彼氏に浮気されました

月代零

彼氏に浮気されました

「まじ最悪なんだけど」


 居酒屋の喧騒の中、チューハイをあおりながらわたしはぼやく。

 座敷席の向かいからそんなわたしを見て苦笑するのは、親友のなぎさだ。


「あたしはそいつの話を聞く度に、さっさと別れた方がいいんじゃない? って思ってたけど」

「えー? そんなこと、一言も言わなかったじゃん」

「あんまり人様の彼氏をディスるのもどうかと思って」


 そう言って、渚はジンライムの入ったグラスを傾ける。

 良くも悪くも他人に干渉しない。それが渚のいいところであると同時に、周りからは「淡白で冷たい」と言われてしまう所以ゆえんでもあった。


 昨日、わたしは付き合っていた男と別れた。原因は、彼の浮気。

 早朝、不意にスマホが鳴って、わたしは夢の世界から覚まされた。画面を見ると、彼――もとい元彼から電話の着信だった。

 こんな時間になんだろうと思いつつ通話ボタンをタップすると、知らない女の声がした。

 その声は震えながら、「ヒロ君の彼女は自分である。あんたは何者だ、どういうつもりだ」というようなことを言っていた。いやいや、その台詞、そっくりそのままお返ししたいところだが、わたしも混乱して電話ではらちが明かないと思い、身支度もそこそこに家を飛び出した。普段はおとなしいけれど、たまに妙に行動力があると言われるわたしである。この時もそれが発揮された。


 彼の家は三駅ほど先。始発はもう動いている。速足で改札にICカードをタッチし、ちょうど滑り込んできた電車に飛び乗った。

 アパートの階段を駆け上がり、チャイムも押さずに合鍵を使って、勢いよくドアを開けた。こんな早い時間に近所迷惑かとも少し思ったが、そこまで理性的ではいられなかった。

 そしてわたしの目に飛び込んできたのは、彼と、知らない女が半裸でベッドの中にいる場面だった。ワンルームなので、玄関から居室まで丸見えだ。


「……えっ、晴美? なんで?」


 彼は突然のわたしの襲撃に焦って、傍目にも狼狽している。女の方も、まさかわたしがここに現れるとは思っていなかったようで、目を丸くしている。女はわたしの顔など知らないはずだが、このタイミングで現れるなら先程の電話の相手しかいないだろうということくらい、想像がつくだろう。

 頭の芯がすっと冷える感じがした。

 わたしは靴を履いたままずかずかと部家の中に上がり込むと、持っていたバッグをフルスイングして、なにやら言い訳を述べている男の顔に叩き込んだ。ぶぎゃ、と潰されたカエルのような声を上げて、彼が倒れる。よく見ていなかったので、顔に当たったのか頭に当たったのかわからないが、どうでもいい。


 傍らの女にじろりと一瞥をくれてやると、女も「ひっ」と小さな悲鳴を上げた。こいつもぶん殴ってやろうかと思ったが、さすがに女性を殴るのはどうかと思ったので踏み止まった。

 悪いのは彼だし。いや、この女はわたしの存在を知ったうえで彼とよろしくやっていたのか? 

 わからないが、こいつらはわたしのいないところで仲良くやっていた。それだけが事実だ。

 わたしはお泊まりした時用に置いていた化粧品や着替えを回収すると、彼の顔面に合鍵を投げつけて、部屋を後にした。


 しかし、合鍵を渡した彼女がいるのに、自室で事に及ぶとは、詰めが甘いにも程がある。馬鹿なのか。いや、馬鹿なのはそんな男だと気付かずに付き合っていた、このわたしだ。くそ、くそ、くそっ。

 それからどうしたのか、よく覚えていない。電話が何度も鳴って、メッセージも鬼のように来た。メッセージには「ただの友達だ。浮気じゃない」「本命はお前だ」などと書かれていた気がするが、何を言っているんだと一瞥してブロックした。電話もメールも着信拒否にした。これで終わり。


