痴者の書
深海うに
痴者の書
「……コロロォ……ォル……」
風音の隙間から、小さく何かが聞こえた気がする。
虫だろうか。動物だろうか。
聞き分けてみようかと思い立ったころには既に、風に紛れてしまった後だった。
「見つけた」
歩き回って乱れた息を、少しだけ整える。
亮仁の目の前で森はぷつりと途切れていた。
森の切れ間から陽光が差し込んで、廃墟の苔むした屋根をしっとりと照らしていた。
人の手が入らなくなって久しいようだが、風雨に晒されて腐った戸板や、蔓や苔に侵食された外壁の他は、特に荒らされた様子は見えない。
村の人が、恐れて近づかないっていうのは、本当なんだ。
これからはここが、オレの秘密基地だ。
しばらく探し求めていた安寧の地を見つけ、亮仁は鼻から大きく息を吐いた。
人の気配が一切ない、無機質な木造建築をじっくりと観察する。
私有林を伴い村の隣にひっそりと鎮座するこの廃墟がそう呼ばれるようになったのは、一体いつのころなのだろうか。
新参者の亮仁には知る由もない。
敬遠されていることだけは理解できるのだが、外観を眺めていても理由に関しては皆目見当がつかない。
有隣堂は、想像していたよりはずっと大きくてきれいだった。
正面には両開きの引き戸があり、餌を待つ雛鳥のようにぽっかりと口を開けている。
母屋は拝殿のようで、入口のすぐ上には垂れ幕がさがっていた。往時はカラフルで美しかったのだろうが、今はただのカビた汚い布でしかない。
両隣には左右対称に小さな離れがあり、それぞれ渡り廊下でつながっている。
ぐるりと回ってみないことには正確なことはわからないが、母屋と左右の離れの奥にも細かな建物がたくさん連なっているようだ。
どことなく息苦しさを覚えたが、入り口の他にはどこにも窓や扉がないことが原因かもしれないと思い至る。
それとも廃墟によくある、ある種独特な威圧感と閉塞感のせいだろうか。
なんだかお寺みたいだ。
拝殿を見上げて、亮仁は記憶を辿る。
父さんのお葬式は線香くさくて味気ないビルの一室で行った。
お葬式って、お寺でやるんじゃないの?
質問は母さんに黙殺された。
近所のおばさんが、最近の葬儀社は安いプランを出してるから助かるわねぇ、とクスクス話している横を通った時に、なんだか嫌な気持ちになったことは忘れない。
亮仁は辺りを見回しながら、拝殿へと続く階段に足をかけた。
ギシ、木の軋む音が周囲の森へと吸い込まれていく。
目が薄暗闇に慣れてくると、室内には何かが散乱していることに気が付いた。
亮仁は床を軋ませながら散乱しているものに近づき、――そして気付いた。これは、本だ。
パっ、とあたりを見回す。
亮仁が立っているあたりを中心に、すり鉢型に真っ黒な山がせり立っている。
すべて、本だ。
おびただしい量の。
山の一部になり切れなかったいくつかの本たちが、耐えきれずに床に散らばったようだ。
亮仁の周囲に散乱している本たちは、何の関連性も脈絡もない本ばかりである。
自伝やミステリー小説、恐竜図鑑にプロレス雑誌……
一冊一冊の表紙をそれぞれ見ながら亮仁は拝殿を奥へと進んだ。
あれ。これ、なんだろう。
本と本の隙間に文字が見えた気がして、足元の本を払いのけた。
床に何か彫ってある。
数字だ。
手の平程の大きさの数字が0~9まで、綺麗に等間隔で彫られている。
亮仁はしばらくぼんやりと床面の数字を眺めていた。
疑問はたくさんあるが、答えをくれる人などどこにもいない。
ふと、顔を上げて前を見る。白い布が目に入った。
簡素な祭壇だ。
板張りの床の上に一枚だけ畳が置かれ、その前に白い布でおめかしされた台がある。色々なものが置かれているが、どれも倒れていたり壊れていたりして雑多な印象しかない。
祭壇よりも亮仁の興味を引いたのは、その両端で口を開く通路だった。
外から見た通り、拝殿の奥にはまだ建物が続いているのだろう。
外からの光が一切届かない深い暗闇が続いていて、昔父さんと行った遊園地のお化け屋敷の入口を彷彿とさせた。
どうした、亮仁。怖いのか?
