環境衛生と橙の風②


「⋯⋯ふう、このくらいでしょうか」


 額に浮かぶ玉の汗を拭う。作業に没頭するあまり、気付けば2時間ほどが経過していたようだ。太陽が傾き、オレンジ色の夕日が辺りを優しく照らす。

 久しく動かしていない運動不足の身体は心地よいを通り越してもはや痛みを感じ、手足が小刻みに震えて立っていられないほどの疲労を訴えていた。


(ウンディーネの水のヴェールがあるとはいえ、炎天下の中、長時間の立ち作業は堪えました⋯⋯)


「少しだけ⋯⋯ほんの少しだけ、休んでいきましょう」


 暒來は独りごちるとプリーツスカートのポケットから薄桃色のハンカチを取り出し、地面に敷くとそこに腰を下ろした。土壌との接地面を極力減らすために身体を小さく丸めて両脚を抱える。

 遠くでカナカナと鳴く虫の声に意識を傾けながら瞳を閉じていると、不意に身体にひんやりとした冷気を感じた。


『セイラ、随分と頑張ってたわネ』

「ウンディーネ⋯⋯!」

『そろそろワタシの出番かと思って呼ばれる前に出てきたワ』


 ウンディーネはそう言って暒來の眼前でくるりと回った。暒來が初めて契約した精霊であり、幼い頃より時間をともにしてきた彼女とはまるで本物の姉妹のような関係である。


 暒來は立ち上がると、姉のように慕うウンディーネに向かって微笑む。


「ありがとうございます、ウンディーネ」


 ウンディーネは暒來の声に応えるように薄く微笑むと、細く白い腕を上げた。彼女の周りに大粒の水の塊が現れ、それは徐々に収束して行く。


(⋯⋯いつ見ても圧巻の光景です)


 暒來が目を奪われる中、ウンディーネが手を振り下ろすと集まった水が枯れた井戸に向かって流れて行く。

 水滴が夕日で照らされ、小さな虹が形成される。


(虹のアーチをくぐるように流れ込む光景は何処か幻想的で息を呑むほど美しいです⋯⋯)


 ウンディーネは清流を自由自在に操り、最後の一滴まで注ぎ込む。暒來は瞬きも忘れてそれを見つめていた。

 気が付けば、とぷりと音を立てて瞬く間に干からびた井戸が冷たい水で満たされていた。



✳︎✳︎✳︎



「ユキ先輩、お待たせしました⋯⋯!」


 急ぎ足で広場に向かった暒來は噴水前で子どもたちと戯れ合う透に向かって声を掛けた。


「暒來ちゃん、お疲れさま」

「先輩もお疲れ様です」


 僅かに息を切らし答える。


「キミに重労働を任せてしまって済まないね」

「いえ、久しぶりに良い運動になりました」


 暒來は透に疲労を悟られないように小さく息を吐き出すと、額に浮かんだ汗を拭い密かに息を整える。


「それなら良かった。香りの散布はどうしようか、少し休憩してからにした方が良いかもしれないね」

「私でしたら問題ありません。善は急げと言いますし、早急に取り掛かるべきかと」

「⋯⋯そう。じゃあ、早速やろうか」

「はい」


 透からお香を受け取ると、暒來は心の中でエアリエルの名を呼ぶ。


『待ちくたびれたぜセーラ! ようやくオレの出番だナ!』


(待たせて御免なさい。エアリエル、このお香を薫りをスラム中に運んで下さい)


『お安い御用だゼ!』


 お香に火をつけると、一筋の煙が空からに向かって立ち登る。


『ヒュ~ウッ♪』


 エアリエルはご機嫌なようすで煙と共に舞い上がる。伸び伸びと空を飛ぶ彼はまるで風そのもののようだ。


 ザァッと足元から頭上へ冷たい風が巻き上がる。何処からか攫ってきたハイビスカスの花弁とともにふわりと優しく甘い香りが舞い広がった。


「わあ⋯⋯! 美味しそうなにおい!」


 それまで噴水で遊んでいた子どもの一人が声を上げた。


「うん、我ながら上出来だ」


 スンと小さく鼻を鳴らした透は満足げに頷く。


「はい⋯⋯。本当に良い香りですね。酸味の中にも確かな甘さがあり、ちょうど良いバランスです」


(シトラスの香りにはリラックス効果が有りますからね⋯⋯疲労で強張った身体に染み入るようです)


 エアリエルの風によって、爽やかなシトラスの香りがスラムの街を優しく包み込む。


 暒來たちが静寂の中、香りを堪能していると不意に遠くでつんざくような爆音が轟く。次の瞬間には夕陽で朱く色付いた西の空が血のように紅く染まった。



「「⋯⋯!!」」


 それまでゆったりとした時間が流れていた広場に、途端にピンと張り詰めた空気が流れる。


(もっ、もしかしてこのお香のせいですか!? これは火薬が原材料なのでしょうか!? お香とはかように危険な物だったのですか!?)


