ぬるま湯の中で死んでいる

伊統葵

ぬるま湯の中で死んでいる

 今日も私はぬるま湯の中でゆっくりと死んでいる。特別な何かをするわけでもなく、ただ燻ぶった心を燻ぶったしたままに確実に死んでいる。


 頭の後ろを浴槽の縁に乗せ、お風呂場の空気より湿り気のない息を吐きながら、溺れていた。ゆったりと。


 スマホからアジカンの曲を流している。ロックだが、ポップな曲調がぼんやりとした頭には心地いい。ゴッチの力強い歌声も溌溂で、まだあの頃に浸っていられる。


 思えば、もう私はアラサーと言われる年頃が抜け出そうとしていた。ほんの数年前まではアラサーということにまだまだ私は若いと何の根拠もなく、反発していた。周囲の友達は徐々に結婚していって、私ももう若くないことに気付いた。きっと新しい出会いがあると信じ続けた十年間は遂に報われることはなかった。


 私は思いあがりすぎた。


 理解のある両親の間に生まれ、一人っ子だが、寂しい思いなんてしたことはなかった。今も頻繁に連絡を取っている母は「早くいい人見つけて、孫の顔を見せてほしい」と言ったことはなかった。


 いつか叶うと信じて、でも叶うはずもなかった。夢というものが目の前でゆらゆらと揺れる虚像に見え始めたのはいつの日だったのか。


 「君の街まで」――お気に入りの曲の聞くのを止めて、母に電話を掛けてみた。第一声私はいつもと違った声色で話しかけた。


『ねえ、私どうすればいいと思う』


 母は急にどうしたのと驚いた。


『私はさ、もっと何かあると思ってた。夢とか理想とかすべてが叶うと思ってはいなかったけど』


 私は母に分かってもらおうとは思わなかった。ただ話したいことを話しただけ。さながら「あれ、なあに」と尋ねる幼稚園児のように。母の袖を引っ張って、指を示して喋っているのだ。


 息の飲む声が聞こえた。


『もう無理になっちゃった?』


 母がどんな顔をして、聞いているのか。どんな思いで、聞いているのか。想像がつくはずもない。もう十年もまともに母の顔は見ていないのだから。


『ううん。違うよ。無理になったわけじゃないんだ。お母さん、もう何か目指すわけでもないんだよ。結局何もできないんだ。そのことに気付いただけだよ』


 数刻程経ったかのような静寂の後、母はゆくりない話をし始めた。


『生前父さんはね、俺は大成するだって息巻いて、ずっと夢を追い続けていた時期があってね。そんな人が変わったのは私が妊娠していると分かった時かしら』


 電話越しの声は風呂場に反響ながら、私を見つめ、耳に残るまま続けられた。


『あなたが生まれてから常日頃からあなたには自分の夢を追い続けてほしいって口ずさんでた。あの人も無責任よね。自分の代わりに娘に勝手に夢を見ているんだから。でも、男とは全然華奢な体でいる娘の中に父さんは確実に生きていたんだ。あなたが父さんが望んだように夢を追いかけて大阪に行った。その直後の事だったんだよ、父さんが脳卒中で亡くなったのは――』


 その後色々話し、母からはいつでも帰ってきていいと言われた。だが、ぼんやりとした頭の中に忽然と激しい痛みを伴った悲しみが渦巻いていた。


 依然お湯に半分浸かっている胸で浅く湿った空気を呼吸している。


 私はゆっくりとぬるま湯の中で死んでいた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ぬるま湯の中で死んでいる 伊統葵 @itomary42

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