古い家の古い台所の古い、母の鍋
香久山 ゆみ
古い家の古い台所の古い、母の鍋
「……あった」
食器棚のいちばん下の段の、いちばん奥から見つかった。よいしょと身を屈めてそれを取り出し、そのまま台所の床に置く。ふう、溜め息とともに、私もぺたんと座り込む。そっとそれに手を触れる。
古い鍋。
アルミ製でひやりとしている。細かい傷やへこみがざらざらと指先に触れる。遠い昔、この鍋を使ったことはあっただろうか。こんなに傷がつくくらいに、使っていたのだろうか。記憶には無い。けれど、母の作った、肉じゃがや煮物の味は、今も覚えている。
ずいぶん久しぶりにこの家に帰ってきた。
成人して就職し、一人暮らしをはじめて以来、この家に帰ってくることはほとんど無かった。結婚してからはなおさら、家に帰るのはお正月くらいで、お盆にすら寄りつかなかった。ひどい娘だ。女手ひとつで私を育ててくれた母なのに。
母が亡くなった。遺品を整理するために戻ってきた。
古い家だけれど、整然と片付いている。母らしい。しっかりした人だった。他の部屋の片付けは人に任せて、私は真っ先に台所を引き受けた。どうしても私が片をつけなければいけないと思ったから。
床に鍋を置き、それを抱え込むように私も床に座っている。この台所は広いのに、蛍光灯の光の下でもなんだか薄暗い。幼い頃からずっとそう感じていた。そっと目を閉じ、あの日の記憶を手繰る。
まだ幼い、小学生の時だった。お腹を空かせた私は、こっそりと台所に忍び込み、がさごそとお菓子を探していた。間食を見つかると、また祖母に叱られてしまうから。
その時に、見つけたのだ。この鍋を。
コンロの上の天袋棚の中。食い意地の張った私は、こんな場所に隠されているなんて、中になにか美味しいものでも隠してあるんじゃないかと思って、鍋を引っ張り出した。そして、確信した。だって、鍋には蓋がされ、そのうえ針金でぐるぐる巻きにされていたのだから。こんな厳重にしているなんて、きっと特別なものが入っているに違いないと思い、それを開けるため、針金に手を掛けようとした。が、
「きゃっ」
私は驚いて、鍋から飛び退いた。
カタカタカタ、と鍋から音がしたから。
動けずにじっと見ていると、やはり鍋の中から音がする。
カタカタカタ。中で何かが動く音。カリカリカリ。中から蓋を引っ掻く音。
「どうしたの」
と、そこへ、私の悲鳴を聞いた母が台所にやって来た。引き攣る顔で、私は床の上の鍋を指差した。
「……ああ」
母は平然と鍋を持ち上げて、さっさともとの場所に戻してしまった。扉がしっかりと閉められたのを確認して、私はようやく口を聞いた。
「お母さん、今の、なに?」
「なにって、お鍋よ」
「中に、なにが入っているの」
母はそれには答えず、言った。
「見たい?」
ぶんぶんと私は首を横に振った。母は笑った。
「じゃあ、もう触っちゃだめよ」
そう言って、私の頭を撫でて、台所から出て行った。私はぼんやりと母の後ろ姿を見送って、実際、もうその鍋を触ることはなかった。
すぐに忘れなきゃと思って、なにも無かったことにした。けど、忘れることなんてできなかった。
一体鍋の中にはなにが入っていたのだろう。
考えるほどに恐ろしく、いっそ中を確認しようと、ずいぶん経ってから、またこっそりと同じ場所を探ったけれど、母が場所を移してしまったようで、それきりその鍋は見つからなかった。
だから、鍋の中身については、ずいぶん空想した。まずは、ネズミか何かかと思った。それから、父かと。
幼い私が鍋を見つけた、その一年ほど前。父が姿を消した。
「お父さんはどこ?」
私が聞いても、祖母は泣くばかりだし、母は何も答えなかった。それで私も聞くのをよした。
だから、私は鍋を見つけた時に、直感した。これは、父だ。
カリカリカリ。鍋を開けてくれと、ばらばらになった父の手が、指が、がりがりと蓋を掻く。そんな光景が頭に浮かんだ。そうして、父を殺したのは。
だから、母が亡くなった時に、この鍋を開けようと思った。母の骨もこの中に、父と一緒にすべきかと思ったのだ。
なんて、うそ。
大人になった今はもう、そんなことを考えていない。大きくなった私に、親戚連中は耳打ちした。父は、よそに女をつくって出て行ったんだと。妻と娘と母親を、置いて。
では、この鍋にはなにが入っているのだろう。母は、なにを入れたのか。捨て置いたのか。
夫が逃げ、姑と、この古い家で。台所で母が捨てたのは、憎しみとか後悔とか。喜びとか希望とか。そんなものではなかったか。本当は、母はここから逃げたかったのではないか。けれど、私がいたから。それでずっと我慢していたのでは。鍋に巻かれた針金は、開けた形跡が無い。ずっと、我慢して。なら、今こそ母を開放してあげなければと思って。
きつく巻かれた、錆びた針金を、ぎしぎしと解いていく。爪先に、指に、血が滲む。と、
「お母さん、どう?」
ようやく針金を解いて、蓋を開けた、ちょうどその時。仏間を片付けていた娘が、台所にひょっこり顔を出した。まだ小学生なのに、ずいぶんしっかりした娘に育ってくれた。そうだ、私が鍋を見つけたのもこのくらいの年齢だった。そして、母は私くらいの。
ああ。今ならわかる。
コトン。私から零れたものが、鍋の底に落ちて音を立てる。私のものと、母のものとが、コロコロと混じりあう。母の涙を、はじめて見た。
母が泣いたところを見たことがない。思い出すのは、いつも笑顔で元気のいい母だ。
母は、私がいたからどこへも行けなかったのか。いや。私の、娘を見てわかった。母は、私がいたからここにいることを選んだのだ。つらいことも全部、この鍋の中に隠して、全力で私を愛してくれたのだ。
そんな母を、私も愛していた。厳しかった祖母の思い出を避けて、この家にはあまり寄りつかなかったけれど、母とはたくさん話をした。電話したり、食事したり、旅行にも行った。
そうだ、母は幸せそうだった。家を避ける私を面白そうに笑っていた。
母は幸せだった。そして、そんな母に育てられた私も。
コトン。また一粒。
鍋の中で涙の粒がコトコト踊る。まるで、笑っているみたいに。カタカタゆれる鍋と私を、娘は不思議そうに見ていた。
古い家の古い台所の古い、母の鍋 香久山 ゆみ @kaguyamayumi
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