半分笑い交じりの父さんの優しい声が聞こえた気がする。
あの時オレは、怖くないと精一杯の強がりを言いながら、父さんに終始しがみついていたんだっけ。
懐かしい気持ちになって、亮仁は通路へ歩を進めた。
視界はないが、壁伝いに進めば問題はない。
途方もない迷路が続いていたらどうしようかと脳内を掠めたが、そんな心配は杞憂に終わった。
一つ一つの通路はとても短く、二、三歩進めば隣合う小部屋についてしまうし、奥行きも二部屋分しかない。
ほんの少し動き回っただけだが、どうやら通路と小部屋は碁盤の目状に作られているらしいとわかった。
左右にはかなりの数の部屋数が広がっていそうだが、明かりがないので奥まで探索するのはあきらめることにする。
幸いなことに、拝殿へ繋がる通路に少量の日光が届いているのが見えたおかげで、戻るのに不安はなかった。
今日はとりあえず拝殿に戻って、読めそうな本でも探してみようかな。
仄明るい通路を確認しながら、壁から手を離さないように気を付けつつ方向転換した時だった。
とた、とた、とた、
どこかで音がした。
亮仁ははっと息をのみ、耳を澄ませた。
鼓動が早くなる。
しん、と暗闇が鳴く。
……気のせいだったかな。
ふ、と止めていた息を吐いて壁伝いに歩き出す。
とたっ、……とたっ、
亮仁のおぼつかない足音が響く。
真っ暗だから、自分の足音が怖く聞こえただけなのかも。いや、絶対にそうだ。だってここには、誰も来るはずがないんだから。
ありもしない物音に怯えた自分の滑稽な姿を想像して可笑しくなりながら、ゆっくりと光に向かって歩を進め、
とた、とた、とた、
明らかに自分のものとは異なる軽やかな足音が、暗く連なる通路の右奥から聞こえた。
気のせい、じゃ、ない?
先ほどよりもはっきりと聞こえた物音に、再び息を殺して耳を澄ませる。
どこかに動物が棲みついているのかもしれない。野良猫、それか……たぬきとか。何がいたっておかしくないはずだ。
そう思いながらも、お腹がざわざわとして落ち着かない。
とた、とた、とた、
少し間を開けて、すぐ近くの通路で足音が聞こえた。
反射的にそちらを見るが、目の前にかざした自分の手すら見えない闇だ。もちろん足音の主が見えるわけもない。
ゾワ、と背筋が粟立つ。
なんか、変だ。
通路中に異様な気配が満ちていた。暗闇全部が意思を持って亮仁を注視している。
呼吸が浅くなる。
次はどこから足音が聞こえるのだろうか。また左から?それとも右?まさか……真後ろから、やってきたら。
見えるはずもない白い足が、足だけが、亮仁の後ろに音も立てずにそっと立って、暗闇の中で、そして……
とた、とた、
とたたたた、
とたたたたたたた、
どたたたたたたたたた、
どたたたたたたたたたたたたたた!!!!
