です

香久山 ゆみ

です

 犯人の名前を告げると、顔馴染みの刑事は息をのんだ。

 かつて何人もの女性の未来を奪った犯人は、追及を逃れた三十年の間まるで何事もなかったかのように人生を謳歌していた。いまや社会的地位もある犯人は、五十を超えていると思えぬほど精力に溢れた顔をしている。

「すでに時効を迎えた事件だし、まだ起こってない事件に警察が動くことは難しい」

 しかしながら刑事は申し訳なさそうに言った。

 予想していたことだ。

 三十五年前に起こった、若い女性ばかりを狙った連続殺人事件。残念ながら、十年前に時効を迎えた。しかし、一人の老刑事が執念深く事件を追っていた。犯人に目星はつけていたものの、決定的な証拠を見つけることができぬまま、志半ばで彼は殉職した。

 その遺志を、俺が継いだ。

 ひょんなことから、三十五年前の被害者達と共通する特徴を持つ女性と知り合った。彼女が抱える不可思議な状況について調べる内に、事件に行き着いた。三十年以上息を潜めていた犯人が、次に狙うのが彼女なのである。そうして俺は、老刑事から犯人の名前まで聞いた。十年前には上げられなかった証拠も、現在の科学技術ならば突き止められるかもしれない。

 けれど、警察は動かない。

 当然といえば当然である。すでに時効を迎えているし、まだ新たな事件は起こってもいない。なにより、という点において、常識的に考え警察を動かすのは不可能であろう。

 そうなのだ、幽霊の話なのだ。俺は、視えるから。

 まず、知り合った女性というのが幽霊なのである。彼女はふつうの死霊とも生霊ともちがう、特異な存在だった。自分が幽霊になった経緯について一切記憶がないし、なにより幽霊のくせによく喋る。俺の弟子になるといって憑いてくる。変な奴だと身元を調べたところ、彼女の本体は生きており、彼女自身が「未来の幽霊」であるということが分かった。近い将来彼女は殺される。それを阻止するためにいまここにいるのだ。そして、彼女を通じて、犯人の名前を教えてくれたのもまた、老刑事のなのである。

「悪いな、力になれなくて」

 目の前の若い刑事は手帳を閉じて申し訳なさそうに言った。

「いいさ。こっちこそ時間を取らせて悪かった」

「今日は、幽霊の彼女は?」

「知り合いが出場するラグビーの試合観戦に行っている」

 幽霊のくせに元気な奴なのだ。いそいそと出掛けていった。今頃いつものように騒がしく声援を送っているのだろう。まあ、幽霊の彼女の声が聞こえるのは俺だけなのだが。楽しそうだな、と刑事は笑みを見せたあと、別れ際に真顔になって不吉なことを言った。

「けど、本来死ぬべき人間を助けて、運命を変えたことで、代わりの誰かが死ぬなんてことないだろうな」

 ないだろ、と一笑したものの、背筋に嫌な汗が流れた。刑事である友人は、明らかに俺を心配する目をしていた。


 分かっていたことではあるが、警察には頼れない。彼女を救うには、俺が動くしかない。

 そう気張れば気張るほど、ぎゅるぎゅると腹具合が悪く、トイレに籠る。我ながら、元刑事とは思えない小心ぶりだ。警察時代に最後に当たった一件以来、事件の捜査をすることが怖くて堪らない。それで辞めた。

 退職後、霊能探偵なぞ始めたのだが、探偵とは名ばかりの気楽なものだ。なにせ、俺は視ることができるだけだから。直接幽霊にコンタクトを取ることもない。ただ、依頼人に見たものをそのまま伝えるだけでいい。それが俺にできる精一杯なのだから。

 なのに、彼女が現れた。弟子だといって憑いてくる。実際、彼女は俺を助けてくれた。ただ視えるだけの俺に代わり、幽霊同士コミュニケーションを取り、聞き取った情報を俺に伝えてくれる。俺はただ彼女の働きを受け取ればよかった。

 けれど、今回は違う。

 守るべき彼女の本体も、犯人も、生きた人間だ。幽霊である彼女が生きている人間に影響を与える術はない。言い訳はできない。俺が、やるしかないのだ。

「先生、大丈夫?」

 犯人を尾行しているだけなのに、朝から何度もトイレに行く俺に、弟子が心配そうな顔をする。

「大丈夫だ」

 もう出るものもない。

 尾行を始めて数日、今日は朝から犯人がいつもと違う動きをしている。まだ何か事が起こったわけでもないのに、不穏な感じがする。第六感というやつか。

 昨日、犯人は仕事で大きな失敗があり、苛々した様子で帰宅した。妻や子供には何事もない風を装っていたが、帰路、集積所のゴミを蹴飛ばしたり、のろのろと前を歩く老婆を睨みつけ舌打ちしたりと、荒れていた。

