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香久山 ゆみ

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 相談したいことがあります、と言うと、終業後に先輩は喫茶店に連れていってくれた。

 人間関係苦手な私が唯一気の置けない先輩だ。優しくてきれいで、細やかな気遣いができて、同僚後輩に分け隔てなく接してくれる。尊敬できる人。

 新人の頃の私の指導係で、よく面倒を見てくれた。業務のことはもちろん、業務外の社会人としてのマナーまで。いつまで経っても飲み会に慣れず、強張った顔をしている私に、秘密だよ、と話してくれた。

「私のお仕事スイッチは腕時計なのよ。通勤電車の中で腕時計を嵌めるとそこから仕事モード、会社を出て腕時計を外すともう仕事のことは考えない。腕時計の着脱でオンとオフのスイッチを切替えてるの」

 へえ、なんだか変身ヒーローみたいですね。単純にかっこいいと憧れる私に先輩は続けた。

「だからね。これは職務だと思う飲み会では腕時計してるし、こんな風に親しい人とディナーの時は外しちゃうの。腕時計してる時は、これも仕事だと思って我慢我慢よ。笑顔で楽しい会にするのも仕事の一環、ってね」

 そう言って、唇に指を当てていたずらっぽく笑った。皆が皆飲み会大好きなわけじゃないんだ、先輩でも苦手な時があるんだ、それだけでなんだか安心できた。それからは、嫌な飲み会でも、先輩の腕時計をチェックするという任務ができ、先輩が腕時計をしっかり嵌めている時なんかには独り仲間意識にほくそ笑んだりした。私だけが知る秘密。

 大好きな先輩。

 新人の私は先輩の背中を追いかけ続けて、何とかここまで成長し勤めることができた。先輩は私のメンターです。私を導いて、育ててくれて、時には私が群れから逸れないように自然と皆の輪の中に招き入れてくれた。

 一人前の社会人になった、と思っていた。けれど、すべては先輩の庇護があってこそだったのだ。

 昨年、人事異動で先輩が他部署へ配置替えになった。

 ただそれだけなのに。なんだか歯車が一つ外れたみたいに、上手くいかなくなった。もちろん、仕事はできる。けれど何か、職場の中での居場所というか、何となく何かが上手くいかない感じ。

 新人の指導係に私が任命されたのも理由の一つかもしれない。私は先輩みたいに上手く指導できない。仲良くできない。私よりも上手く職場に溶け込む新人に、私は居場所を奪われてしまったような気がしている。そう思うからなお上手くいかない。心が狭い。職場の仲間と楽しく笑う後輩。居心地が悪い。私だけ輪からはみ出している。ここはもう私の居場所ではないのではないか。……いっそ逃げ出してしまおうか。

 そう悶々と悩んでいる折、先輩に久々に再会して、つい引き留めた。

 先輩は親身に聞いてくれる。

 うんうん分かるよ、私もそんな時あったもの。頑張ってるね。昔と変わらず話を聞いて、アドバイスをしてくれる。他の上司と違って心に沁みるのは、私が心を開いているからかもしれない。

 なのに。

 先輩の腕には時計があるのだ。

 私は腕時計を外しているのに。先輩、もう忘れちゃったのかな。私に話をしたこと。私のことなんて。

 ほのがなしい気分で帰宅し、とぼとぼ愛犬の散歩に出る。愛犬がいつもより足取りの重い私を見上げる。愛犬ハナだけだ、私が心を許せるのは。もう人間なんて誰も信じられないんだから。頭を撫でようとすると、するりと私の手を抜けて、駆けていく。いつもおやつをくれる近所のおばさんだ。ハナはわたしのことなんて無視してへっへと尻尾を振っている。戻ってくる気配すらない。単純なやつだ。

 私も。

 ハナみたいに単純ならいいのかな。

 私がお願いして相談に乗ってもらったのに、結局先輩のごちそうになった。それだけで十分じゃないのか。こんな私のために時間もお金も使ってくれて。その上腕時計を外してほしいなんて、図々しいのかもしれない。

 私も、もっとシンプルになればいい。

 一緒にお茶してくれる先輩がいる。それだけで十分じゃないか。

 おやつがもうないと判断するや颯爽と戻ってきたハナが私に尻尾を振る。もう帰ろう! と。

 家に帰ると、先輩からメールの着信があった。

「毎日決まった時間にわんこのお散歩してたよね。間に合ったかな。食いしん坊なハナちゃん、元気? 明日も頑張ろうね!」

 私はすでに十分単純みたいだ。それだけで、すごくすごおく嬉しくて元気になったのだから。

 そうだ、先輩がしていた腕時計、私がお餞別にプレゼントしたものだった。付けていてくれたんだ。

 隣でハナも尻尾を振っている。

     *

「先輩、私と食事行く時にはいつも腕時計を外してくれますよね」

 ありがとうございます。と、私が、出来の良すぎる後輩から腕時計をプレゼントされて号泣するのは、もう少しだけ先の話。

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