突然おびただしい数の足音が響いた。
前も後ろも、右も左も、上も下も何もない。
脳髄を掻き乱す大音量の足音が空気を震わせ、暗闇全部が圧し殺そうと迫ってくる。圧力で肺が潰され、漏れ出る酸素と共に自然と悲鳴が迸った。
「わあああぁぁ!」
亮仁は叫び声をあげて、通路から拝殿へ文字通り転がり出た。
四つん這いのままTシャツの胸元を掴んで振り返る。
背後には入った時と寸分の変わりない状態の真っ暗な通路が二つ、無様に床に転がる亮仁を見下ろしていた。
身体が酸素を欲している。浅い呼吸を繰り返した。
今、ここにあるのは、自分の叫び声の余韻すらない静寂だった。
息と一緒にごくりと大きく唾を飲む。
通路にいた少しの間に、陽が傾き始めていた。
埃とカビと本にまみれた拝殿は西日に染まり、それでも太陽光がある事に安堵する。
さっきのは、なんだったんだろう。
亮仁は立ち上がり、震える膝を宥めるように足を軽く擦ってから、服についた埃を叩き落とした。
最初に聞こえた足音は、建物が軋んだ音だったかも。
怖いと思っちゃったから、変な想像しちゃったから。だから、多分、今起きたと思った事全部、オレの妄想とか、幻覚とか、とにかくそういうやつだろう。
どれだけ自分に強く言い聞かせたところで、破裂しそうな心臓の鼓動が落ち着くわけでもない。
亮仁は拝殿の中を気忙しく歩き回った。
じっとしていたら、あの暗闇の中にいもしないモノを見てしまいそうな気がしたからだ。
特に意味もなく、祭壇に近づいた。
カビのせいか埃のせいか黄色と茶色のマダラ模様になった白布は、触ると案の定少しざらついている。
指先に伝わる不快感を頼みにしながら、亮仁は祭壇に沿ってゆっくりと歩いた。
ヒビの入った花瓶、真っ二つに割れた酒器、燭台、そして……
ヌメリとした光沢の、緑色の革表紙の本。
亮仁は足を止めた。
祭壇のちょうど中央に、御神体のように鎮座するのが本だとは。
拝殿に溢れる他の本や、乱雑に散らばる祭具と比べても、明らかに状態が良い。
汚れた指先を服の裾で拭ってから、そっと表紙を撫でてみる。
硬いのにしっとりとしていて、指先に吸い付くような滑らかさがある。淡い西日を反射して、テラテラと照っていた。
亮仁は両手を添えて、そっと持ち上げた。
見た目からして重そうだなとは思っていたが、実際に持ってみると想像以上の重量がある。
表紙には簡素なミミズクの意匠が刻まれていた。
ご丁寧に祭壇のど真ん中に大切そうに置かれていたのだ。一体何が書かれているのだろう。
亮仁は右腕全部を使ってしっかりと本を支え、左手でそっと表紙に手をかけた。
その時だった。
ゴトン。
静寂が満ちていた有隣堂に、重たいものが落ちたような、低い物音が響いた。
途端に頭のてっぺんから、じりじりと血の気が引いていく。
通路からだ。亮仁は確信していた。
もし、さっき幻覚だと思ったあの足音が、幻覚なんかじゃなかったら?
もし、さっき野生動物だと思ったあの足音が、野生動物なんかじゃなかったら?
薄れていたはずの恐怖が、徐々に身体を蝕んでいく。
ずりずりと足を摺るようにして、少しづつ後退していく。
通路で何かが光った。
通路の暗闇に、丸いものが二つ、並んで浮かんでいる。
あぁ。あれは、目だ。
やっぱり、なにかいるんだ。
そう理解した瞬間、亮仁は半ば転ぶようにしながら駆け出していた。
有隣堂の拝殿を飛び出し、陰鬱な森へと飛び込む。
コロロォォル……
コロロロォォォ……ォル
森中に不気味な音が鳴り響いた。
亮仁には、それを気にする余裕もない。
必死になって走った。
森を抜け、民家の明かりが目に入った頃、ようやく亮仁は足を止めた。
こんなに全力で走ったのは、去年の運動会以来かもしれない。まだ学校が楽しかった時のことだ。
