
彼らは必死に体をもがき動かした。だが、重力に従うことのみを考慮された坂は利口に人々を下へと転がす仕事をこなし、人々は途方に暮れた。
最終的に彼らは手を使ってほふく前進といった方法で少しずつ這いつくばりながら上ることにした。しかし筋力が全く失われている彼らにとってこれほどの困難はなく、たくさんのものが途中で挫折し、そこで餓死して死ぬ結末となった。
試みは困難を極めた。生き残った者達は、生き残るために出来うる全てを尽くし、着実に上り続けた。
その中で、ずば抜けた気力を持った一人の男が順調に坂を這い上っていた。彼には家族があり、全員上層部で暮らしていたが、例の大地震が起こる数日前から、仕事の用で下層に出張していたのだ。地震前は情報網も発達していたため、彼のように、わざわざ現地に赴くことは少なく、常に家族のもとで暮らしているのが基本であった。そのため、彼らにとって家族に数日間も会えないというのは、この上ない苦痛であったのだ。そんな所に瀕死の上層人から、狂った一人によって上層人全員が死亡したという連絡が入り、いてもたってもいられなかった。一刻も早く上層へ行かないと、家族の死骸が風化してしまう。この考えが、彼の気力を奮い立たせていた。
しかし道は長い。にも関わらず彼の手元には長く取っておいたひとかけらのパンとコップ一杯に満たない小さな水筒に入った汚い水しかないのである。当然彼の体への負担は凄まじく、何度も猛暑のために気を失った。しかしやらねばならぬ。心が折れることは無かった。
彼は全ての気力を自身の腕に集中させた。もはや彼の脳に届くべきエネルギーは残されていなかったのだろう。目はあらぬ一点をじっと見つめながら、腕を動かし続ける不休の機械と化していた。
見覚えのある立て看板を認識して、彼は久しぶりに正気を取り戻した。そこには上層の人々が暮らしていた場所まであと少しで到着出来ることを示す看板であった。いや、下に降りることだけを想定された道にこんな看板はあるはずがない。彼の妄想か、暇を持て余した上層人による計らいなのかわからないが、彼の視覚はそれを認識したのには変わりがなかったし、実際に看板が示すところまであともう少しで到着出来ることは事実であった。
彼は正気を取り戻すことで喜びと同時に耐え難い空腹と渇きを感じた。彼は残ったパンと水をすべて消費し切って、ラストスパートに全力を注いだ。
彼の視覚に長く目指し続けていた食料庫をとらえた。限りない喜びを感じた彼は、もはや人間と呼べるかが疑わしい彼の腕は摩耗により、形容するのにはばかられる状態になっていたが、それでも残っている腕と呼べうるそれで、ずっと上を目指し続けた。
少しずつ、彼は喜びを噛み締めながら坂を上り詰め、とうとう地球の頂上、すなわち食料庫にたどり着くことが出来た。彼は喜びのあまり大はしゃぎして腕を上下に振り回した。
するとなんということだ、彼の体は浮き始めた。彼の筋力が発達しすぎたなのかなんなのかわからないか、とにかく彼の体は空に向かって飛んで行ったのだ。もはや止められない運命だと悟った彼は、家族に会えなかった名残惜しさすらも克服し、薄れゆく記憶のなか、満足感に浸りながら静かに目を閉じた。
これを見ていた中国の李膺という男は彼が登ってきたこの道を竜門と呼び、これにちなんで後世では登竜門という言葉が生まれたという。
最後に蛇足だが、人間の筋肉が退化していく過程で、足すらも失われていたことを補足してこの話を締めるとする。
坂道 死なない蛸 @shinanaitako
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