冥き道にぞ

香久山 ゆみ

冥き道にぞ

 それはもう染みついた癖みたいなもので。

 私はいつも誰かのあとを歩く。商店街で、遊歩道で、通勤ラッシュ、駅からの帰り道。無意識に、前を歩く人の歩調に自分の歩調を合わせる。そしてそのままふらふらとあとを追ってしまう。自然にはぐれるまで。例えば、赤信号で見失ったり、相手がお店に入ってしまったりして、いつもなら追跡は終わってしまう。

 けれど、今夜はどうしたことだろう。かれこれ半時近くもずっと私は前を行く人を追いかけている。信号で離れることもなく、店や駅に寄ることもなく、前を行く人は一定距離先を歩き続けている。右、左、右……、私は彼の歩調に合わせて黙々と足を動かす。思えばおかしなことだ。もうすっかり日も暮れて、前を行く人はぼんやり黒いシルエットでしか見えないが、背格好は男性のようである。小柄な女の私がまったく引き離されることなく歩いているのはどうしたことだろう。

 今日も残業で、定時から三時間程遅れてようやく会社を出た。鬱屈した空気を纏ったまま自宅に帰りたくなかったから、一駅二駅歩くことにした。ビジネス街だし、まだ人通りもあり明るい。そうして歩くうちに、いつの間にか無意識に彼の歩調を追っていたのだ。

 彼の歩調は心地良い。一定のリズムで進む。遅すぎず、かといってついて行かれないくらい速くもない。安心感がある。ちょうど、無心になれるリズム。は、は、は、私はやや早歩きであとを追う。どこまで行くんだろう。分からない。ただ、はぐれないように。今度こそ。

 私はいつもはぐれてしまうから。「こんな会社最悪だよ。けど、今更どうしようもないもんね。あんたと愚痴を言い合えるから私なんとか続けていけるわ」と言っていた同期は、三十の手前で華麗に転職していった。「もう結婚はあきらめたぁ。アラサー独身同士、私らずっと一緒に遊ぼうねぇ」と約束した友人達は、皆ばたばた結婚、出産で、もはやお気楽な独り身の私には構ってくれない。そんな風にいつも、いつの間にか私は置いてけぼりになってしまう。そうして、ずっと追いかけていた標がなくなって、呆然と立ち竦むばかり。

 だから、今度こそはぐれないように、私は必死であとを追う。道はどんどん暗くなる。夜道はどうして朱黒いのでしょうか。街灯や車のテールランプに照らされて。真っ直ぐな道を進む。どこまでもどこまでも。彼は同じ歩幅で進む、私もその十メートル程後を付かず離れず追う。シルエットはどんどん闇に紛れていくけれど、街灯に照らされ伸びた長い影を頼りに、追う。どこへ行くのかなどもうどうだっていい。ただ、もうはぐれてはいけない。ずっとついておいで。誘うような歩みを、一心に追いかける。

 追うのは得意なのだ。幼少期から書道教室に通っている。もう四半世紀にもなる。書道では、古典が絶対で、上達するには臨書――古の書家の字を書き写して稽古する。ひたすらに。何枚も、何枚も。先達の線をなぞる。ずっとそうしてきた。だから。

 街灯も車も減り、道はどんどん暗くなる。私たちは夜道に真っ黒な線を引く。彼のあとを、ただ追いかけて。二月の寒さにも関わらず、ほのかに汗をかいている。足の裏がじんじんと痺れる。心地よい。彼は私をどこへ連れて行ってくれるのだろうか。もはや自分がどこを歩いているのかも分からない。だから、追いかけるほかない。私は愚かだから、一人じゃどこへも行けない。

 仕事も結婚もだめで、私には書くことしかない。けど、それさえも。長く続けているだけで、何にもならない。自分でよく分かっている。私のは、「書道」ではなく、いつまでも「お習字」のままだ。臨書はそれなりに上手に書ける。王羲之や欧陽詢から始まり、顔真卿・孫過庭・智永……、先生の勧めで長らく王鐸にも取組んだ。仮名書さえ習った。はじめはそれで良かった。学生の頃は、臨書すればするほど褒めてもらえた。なのに、次第に臨書ばかりでなく創作作品を作りなさいと言われるようになる。でも、できない。私は真っ白な紙の上で呆然と立ち尽くす。あちこちの古典から必要な字を切り貼りしてみる。バランスが悪い。うまくまとめられない。かといって、いちから自分で作るなど、とても。書けば書くほどに肝心の文字造形さえ崩れていく。それでも四苦八苦して書き上げたものを提出する。添削される。そうして結局は先生が直したものを手本にして書き写す。いつまでも自分の字が書けない。自分の足で歩けない。こわい。

 ぼんやりそんなことを考えていて、ふと顔を上げたらいつの間にか周囲は漆黒の闇に包まれていた。無心に追いかけていたはずの彼の姿も、影さえも、見えない。足を止める。何も、見えない。もうどこにも行けない。

 ――冥きより冥き道にぞ入りにける――

 ふいに思い出したのは、和泉式部の歌だったか。もがけどもがけど出口が見えない我が身に重ねて、筆を止めて溜息を吐いた私に、先生は言った。

「これは仏道に入る歌だといわれているけれど、道という意味では書道も同じだ」

 顔を上げた出来の悪い弟子に、先生は笑った。

「書の道は臨書に寄るところが大きい。先人達の線を辿っていく。けれど、いつかは自分自身の力で線を引かねばならない。しかし、書けば書くほど自らの未熟さを知ることになる。もう書けない、お先真っ暗だと。だが、それが大事なんだ。真っ暗な道では誰に頼ることもできない。そこからは自分自身の足で歩くしかないんだ」

 あの時はなぜそんな話をされるのかよく分からずに、聞き流して、ただひたすらに手本を真似していた。

 今なら分かります。

 昨年、初めて公募展に出品した。先生にも内緒で。自分一人の力が如何ほどのものなのか試したかった。結果はあえなく落選。二十年以上書き続けてきたのに、結局私の力じゃあ何もならなかった。情けない。それで、書いて書いて。これまでの人生で一番書いた。休み明けに出勤すると墨の匂いがすると同僚に笑われたほど。今年、末席で入選した。しかし、他の作品と並べて展示された私の作品は明らかに劣っていた。それでまた、書いて書いて。いろんな書道展や美術展を観に行き、そしてまた書いて。

 自分のことは分かっている。私はきっと先生や書家の人達ほどの才能はない。還暦を迎えた先生は今もさらに上の先生に師事しているし、その先生の上にもまた大家がいる。道は長く果てしない。けれど、進むしかない。もうこんなところまで来てしまった。私にはこの道しかないから。誰かのあとをついてきた。けれど、この道を選んだのは間違いなく自分自身なのだから。

 恐る恐る一歩を踏み出す。暗い。足元もよく見えない。

 いつまで経っても上手く書けないけれど、「強くて真っ直ぐな線を引く」と昔からよく褒められた。それだけでこんなところまで歩いてきたのだから、私は馬鹿だ。馬鹿だから、ただ真っ直ぐに歩くしかない。顔を上げると、ほのかに光が見えた。気がした。あの灯りは何なのか。来し方の道のりは先人達に手を引いてもらったが、未来へは自分自身で線を伸ばすほかない。進め、進め。

 ――冥きより冥き道にぞ入りにける 遥かに照らせ山の端の月――

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