Tシャツの肩部分をつかみ、乱暴に顔の汗を拭う。拭っても拭っても、汗は輪郭に沿って滴り続け、しまいには目にまで入る始末だ。
恐怖と疲労と安堵とで、心に怒りが湧いてくる。
「くそっ」
毒づいて地面に転がる小石を蹴り飛ばして、それからようやく亮仁は自分の手の中にあるものに気が付いた。
革表紙の本だった。
有隣堂の私有林からもそう遠くない、村の周縁部近くにボロ屋がある。
割れた窓は放置され、庭の草木も伸び放題だ。
ともすると空き家にも見えそうな崩れかけの平屋だが、それこそが亮仁の今の住居だった。
父さんが育った家だと聞いている。
父方の祖父母は亮仁が生まれる前には既に鬼籍に入っていたらしい。長いこと放置されていたそうで、越してきた時にはもう人が住めるような状態ではなかった。
そこで無理やり暮らしているのが現状だ。
亮仁はできる限り気配を殺して玄関の引き戸を開けた。
どれだけ慎重にしようとも軋む建付けの家である。ぎぎぃ、と大袈裟なまでに悲鳴を上げるボロ屋に舌打ちをせざるを得ない。
「アンタぁ!またそんなに服を汚して!」
まだ体が玄関に入り切ってもいないうちから怒号が飛ぶ。
痛んでばさばさになった汚い黄土色の髪の毛をかき上げながら、母さんが台所から出てきた。
母さんの三角に吊り上がった眼と、不満そうにひん曲がった口角を見るたびに亮仁の胸にはどうしようもない嫌悪感が沸き上がってくる。
「アンタのせいでアタシがまたババァどもから文句言われんのよ!
ろくでもない陰気な村で暮らすってだけで最悪なのに。そういうところだけあのクソ野郎に似やがって!」
最近の母さんは父さんのことを”クソ野郎”としか呼ばない。
父さんが死んだとき、知らない女の人と一緒だったかららしいけど。
それだけのことで”高給取りの自慢の夫”が一瞬で”クソ野郎”に変わってしまうというのが亮仁には不思議だった。
母さんの愚痴を聞き流すことにはもう慣れていた。
亮仁は極力台所には目を遣らないようにしつつ、まっすぐ自室へ向かう。
悲鳴に似たヒステリックな金切り声が聞こえてすぐ、立て続けにガシャンと何かが割れるような音が響いた。けれど、やっぱりそれも、亮仁を引き留める要素にはなりようがなかった。
そこもかしこも軋む家で、もちろん亮仁の部屋の扉も軋んで開いた。
ぎぎっぎぃ。
開閉時に一瞬引っかかるが、体重をかけてぐっと押し込めば問題ない。鍵の代わりに、母さんを遠ざけるのに一役買っている。
亮仁の自室は三畳ほどの小さな部屋で、おそらく昔は納戸のような形で使われていたのだろうと思う。
部屋の中には積みあがった段ボールが残っているが、それを机代わりに使えば学校の宿題だってこなせる。母さんに見つけてほしくないものは隠すこともできるし、案外快適に過ごせる部屋だった。
この本も、いざとなれば段ボールに隠してしまえばいいや。
亮仁はTシャツの下から革表紙の本を取り出した。
学校で使っていたB5サイズの学習帳よりも一回り程小さく見えるが、厚みは5、6センチほどありそうだ。
段ボールの隙間の定位置に座り込むと、体育座りをした膝の上に本を置いた。
表紙に手をかけて、ぐっ、と力をこめる。
瞬間、表紙とページが引き合うような、粘ついた反発感を感じた。本が開かれるのを嫌がっているのか、それとも亮仁が無意識のうちに開きたくないと思っていたのか……
パラパラとページをめくる。
ほぼすべてのページに角ばった几帳面な文字で数字や英単語が書きつけられている。
1971.1021 writter will die
1972.0202 he will return
1972.0219 three men die ......
