環境衛生と橙の風①


 暒來がスラム街に来てから一週間が経った。

 スラムの子どもたちの助けも借りて目に見える範囲の害虫を一掃した暒來と透。次に取り掛かるのは『消毒』だ。


「次は消毒ですが、これは感染源と感染経路の対策に有効です」

「まさに一石二鳥だね」


 透の言葉に暒來は大きく頷く。


「具体的な方法として挙げられるのは、手指や水、調理器具や衣服の消毒でしょうか。手指はアルコールなどの消毒液で水や調理器具、衣服等は熱湯消毒ですね」


 暒來は意を決して常々対策すべきだと考えていたことを口にした。


「⋯⋯他には薬剤の空気散布を行うことも一つの手ですね。この街に蔓延する特有の空気を解消する為にも殺菌効果のあるお香を使うべきだと考えています」


 大分オブラートに包んだ遠回しな物言いだが、つまりは端的に言うとこの街はとても臭うのだ。


「上下水道の施工についても、近いうち熾炎に相談してみようか」


 暒來の言わんとしていることを察した透がそう言った。スラム街で暮らすうちに鼻が麻痺して大分慣れたとはいえ、やはり最初は誰もが気になるのだろう。


「よろしくお願いします。しかし、どのようなお香を使いましょう。空気中の臭いを取り除くためにはメントールや柑橘かんきつ系の香りが効果的なのですが、そもそも近隣の街で手に入るかも分からないですね⋯⋯」

「それについては問題ないよ。漸く、異能力以外でキミに先輩らしいところを見せられそうだよ」


 そう言いながら微笑む透はどこか誇らしげだった。


「ユキ先輩、何かツテがあるのですか?」

「え? そんなものは無いよ」


 さらりと言ってのける透の考えが読めず、暒來は首を傾げる。ますます疑問は深まるばかりだった。


「では、どのようにお香を手に入れるのです⋯⋯?」

「作るんだよ、僕が」

「⋯⋯!」


 大きく目を見開く暒來を見た透はにっこりと笑った後、得意げに話し出した。


「実は薬草や香草に関しては人よりもちょっとだけ詳しいんだ。だから、この件については僕に一任してくれたまえ。作成途中のものがあるから直ぐに用意出来るはずだよ」


 キッパリと言い切るようすから見るに、透は相当な自信があるようだ。暒來は一も二もなく賛同の意を示す。


「それではユキ先輩にお任せいたします」


(先輩はやはり博識でいらっしゃるのですね。それも最先端の技術を身につけているとは感服しました)


 お香がソルシア王国でも一般に流通するようになったのは比較的最近の事だ。そのため現在はその全てを近隣国からの輸入に頼っているためにそれなりの高級品である。

 暒來も調香方法について記された異国の文献に目を通してはいたが、如何にも食指が動かず実際に作ったことは無かった。


「じゃあ僕は物資補給を要請する手紙を熾炎に送ってから仕上げに取り掛かるとするよ」

「取り合っていただけるでしょうか⋯⋯」


 熾炎はあれでいて自分に一等厳しく、そして部下にも同じくらい厳しい性格だ。限られた予算や人員、そして時間の中で最大限の成果パフォーマンスを求められる。

 それもそのはずで、ソルシア王国の国庫は無駄なものにまで資金を投じる余裕は無いのだ。


(しかも、突然音沙汰の無くなったユキ先輩からの最初の手紙が物資を求めるものだなんて⋯⋯怒り狂って手紙を燃やされないか非常に不安です)


「大丈夫、アイツがやると言ったんだ。支援は惜しまないさ。熾炎、だけにね」


 此れ見よがしにパチンとウインクを一つ決めながらそう言った透。


「——あの、ユキ先輩⋯⋯私は別に言葉遊びが好きなわけじゃありませんからね」


 この前のアメの一件で如何にも勘違いされているようだ。念のため、暒來は釘を刺す。


「ええ!? そうなのかい⋯⋯非常にユーモアとセンスを感じたのに勿体ないなあ」


 透は大袈裟なほど驚いた後、眉尻を下げ落胆した様子をみせる。本気で暒來が洒落好きだと思っていそうな透の物言いに頭が痛くなった。


「あれは子どもたちの心を掴むために致し方なくやったことです。もうあれっきりですので忘れてください」


 このままでは千昊にまで伝わりかねないと危惧した暒來は、幾分か強い口調で念押したのだった。




✳︎✳︎✳︎




 役割分担をした暒來と透は、それぞれに与えられた仕事に取り掛かる。


(先ずは、枯れ井戸の清掃とそこに水を満たすことですね)


 水を媒介した食中毒が存在するため、スラムのように衛生管理が行き届いていない地域で生水を口にすることは危険性を伴う。熱湯消毒も重要であるが、諸悪の根源は断たねばならない。


(危惧すべきはなにも動物を媒介した感染症だけではありません。井戸水の中には大腸菌やサルモネラ菌などの病原菌やノロウイルス等が潜んでいる危険性があります。これらに感染すると下痢や嘔吐、腹痛等の症状が現れ重篤じゅうとくな場合には腎不全に至るという大変な危険性が有るのです)


 水は生命を維持するために無くてはならないものであり毎日摂取するものだからこそ、清掃や消毒を怠ってはならない。


「大分使われていないようですね⋯⋯」


 住宅街の更に奥まったところに寂れた井戸があると聴いた暒來は早速その場所を訪れた。今ではすっかり使われなくなったそれは苔や雑草で覆われている。


「肉体労働は久しぶりなので些か不安が拭えませんが⋯⋯安定した水の供給のためにも頑張るとしましょう」


 暒來は腕まくりをすると、透の家から持参したブラシを手に取った。






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