感染症の予防と対策


 暒來セイラが提案した炊き出しの前に行う勉強会は『青空教室』と命名された。それは、1日に30分~1時間ほど行われる。


(まだ長時間座っているのが苦手な子も多いですからね。何事も焦らずに一歩ずつ着実に進むのが大切なのです)



 そんな中、思わぬ再会もあった。

 暒來がスラム街に来た初日にクッキーを分け与えた男の子が青空教室にやって来たのだ。あの後、何度もあの場所に足を運んだが、ついに見つけられずにもう諦めかけていたところでの再会だった。


「お姉ちゃん、この間も今日も美味しい食べ物をありがとう! お勉強も、初めてで楽しかった!」

「⋯⋯! ジャックじゃないか。こんなに長い間何処に行ってたんだい、心配したんだよ」

「うん、ユキお兄ちゃんにご飯を貰ってるのがバレちゃって折檻せっかんされてたんだ」


 何でもないと言うように笑顔でそう言ったジャック。


「⋯⋯え?」


 暒來にはジャックの言葉の意味が理解出来なかった。疑問符を飛ばす暒來に気付いたユキがそっと耳打ちする。


「⋯⋯ジャックの両親は月狼マーナガルムの構成員なんだよ。彼らは自分たちの子どもであるジャックが僕から施しを受けることが気に入らないみたいなんだ。⋯⋯子どもは何も関係ないっていうのにね」

「そう、なのですね⋯⋯」


 想像していた以上に根深い溝のあるソルシア王国とスラムの関係に、暒來は少なからずショックを受ける。


(互いにこの場所に根を張る以上、何れは対面する日が来るかも知れません。その時私はソルシアの官吏かんりとして、冷静に彼らに対処出来るのでしょうか)


 熾炎シエンの命を受けソルシア王国の官僚としてスラムに滞在する以上、反乱を起こす者たちにはたとえどのような理由があろうとも何かしらの処分を下さなければならない。そこに、一切の私情を持ち込むことは許されてはいない。

 形はどうあれ、生きるために必死で足掻いている月狼マーナガルムの義賊たち。しかし同時に彼らは誰かの親であり、恋人であり、子どもであるかも知れない。


(いくら書物を読み漁り知識を詰め込んだところで、これまで人との接触を故意に断ってきた私の精神は未熟なまま⋯⋯。取るに足らない貴族たちからのいわれのない言葉は心を塞ぎ耐え忍びましたが——)


 今はキラキラと純真な瞳で暒來を見る子どもたちに向けられる視線がいつしか憎しみや軽蔑のそれに変わるかも知れないと考えると、底知れぬ恐ろしさに見舞われる。

 そのことを考えるだけで不安と憂苦ゆうくで如何にかなってしまいそうだ。どろりと暗い感情が零れ落ち、凪いだ心の泉にひと匙の波紋が広がった気がした。





✳︎✳︎✳︎




 1日に必要な栄養価を計算しそれに基づいた献立の作成と調理、配給と青空教室がすっかりスラムで定着した後、次に取り掛かったのはスラム街に潜む病の芽を摘むことだった。


「——といっても、僕は医学の知識は必要最低限しか持ち合わせて無い。先輩として面目次第も無いが、今回もキミにご教授願うよ」


 そう言いながら柔らかい笑みを向けてくる透。


(恐らく、ユキ先輩はご自身の異能力で大抵の事は解決出来たから今まで専門的な知識は必要無かったのですね。かくいう私も、学院の授業や周辺諸国の書物を読んだきりで医者を生業とする方に敵うほどの知識量では無いのですが⋯⋯)


 暒來はそれも致し方ないことだと納得する。しかし、当の本人はそうはいかなかったようだ。


「僕はその場凌ぎの対策ばかりでその先の未来のことは考えに至らなかった。そんな自分か恥ずかしいよ」

「そんなことありません。きっとユキ先輩がスラムを訪れて居なかったら私も研究室に引きこもったままでしたし、陛下だって此処までこの街の現状を気に掛けることは無かったと思います。全てのきっかけは先輩が作ったのだと、私は思います」

「嬉しいことを言ってくれるね。⋯⋯ありがとう。それじゃあ、僕は僕にしか出来ないことを頑張ろうかな。例えば、頭のかた~いお偉方との交渉事とかね」

「それは全面的にお任せいたします⋯⋯」


 思わずその場面を想像してしまった暒來は引き攣った表情で答える。

 ひきこもってばかりだった暒來は未だに他人とのコミュニケーションが苦手だった。

 スラム街に来てから透やニーナ、ジャックをはじめとする子どもたちとは大分打ち解けたが、暒來のことを奇異の目で見てくる上司や同僚の前では喉が張り付いた様になり、上手く言葉を紡げない。


(大方、陛下に気にかけて頂いている私を妬んでの事だとは思いますが⋯⋯。本来なら官僚はおろか陛下にお近付きになれる身分では無いですし、私が女だということが余計に彼らの神経を逆撫でするのでしょうね)