ずっとこの調子で何が何やら全く分からない。それでも惰性でページをめくり続け、中ほどまで来た時だった。
亮仁の背筋に悪寒が走り、手が止まった。
『R.B.B』
見開きいっぱいに乱雑な文字。黒に近い赤茶色のインクで書かれていて、鬼気迫るものを感じる。
インク瓶を倒しでもしたのか、ページ端の一部は赤黒く染まっていた。
持ち主は、このたったの三文字を執念深く書いたのち、その後の書き込みを辞めたようだった。
もしかすると、これは過去に有隣堂で起こった”何か”と関係しているのかな。
なぜ、有隣堂にはあれだけ大量の本が散乱しているのか。
そして祭壇にこの本が置かれていたのか。
拝殿床に彫られていた0~9の数字と、拝殿の左右に対象に位置する離れ。
さらに拝殿から奥に伸びる、真っ暗な、奇妙な造りの通路と小部屋たち。
謎ばかりだ。
けれど、どこにも答えをくれる人はいない。
亮仁は空腹と虚しさが相まって、臓器が下へ、下へ、沈み込んでいくのを感じた。
あぁ、眠いな……
亮仁は本をおざなりに投げ捨てると、板張りの床に寝転がった。
今日はなんだか疲れちゃったな。
いっそのこと、もう寝てしまおう。
亮仁が目を閉じて小さく寝息を立て始めたそのころ、外の庭木の枝に何かが集まり始めていた。
コロロロォォ……ォルルル
コロロォ……ォル
聞き覚えのある奇妙な音が、夜の闇に溶けては消えていく。
翌朝は夏らしい晴天だった。
本は、有隣堂に戻した方がいいかもしれない。ご神体のように飾られていたのだ、大切なものに違いない。
そう考えて家を出てきたものの、目前にして身動きが取れなくなってしまったのだ。
思い出したくもないのに昨日の出来事が頭をよぎる。
進もうと思えば思うだけ、亮仁の足は地面に縫い付けられてしまう。
「おい!
亮仁の身体がはねた。
突然の怒鳴り声に慌てて振り向くと、薄汚れた人相の悪い男が亮仁のことを怪訝な目で見ていた。
村内では有名な変人だ。
身なりを気にせず、四六時中村をふらつき、程度が低い噂話をばら撒き、目の前の人間に対して嬉々として嫌味を言い続ける男だ。
健松は厭らしいにやにや笑いを浮かべながら亮仁に近づいてきた。
「治間田のジジィとババァが余計なものを残して逝って、ドラ息子がとっとと逃げ出したと思ったら、雛鳥みてェなガリガリのガキが来るとはなぁ」
健松は両手を泥色のニッカズボンのポケットに入れたまま、亮仁のつむじを見下ろすように立った。
酷い臭いだ。亮仁は顔をしかめた。
健松は亮仁の反応を楽しむように、わざと顔を近づけてじろじろと嘗め回すように覗き込んでくる。黄色い歯の隙間から、ちろちろと舌が動くのが見えた。
「……ン? おめェ、それはなんだ?」
健松は亮仁の手元をのぞき込んですぐに顔色を変えたかと思うと、身を翻して大きな声で叫んだ。
「知者の書だ! 知者の書だ!!
治間田のガキが、知者の書を有隣堂から持ち出しやがった!!」
健松の声で家々から男衆が集まり、場が騒然となった。
村人たちは一様に、恐怖と怒りと困惑の入り混じった顔をしていた。皆の責めるような視線が亮仁を貫く。
亮仁は思わずその場から逃げ出した。
村の中に逃げ場なんてあるわけもなかった。当然だ。亮仁たちは余所者だった。
父さんが女の人と死んで、元の町では暮らしにくくなった。だから、知り合いもいないこんな村へ、相続した家土地があるからという理由だけで逃げるように越してきただけだった。
気がつけば自宅の前に来ていた。
亮仁は逡巡したが、結局は家の中に飛び込む。
母さんからは文句を言われるだろうが、今にも襲いかかってきそうな村人たちに捕まるよりはマシだ。そう思った。
急いで靴を脱いで上り框へ駆け上がると、廊下の奥へ目をやり、
ギョッとした。
薄暗い台所の磨りガラスの扉から、母さんの顔が半分だけ覗いている。
貼り付けたような笑みを浮かべて、じっ……とこちらを見つめていた。