 暒來は想像もしなかった事態に戸惑いを隠せなかった。お香を持った手がブルブルと震える。

 自身の知識を総動員しても、この爆破の原因を導き出せないことが更に焦燥感を掻き立てていた。


「教会の方からだ!」

「⋯⋯!」

「行こう、暒來ちゃん⋯⋯!」


 透の頬には汗が伝っていた。珍しく焦りを隠さない彼の表情を見て察するに、相当に良くない事態が起こっているのだろう。

 透は暒來の手を取り、教会に向かって走り出した。



✳︎✳︎✳︎



 暒來が目にしたのは荒れ果て、朽ちた教会。壁は崩れ落ち、剥き出しになった祭壇がポツンと置かれているその場所からは物悲しさが漂っており、まるで神から見放されてしまったかのようだった。

 本来ならば神聖な空気で満たされ何者にも侵すことのできない教会。紅い空の下にあるその建物は甚大な爆発の被害も相まって一際不気味な雰囲気を放っていた。


「はぁっ⋯⋯はあっ!!」


 透に手を引かれるまま、休む事なく走り続けたせいで息が上がり、胃液が込み上げてくる。少しでも気を抜けば胃の内容物が逆流してしまいそうだ。


「これは——」


 すぐ隣で透が息を呑む音がした。弾かれたように暒來も直ぐに顔を上げる。


「⋯⋯!!」


 スラムに来て一週間、漸く見つけた大人の姿——地面に横たわる男性は血濡れていた。



「⋯⋯っ! 漸くお出ましか。暒來ちゃん、あの子がこのスラムを裏から支配する女性、威風妃イブキちゃんだよ」

「あの方が⋯⋯」


 義賊——月狼マーナガルムの頭領にしてスラムの女王と呼ばれる女性の姿がそこにはあった。


「急速に成果を上げることで姿を現す⋯⋯これも熾炎の計画通りなのかな?」

「⋯⋯?」


 透が独り言のようにぼそりと呟いた言葉は、暒來の耳には届かなかった。




 威風妃と呼ばれた女性は、今も横たわる男性に向かって何やら声を荒げている。


「信用するな、心を開くな! この国の奴等にされた仕打ちを忘れたのか!?」

「⋯⋯」


 地面に伏せる男性はもう声を発する気力も無いようだった。威風妃はトドメとばかりに男性に向かって手をかざす。


「このアタシを裏切ったんだ、その命をもって償って貰う!!」


 ぽうっと威風妃の手のひらから赤い光が漏れ出る。


「待て!!」


 それまで出方を窺っていた透は威風妃を制止するように声を上げ、倒れた男性の元に駆け寄ろうとする。しかし、あと一歩のところでそれを阻まれてしまった。


「動くな!!」

「⋯⋯!」


 透の声に反応し、威風妃は弾かれたようにこちらを向く。瞬間、パチリと目が合った気がした。

 月の光を溶かしたような金糸雀カナリア色の髪に宝石のように見るものを惹きつけて離さない翠の瞳。おざなりに切られた短い髪を揺らす威風妃は、男性のように荒い言葉遣いと横暴な態度に反してそのかんばせは酷く美しい。そして、その歪さが更に彼女の婉美えんびさを強調していた。


「不味いな⋯⋯治療しようにもこのままでは近付けない」


 透は焦りが滲んだ表情で呟く。それを知ってか知らずか、威風妃は暒來と透を鬼のような形相で睨み付けると、氷のように冷たい声で言い放つ。


「お前ら、今すぐ此処から出て行け。さもないと——」


 威風妃が片手をこちらに向かって掲げると、暒來と透のすぐ横の壁が爆風で吹き飛んだ。しかし、幸いなことに如何やら端から当てるつもりは無く、威嚇目的のようだった。


(この方は恐らく人の命を奪うことに何の躊躇いも無いのでしょう。今回は命拾いしましたが、次は如何なるか分かりません)


「ユキ先輩⋯⋯!」

「うん、暒來ちゃん」


 如何やら透も考えている事は同じようだった。2人は互いに目配せし、大きく頷く。


「私があの方を引きつけますので先輩は——」

「ああ、僕に任せてくれ⋯⋯!」


 透はそう言うと、今度こそ血を流し倒れる男目掛けて一直線に走り出した。






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【中間選考残作品】スラム街の公衆衛生学〜ひきこもり精霊使いの太陽国改革奇譚〜【3章終】 みやこ。@コンテスト3作通過🙇‍♀️ @miya_koo

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