 他人を貶める暇があるなら少しは己の研鑽に励んだらどうかと、暒來は心の内で毒付く。



「そうだ、暒來ちゃん。このスラムで流行る可能性のある病はどんなものがあるんだい?」


 透の声でハッと正気を取り戻した暒來は余計な思考を振り払う。


「ええっと⋯⋯ペストや天然とう、コレラなどでしょうか」

「なるほどね。僕たちでも感染する可能性のある病ばかりだ」

「はい。しかし、感染症とは病原体が体内に侵入しても必ずしも発症するわけではありません。本人の健康状態や環境によって変化するのです」

「それじゃあ、僕たちがすべき事は簡単だね」


 透の言葉に暒來は頷く。


「はい、感染源の特定とたとえ病原体が体内に侵入したとしても打ち勝つ免疫力をつけさせること、そして感染経路を断つことです」


 感染症が発生する条件は、感染源・感受性・感染経路の3つが揃った時のみだ。

 やるべき事は明確だがそれを短期間で、それも暒來と透の2人だけで取り掛かるとなると相当に骨が折れる作業なことは間違い無い。


「幸い、この街には未だ表立って感染症の流行はありません。感染症発生条件の内の一つ、『感受性』については概ね達成しています。このまま炊き出しを続け、必要な栄養を摂取させて十分な休養を取って貰えば問題ないでしょう」

「そうだね。——と、なれば残るは2つだけど⋯⋯」


 透は顎に手を当て考え込む。


「感染源から断つのが最善手、かな⋯⋯?」




✳︎✳︎✳︎




 現状、感染症が蔓延していないスラム街で出来ることといえば、主に消毒と感染する可能性のある動物の処分だった。

 まだ病の魔の手が迫って来ていないとはいえ、油断は禁物である。被害が出てから嘆いても如何にもならないのだ。


「人と脊椎せきつい動物等を共通の宿主とする感染症を『人畜じんちく共通感染症』と呼ぶのですが、それを事前に防ぐためには媒介生物を殲滅せんめつする事が一番です」

「それは、また——」


 透は目を丸くする。次に続く言葉が容易に予想出来た暒來は、先回りして答える。


「ええ、残酷なのは百も承知です。しかし、私たちが優先すべきは人命なのですから今回に限ってはそれも致し方ない事かと。具体的にはノミやダニ、ハエやネズミ等でしょうか」

「暒來ちゃんは大丈夫なのかい? 女の子はそういった虫とか動物が苦手なイメージがあるのだけど」

「問題ありません。研究の一環で解剖を行っていたので生き物の死骸には耐性があります」


(我ながら可愛げのない返答だとは思いますが、此処で偽っても仕方ありません)


「いやあ、頼もしい限りだ」


 ドン引きされる覚悟で打ち明けた暒來だったが、透はそんな様子は無くただただ感心しているようだった。


「⋯⋯薄気味悪いとは思わないのですか?」


 思わずそんな言葉が口をついて出た。

 研究に熱中する暒來に対して、これまで向けられて来た好奇の視線や罵倒の言葉が返ってこなかったために大層面食らう。


「そんな事思うわけないさ。キミが今此処にいるのも、孤独や心無い言葉に負けること無くそんな努力をひたすらに積み重ねて来た結果じゃないか」

「⋯⋯!」


 透の言葉に、これまでの暒來の生き様を全肯定された心地がした。そして、これまで不思議に思っていても決して口には出さなかった疑問が漸く解消される。


(此処にいる子どもたちがこの人には心を開いている理由が少しだけ分かった気がします。でも、兄さん以外から碌に肯定された事が無いのでどんな反応をして良いか分かりません⋯⋯)


 途端に気恥ずかしくなった暒來はふいと視線を外し、咄嗟に話題を逸らす。


「しっ⋯⋯しかし、いくら環境を整えスラムの子どもたちの予防を行っても姿を見せない大人たちが菌を保有していたら元も子もないのですが⋯⋯如何にかならないものでしょうか」

「それは僕には如何にも出来ないかもなあ。以前にも話したけど、彼らは僕たちの活動が気に入らないようだからね。急いて下手にこちらから接触したとしてもますます警戒心を強めてしまうだろう。歯痒いが自然と受け入れてくれるのを待つしかないだろうね」


 透でさえも匙を投げているならば、暒來にはこれ以上如何することも出来ない。暒來が肩を落としていると、透は明るい表情で口を開いた。


「⋯⋯でもまあ、心配しなくても近いうちに何か動きがあるんじゃないかな?」


 思っても見なかった言葉に、暒來は勢いよく顔を上げる。


「っ⋯⋯! 何か情報を掴まれているのですか?」

「いいや、根拠は無いさ。何となく、そんな予感がするだけだよ」


 そう言って遠くを見つめる透の菫色の瞳が夕焼けに照らされ、一層憂いを帯びているように見えた。








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