 今朝、いつも通りスーツを着て家を出たが、会社には向かわなかった。

 いつもと反対方向の電車に乗り、バスを乗り継ぐ。意識して窺っていると、ちらちらと乗客を物色しているのが分かる。

「先生……」

 弟子が不安げな声を漏らす。犯人が乗り換えたのは、彼女の自宅の沿線だ。駅に停車し、ドアが開くと乗客が乗り込んでくる。その中に、いた。橙色のワンピースに深緑のカーディガンを羽織っている。長い黒髪に、華奢な体。弟子の本体だ。それまできょろきょろと視線を彷徨わせていた犯人だが、彼女の姿を認めると、ぴたりと視線を止めた。じっと彼女の様子を窺っているようだ。

 彼女が電車を降りると、男がそのあとを追う。当然、俺達も。彼女がバスに乗る。数駅でバスを降り、路地を進む。アルバイト先へ抜ける近道なのだ。まだ明るい時間だが、ひと気はない。彼女のあとを犯人が歩く。それを尾行する俺達には気付いていない。

 弟子はいつになく静かで、俺の背中にぴったりくっついて怯えた顔をしている。大丈夫だと、声に出さず目配せする。彼女は口を結び、小さく頷く。

 歩調を変えぬまま、犯人が鞄から何か取り出す。遠目からもそれと分かる、不気味に刃渡りの長いナイフ。

 わずかに早足になったのか、徐々に犯人と彼女との距離が詰まっていく。艶やかな黒髪を靡かせて歩く彼女は、まだそれに気付かない。気付いたとて、もう逃げられない。廃墟となったアパートの脇に差し掛かる、付設の小さな公園は手入れもされず草木がぼうぼうと生い茂っている。俄かに、犯人が駆け出そうと足を踏み込む。

 ええい、ままよ。

 俺は飛び出した。

 背後から組みかかり、投げ倒す。がたいのいい男を完全に倒すことはできず、それを押さえ込もうとして、縺れるようにともに地面に転がった。犯人の手はまだナイフを持ったままだ。犯人は空手の有段者だったな、ふと調査内容が脳裏を過ぎる。けど俺だって、最近トレーニングする機会があり多少筋肉もついているのだ。こんなおっさんに負けるわけない。

 きゃああ!

 背後で繰り広げられる光景に気付いた彼女が悲鳴を上げる。

 一瞬気を取られた隙に一撃を食らう。そのまま男が馬乗りになる。一発、二発顔面に重いパンチが入る。防御に出した腕の隙間から、男が握りなおしたナイフを構えるのが見えた。絶体絶命――。

「右に鉄パイプが落ちてるよ!」先程の悲鳴と同じ声が言う。けど、この声は俺にしか聞こえない。右手を伸ばし、がっと振りかぶった鉄パイプで男をのした。

 遠くからパトカーの音が近付いてくる。犯人は気絶している。もう大丈夫だ。ほっと息を吐く。

「……先生!」

 確かに声がした。しかし、振り返ると、もうそこに白いワンピースの彼女の姿はなかった。


 倒したものの、せいぜい銃刀法違反と傷害未遂で大した罪にならないかもしれない。そう思っていたが、違った。

「あいつ、エリートで十年以上海外赴任していたんだ。その間時効中断が適用されるから、三十五年前の連続殺人でパクれるぜ」

 馴染みの刑事がぐっと親指を立てる。なんだかんだ言つつ調べてくれていたらしい。

 そんな友人が、気遣わしげな表情になる。

「何か元気ないな」

「そんなことないさ。ただ、つかれてんだよ」

 最近運動不足だったし、とくだらない言い訳まで付け足してしまった。本当に、変に調子が出ない。「そうかゆっくり休めよ」、友人はただそう返した。相棒の行方は問われなかった。

 事件から一週間経つ。平穏で静かなもんだ。

 犯人を倒してすぐに警察が到着し、彼女と言葉を交わすこともなく事情聴取のためそれぞれパトカーに乗せられた。その後、彼女はとくに事件がトラウマになることもなく、いつも通りの大学生活を送っているらしいと、刑事が教えてくれた。あの日以来、弟子(幽霊)の姿は見ていない。つまり彼女の命の危機は去ったということだ。これでよかったのだ。

 俺もかつての日常を取り戻していた。

 幽霊関連の依頼を受けた帰り道、バス停の近くで、たまたま彼女を見掛けた。白いシャツを着ている。彼女も俺に気付いたようで、ぱっと笑顔になった。ぱたぱたとこちらに駆けてくる。

 よう久しぶりだな、と俺が声を掛けるより先に、彼女が言った。

「あの、先日の方ですよね。見ず知らずなのに危険を顧みず助けてくださって、本当にありがとうございました」

 そう言って深々と頭を下げた。二、三、儀礼的な挨拶を交わして別れた。立ち去っていく彼女の後ろ姿を、じっと見つめる。

 長かった髪は、ばっさりと肩まで切っていた。

 軽やかな足取りで遠ざかっていくその背中を、俺は姿が見えなくなるまで見送った。

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です 香久山 ゆみ @kaguyamayumi

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