電気のついていない暗い廊下で、その双眸だけが爛々と輝いている。
「おかえりなさイ。きチんとてヲあらうノよ」
間違いなく母さんの声なのに、どことなく機械的に聞こえる硬い声質だった。
何か変だ。何もかもが変だ。
わかっているのに、亮仁にはどうしようもない。
からからに乾いて張り付いた喉から無理に「はい」と一言だけ絞り出して、目線を床に落としたまま、極力母さんを見ないようにして自室へと駆けた。
母さんの横を通抜けたとき、小さく「コロロォル」と聞こえたのは空耳だろうか。
亮仁は泣きたい気持ちになった。
背後から、村人たちの怒鳴り声が聞こえる。もう家まで来たのか。
母さんはいつの間にか玄関で仁王立ちし、村人たちと対峙している。コロコロとした変な声が耳に届いた。
「ほん? しリません。うちのコがぬすみヲはたらイたとデもイウんですか? いイがかりはヨしテくだサい。けいサつをよビますョ」
声が裏返っていた。イントネーションも変だった。いつもの母さんとは明らかに違う。それでも嬉しかった。母さんが亮仁の味方になってくれてことなんて、今までに一度でもあっただろうか。
村人たちは一斉に黙った。母さんは妙に頭をぐらつかせながら覚束ない足取りで歩き、軋む扉を不器用な手つきで閉じる。
扉が閉まる直前、数人の村人の顔が見えた。誰もかれも、一様に青白い顔をしていた。嫌な予感がする。
ぐるん。
母さんの頭が、180度回転した。体は背中を向けたまま、頭だけがこちらを見据えている。
目は無感情に開かれていた。口角はぐにゃりと引き上げられているにも関わらず、口先はぐっと前へ突き出され、出来損ないのくちばしのような形になっていた。
目が合う。
ニタ、と笑ったような気がした。
亮仁は小さく悲鳴を上げ、自室へ駆け込んで扉を閉める。廊下からはドタドタという不格好な足音が追いかけてきた。
コロロロロォォオル。コロロロロオォォォォル。
甲高い声が聞こえる。母さんが鳴いているんだ。
自室の扉に、ドスン、と衝撃が伝わる。ドスン、ドスン。何度も繰り返し体当たりをしている。家全体がミシ、と叫んだ。
限界だった。自室の扉も、亮仁の精神も。
亮仁は窓から外へと飛び出した。
遠巻きに村人たちが見ている。
「助けてください! 母さんが、母さんが変になっちゃった……!」
半ば悲鳴のような声を上げながら一番近くにいた若い男に縋りついたが、男は嫌悪感をあらわにしながら亮仁の手を振り払い、距離をとった。
周りを見回すと、誰も彼もが同じような嫌悪感と畏怖を目に浮かべて、亮仁を見ている。
「助けてください。お願い……」
亮仁が声を上げるたびに、村人たちは一歩下がる。
それでも、亮仁は懇願するしかない。涙と鼻水が際限なく流れて、塩の味がした。
健松が村人をかき分けて前へと出てきた。
泥か垢かで薄黒く汚れた指先で亮仁の手の中にある本を指しながら言った。
「おめェが有隣堂から”知者の書”さえ持ち出さなけりゃ、こんなことにはならなかったんだ」
「どういうこと、ですか」
「その本に関わったやつァ、気がふれちまうか死ぬかだ。
おめェの母ちゃんがあんなになったのも、全部おめェのせいだ」
健松の言葉に、亮仁は愕然とした。
「おめェのジジィとババァが有隣堂なんてもんを作たせいで、村の人間たちが何人も消えてるんだ。だから俺たちは、その本ともおめェとも関わり合いになりたくねェ」
「お、おじいちゃんとおばあちゃんは……」
「まずはおめェのババァが消えた。 本を媒介にした交霊術を行うんだっつってな。妙な儀式の最中のことさ。有隣堂の奥の間で、煙のように消えやがった。
次はジジィと信者どもの番だった。ババァを探すっつってそれっきりよ。
その本に関わるとろくなことがねェ。あの忌々しい堂を取り壊すこともできねェ。あとは朽ちるに任せるだけだったが、おめェがそいつを持ち出したせいですべてパァだ!」