 会社に行って、なんとか仕事はこなした。けれど、家に帰って一人になると、怒りと悲しみがごちゃごちゃになって押し寄せてきた。そんな時、渚から「久々に会わない?」とメッセージが来た。こちらの事情を知っているわけではないだろうけれど、彼女には絶妙にタイミングのいいところがあった。

 そのメッセージに泣きつくように返事をすると、渚は翌日時間を作ってくれて、今、こうして飲んでいるわけだった。その優しさとフットワークの軽さに、何度救われたことか。


「あ、そうだ。あいつ最後に〝本命はお前だから〞じゃなくて、正確には〝お前を選ぶから〞って言ったんだった」

「ええ? ナニソレ。てめえに選ぶ権利なんかあるかっての」


 それな、と頷いて、チューハイを一気にあおる。


「ま、そんなクソ男と別れられたんなら、よかったじゃない。話聞いてて、あたしならそんなこと言われたら別れるわーって思うこと、いっぱいあったもん」

「……そんなにあった?」


 そう言いつつ、彼の言動が小さな棘のように心に刺さることは、ままあった。彼の部屋に行くと当然のように掃除をさせられたり、料理の味付けに市販の合わせ調味料〝Cook To〞を使うと文句を言われたり。言うことを聞かないと「愛がない」と言われたり。


「一番はアレかな。〝子どもは欲しいけど、俺は厳しいこと言わずに甘やかして好かれたいから、躾とかやって嫌われ役になるのは晴美ね〞って。それはないわーって思った」


 そういえば、そんなこともあった。それで「結婚とかなったら大丈夫かな……」と渚に相談したのだった。

 それに対して渚は、「晴美が決めるしかないんじゃない」と言ったっけ。


「まあ、ちゃんと怒れたならよかったんじゃない。晴美ってば、変に自分を卑下するところあるから」


 そうだった。わたしは何にあんなに怯えていたのだろう。わたしを好きになってくれる人なんていない。こんな人は二度と現れないかもしれない。こんなわたしとお付き合いしてくれるのだから、多少のことには目を瞑ろうと思っていた。


「もっと自信持ちなさいよ。でないと、また変な男に引っ掛かるわよ」

「もう恋愛なんかしなーい。友達と趣味があればいいもん」


 そう。結婚しないと生きていけない時代ではないのだ。自分でお金を稼いで生きていけばいい。

 わたしはそう思いながら、皿の上に一つだけ残った唐揚げを箸でつまむ。揚げたてではなくなってしまっているが、まだ硬くならずにジューシ―な食感が楽しめた。

 気の置けない友達と飲むのはいい。上司にビールをついで回るとか、料理を率先して取り分けるとかしなくて済むし、好きなものが食べられる。


「ほら、肉ばっか食べてないで、野菜もお食べ」


 渚はそう言って、残っていたサラダをわたしの皿に移す。


「はーい」


 わたしは素直にサラダを咀嚼する。ドレッシングを吸って少ししなびているが、このドレッシングが美味だった。チェーンの居酒屋にしては料理が美味しくて、今日の飲み会は満足だった。元彼のことも、今はまだ辛いけれど、きっと忘れられるだろう。


「あたしにすればいいのに」


 渚が不意に、膝立ちでわたしの隣に移動してきた。しかも距離が近い。頬に息がかかりそうだ。


「一生大事にするのになあ」


 囁く赤い唇が、妙に艶めかしい。渚は美人だ。切れ長の瞳に長いまつ毛、すっと整った鼻筋。頬が火照ってしまうのは、酔いが回っているせいだけではないかもしれなかった。


「え……?」


 わたしがどぎまぎしていると、渚はふっと視線を外して、何事もなかったように元の席に戻る。


「なーんてね。傷心の相手を口説くなんて、卑怯な真似はしません」


 渚は残っていたジンライムを飲み干すと、通りかかった店員を呼び止めて追加のドリンクを頼んだ。


「気を付けなさいよ。ずるい男は、こういう時に優しくしてくるんだから」

「う? うん」


 先程追加したドリンクが運ばれてきて、渚は何食わぬ顔でグラスを傾ける。

 そうして、話題を変えてだべりつつ、夜は更けていくのだった。



  了


※3/18 0:26 タイトル変更しました

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