忘却のカナタ

香久山 ゆみ

忘却のカナタ

 彼は、繁く美術展に足を運ぶ。

 まるで造詣もないし、知識もないし、ましてやそれほどの興味もないくせに。

 なのに、ピカソやゴッホ、ルノワールやダリ、はたまた北斎や応挙も。展覧会が開催されると聞くと、いそいそ出掛けていく。そうして、ただぼんやりと絵の前に佇んでいる。

 なぜか。

 別に、ブームに乗りたいわけでもない。そもそも彼には、趣味を語らう友人なんていない。彼――ホンジョウ・カナタは、恐れているのだ。人一倍に。忘れられるということを。

 カナタには家族がいない。恋人もいない。友人もいない。ただ一人で生きている。平凡な男。人に自慢できる特技があるわけでもないし、運動神経も月並み。勉強だって中の中で。顔もふつう。学生時代には、終業式まで教師に名前を覚えられないような子だった。今だって。勤めには出ているものの、別に彼がいなければ困るということもない、普通の会社員だ。いや、急に出社しなければ、少なからず周りに迷惑は掛かるかもしれない。しかし、人並みの常識と良心を持つ彼には、無断欠勤なんて、滅相もない。ホンジョウ・カナタはそんな平凡な人間。誰かに特別必要とされるわけでもなく、かといって、のっぴきならないくらいに恨まれるようなこともない。会社で同僚とはふつうに挨拶するし、たまには飲みに行く。けれど、腹を割って打ち解けられるほど友好的な人間でもない。

 カナタは孤独だった。

 ずっと。

 周りの同世代が家庭を築いていく中、彼はひとり取り残された。結婚したくないわけじゃない。女が嫌いなわけでもない。けれど、彼はひとりだった。まあ、もてなかったし。なにより、彼は人と深く接するのがそんなに得意ではなかった。そうして彼は、自分はこのまま一生ひとりなのではないかと思い至り。孤独と忘却に震えた。ただでさえ存在感の薄い自分は、死後、誰の記憶にもまるで残らないのではないか。まるで、はじめからこの世界に存在しなかったかのように。それはとても恐ろしいことのように思えた。

 けれど、人は簡単に変わることなんてできない。忘れられるということを人一倍恐れているくせに、自分から人の輪に入ることは難しかった。そうだ、ただ皆の記憶に残れば良いということなら、大きな犯罪によって全国ニュースで皆に自分の顔を名を刻むことができるのではないか。そんなことを考えもしたが、もちろん考えただけだ。人並みの常識と良心を持つ彼だから。そうして、考え付いたのが、美術展を巡ることだった。

 有名絵画の前にじっと立つ。彼は人物画の前に立つことを好んだ。カナタの死後も、その絵は何百年と受け継がれるだろう。そんな絵に、彼は自分の姿を記憶させようと考えた。ゴッホの自画像に、ドガの踊り子に、モナ・リザに、麗子像に。彼は自分の存在をアピールした。なんと健気なことか! そんな行動に、彼自身失笑せずにはいられなかったが、それが精一杯だった。

 けれど、そんなカナタに千載一遇のチャンスが舞い降りた。

 外回りの途中に寄った銀行で、強盗事件が発生。単独犯だが、犯人は人質にした老婆に大振りのナイフを突きつけ、金銭を要求して怒鳴り散らしている。犯人の体格の良さと、鈍く光るナイフに、誰も身動きが取れない。キャア。ダレカ、タスケテ。その光景に、ホンジョウ・カナタの体に稲妻が走った。

 いまだ。

 カナタのいる場所は、犯人の死角でもなんでもなかった。行内の人間は犯人の指示で一ヶ所に集められていたのだから。けれど、カナタは床を蹴った。それは、愚かな行為だった。ワアア、と大声を上げながら、カナタは両手を広げ、胸と腹を差し出すような格好で、犯人めがけて走った。案の定、犯人は驚いて、老婆を投げ捨て、カナタに向かってナイフを構えた。刺される。誰もがそう思った。カナタ自身も。それでよかった。深く刺せばいい。刺された瞬間に犯人にしがみつく。そうして、一瞬でも動きが止まった隙に、誰かが犯人を取り押さえるだろう。死ぬかもしれない。けれど、ホンジョウ・カナタにとっては、それ以上に大事なことがあった。これで僕の存在を記憶してもらえる。皆に。世界に。それは、その瞬間、カナタにとって、死ぬことよりも大事なことだった。それが、彼にとって、生きることの意味だったから。

 そうして、彼が想像した通りの結末を迎えた。

 全国ニュースで彼の名前が大きく取り上げられた。「勇敢なる戦士の尊い犠牲、その名は無限のカナタへ」と題した記事もあった。

 けれど、ホンジョウ・カナタが英雄視されたのは、当初の間だけだった。警察が、勇気ある行為ではあったが、と前置きをつけた上で、今後同様な事件があった際に軽率な行動で犠牲を増やすことを是としない、と厳しく批判したことで、報道は間逆にシフトした。ホンジョウ・カナタは、愚かな行動の代名詞となった。それでも、より強く名前が刻まれるなら、彼は喜ぶだろう。しかし。世間とは薄情なものだから。時とともに出来事は風化して、あっという間に皆に忘れ去られてしまうのだ。現に、「勇敢な犠牲」と第一報が出たあと、彼が一命を取り留めていた事実を重ねて伝えた媒体は、数えるほどだった。

 彼は、そのことにがっかりするだろうか。それとも?

 けれど、そんなことはどうでもいいのだ。私には。心配なのは、彼を見舞う人はいるのだろうかということ。もしいないのならば。私が見舞いに行ってもいいだろうか。彼のブログの唯一の閲覧者だった私が。

 カナタはインターネット上でブログを開設していた。自分の存在を世界に刻もうと。けれど、平凡すぎる日々を綴った彼のブログ。閲覧する人間はいなかった。私以外は。

 彼がなにもない平凡な人間だったからこそ、私は彼のブログに惹きつけられた。私と同じ。なにもない平凡な私と、同じ。ああ、私は一人じゃないんだ。そんな風に思えた。そのことを彼に伝えたいと思った。けれど、あまりの閲覧者の少なさのせいか、彼のブログはじきに閉鎖されてしまった。

 そうして、しばらくして、ニュースで彼の名を見つけて驚いた。彼の行動の理由は、推察できた。ばかだと思った。友達も恋人もいなくて。誰かに自分の存在を覚えていてほしくて。一生懸命に出した答えが、絵画の前に立つことで。自分の体を投げ出すことで。ばかだ。ばかで、ばかで、愛おしい。ばか。ブログ更新してくれないと寂しいじゃないか、ばか。

 そんなに忘れられたくないのなら、私が小説にでも書いてあげるから。ほら、君のことよく知っているでしょう? ってお見舞いに行くから。だから、早く目を覚ませ。ばか。

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