「ご、ごめんなさい……」
「ただなぁ」
健松の声音が少しだけやわらかくなる。
亮仁は項垂れていた頭を起こし、健松の言葉を待った。
「誰よりもそいつを触ってるはずのおめェには、まだ何にも異変がねェ。
おめェが治間田の血を引いてるからかもしれねェ。おめェにならこの妙な出来事全部、終わらせられるかもしれん。そしたら、母ちゃんも助けられるかもしれねェぞ。
どうだ、やってみるか?」
亮仁は一も二もなく頷いた。
健松が教えてくれたいくつかのことを忘れないように小声で復唱しながら、森へ向かって走り出す。
亮仁の背を目で追いながら、ひとりの村人が健松に声をかけた。
「なぁ、健松さん。いくらなんでもかわいそうじゃないのかい、あんなに小さい子が……」
「村のためだ。一人の犠牲くらいは仕方ねェ」
にべもなく告げる健松に、村人たちはそれ以上は何も言えずに亮仁が消えた方向だけを眺めていた。
亮仁は森を走り抜け、有隣堂と対峙していた。
健松の話によると、有隣堂というのは巨大な
亮仁の祖父母は、知識の神のお告げに固執していたらしい。
本を媒介として儀式を行い、そうして得た神からのお告げを書き記したものが”知者の書”なのだという。
亮仁は話を聞いて吐き気を覚えた。父さんが祖父母から距離を置いた理由がよくわかる。
健松は言っていた。
最後の儀式がまともに終わっていないのだと。
そのため怪異が引き起こされているのではないか、とも。
だから亮仁に、治間田の責任として、儀式を終わらせるよう頼んだのだ。
もう覚悟は決まっていた。オレが、終わらせるんだ。母さんも、村の人たちも、オレが助けるんだ。そしたら、きっと。どこにも逃げなくてよくなるはずだから。
今朝まで感じていた恐怖はもうどこにもない。
亮仁は有隣堂の拝殿へと続く階段に足をかけた。
突然吐き気に襲われた。胃の下から突き上げるような急激な圧迫感と不快感にえづく。
たまらず体を折り、階段の腐りかけた横板に手をつく。
「うぅっ……ごふっ、ぅぅ……、ぅぶっ!」
コロロロロォ…………ォル
口から出てきたのは吐しゃ物ではなく、幾度となく聞いたあの奇妙な鳴き声だった。驚いて両手で口元を抑えたが、意に反して鳴き声は迸り続ける。
苦しさに思わず身をかがめると、そのまま小さく丸められているように感じた。
息も苦しく、全身が痛い。
口元に充てていた手に違和感が生じた。やわらかいがかさついた、身に覚えのない感触。
涙でぼんやりとした視界のなかで最後に亮仁が目にしたのは、ボコボコと羽毛が生えてはじめている自分の手だった。
「エェ~~~~!? どうなっちゃってんのォ??」
口から声がほとばしる。コロコロと喉を転がすような……そう、たとえて言うならボイスチェンジャーをかけたような声だ。
「ついさっきまで人間だったような気がするゥ…… アレェ? 人間だったことなんてあったっけ?」
どうやら思考が少し混乱しているらしい。
周囲を見回してみると、目の前には立派な革表紙の本が開いておいてある。
「あっ、この本……」
す、と翼を伸ばした。開かれたページには大きく「R.B.B」と書かれている。
「R・B・ブッコロー!
あんま覚えてないけど、こんなにでっかく名前が書いてあるくらいだし……これは一応持っていくかあ」
パタン、と本を閉じて小脇に抱える。振り向くと、空には大きな満月が浮かんでいた。瞳が月光を反射して、きらりと輝いた。
「い~い飛行日和だねェ。」
人語を話す大きなミミズクは、周囲の光景も、これまでの出来事も、何もかもに興味を失ったように大きな空へと飛び立っていった。
治間田亮仁のその後を知る者は、世界のどこにもいない。
痴者の書 深海うに @fukamiuni
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