Episode07:いつかきっと
格子窓から差し込む光がゆっくりと朝を告げる。
昨晩、ご丁寧に悪友は店裏の部屋の鍵をカウンターへ置いて友人共々姿を消していた。元よりそのつもりだったことが知れ、見透かされたことが腹立たしいような、機転の巧さに感謝したいような、綯交ぜの感情にイリスの眉は下がる。
右隣に眠るリオは健やかな寝顔を見せていた。まだ少し鼓動が早い、自らの胸に手を当てながらにイリスは思う。
閉ざされた瞳の下、特異な条件下でのみ表れる
彼女の頭下へ潜らせた右腕の感覚はとうになくなっている。腕の痺れを甘やかに感じることはできなかった。刻々と迫る別れが、怖かった。
彼女を起こさないように腕をゆっくりと抜いてイリスはベッドを下りた。
いつぞや、ユーリィが羽織っていたバスローブをワードローブから取って肌に纏い、暖炉の火で珈琲の準備をする。
湯が沸いて上蓋がカタカタと震える音が聞こえ出すと、ベッドの上で寝返りを打ってシーツの擦れる音がした。
「……おはよう」
声を掛けるのはイリスだ。
眠たげな表情のリオは、翡翠色の瞳を瞬いてぼんやりとして身を起こす。朝日を背に受けて細身のシルエットが浮き彫りになり、その光景を目の当たりにしたイリスは即座に視線を逸らした。残像は頭の中に残る。
「珈琲を淹れるから、その間になにか着て。ローブならそこに掛かってるから」
ごつごつと拳で頭を叩いて像を散らしながら言う。
返事はなかったが、背後に衣擦れの音が聞こえてイリスはホッと胸を撫で下ろした。刺激が強すぎる。
ドリップさせた珈琲をカップへ移していると、その腰へするりと両腕が絡みついた。
「眠った気がしない。イリスはちゃんと眠れたの?」
「列車に遅れるでしょ。荷造りはもう済んでいるんだよね、この後一度家に戻るよ。馬を取って来る」
ソーサーへ乗せて手渡し、イリスは立ち上がってバスルームの方へ衣服を運んで手早く身支度を整える。平静な会話を続ける自信がない。鏡越し、彼女がこちらを見遣っていることには気付いていたが、気付かない振りを続けた。
「じゃあ……後で。君のアパートメントの前まで迎えに行く」
外套に腕を通しながら、扉に手を掛けて彼女を一度だけ振り返る。
カップへ唇をつけながらリオは薄らと微笑んで応えてくれる。小さな頷きを見止めると、イリスは寒空の外へと部屋を後にした。
店から自宅までは半時ほど掛かったが、馬車を引いて戻るのには一時も掛からない。始発列車の時刻には間に合うことを頭で計算した。
「ちょっと知り合いを駅まで送って来るから、馬を借りるよ」
番台に立つ父親へ外の小窓から声を掛けると、一旦は何か言いたげにされたがイリスがその返事を待たなかった。朝帰りを指摘されるような歳じゃあない。
干草を食んでいた馬を宥めて荷台を装着し、申し訳程度ではあるが座席代わりにクロスを敷いた。
ひと通りの支度が済んだところで、イリスはひとつ溜息を吐く。自身で嗤わずにはいられない、大きく深いひと息になった。
馬を走らせる。その間は無心を務めた。
リオのアパートメントでは、彼女はユーリィと談笑ながらに階段の下へ立っていた。
足元へ置いたトランクひとつの荷物には驚かされる。
彼女とユーリィを荷台へ乗せて、駅へ辿り着くまでの道程を、イリスは一言も口を利かなかった。
もっとも本人の自覚としてはその間の記憶を持ち合わせていない。いつの間にか、駅に着いていた、という具合だ。そんなイリスを慮ってか、ユーリィが荷台で世間話で間を持たせていた。
駅前は静寂に包まれている。まばらに見掛ける人影は、どれも行商の類の人間ばかりだ。
リオのトランクを持ち運ぶユーリィと、荷台を降りてチケットを買いに行くリオの後姿を、イリスは馬上で静かに見つめる。
「おい、早く来いよ。馬なら待たせればいいだろう」
ユーリィが気付いて声を掛けるが、イリスは微笑って返すだけに留める。
不思議そうに眉を上げたものの、ユーリィは後をついて来ると信じてかそのままホームへと上がって行った。
それ以上一歩も動ける気がしなかった。怖いのだ、と訴えようものならきっと悪友は彼の首根っこを掴んででも引き摺り下ろしただろうか。
「そんな情けない姿を晒すのはいやだなあ」、口の中で零しては小さく笑った。
ホームの様子はイリスの居る場所からは窺えない。駅舎の入口より向こうを石壁が阻んでいるのだ。
シュウ、シュウと蒸気を吐き出す音が近い。どうやらもう列車は到着しているらしかった。
発車までそう時間は掛からないだろう、動力炉はよく温まっている。後五分か十分か。ほんの少し耐えればいい。無意識に握った手綱が、微かに悲鳴を上げた。
動かないのか動けないのか、イリス自身にもわからなくなっていた。己の不甲斐なさを悔いる以上のことがなにもできない。
別れの前の挨拶を、きっとイリスの分も長く交わされているのだろうか。それともイリスを待っているのだろうか、ユーリィは戻らない。それを良しとしていた。
頑なに馬上で手綱を握り締めたまま、いつしか、早く発て、発てと駅舎の向こうを睨み据えている。
発車を告げる鐘がけたたましく鳴らされて、ゆっくり、ゆっくりと蒸気機関が音を上げて走り出すのが聞こえた時、イリスはほう、と留めた息をようやく吐き出せた。
そうして初めて馬を降り、傍へ係留させてホームへと歩を寄せた。
同じように送り出す側の人々がまばらながらにホームには立っている。線路を走る汽車は既に遠く、もうもうと煙を吐いている姿が小さく彼方に見えた。
しばらくの間線路を眺めたイリスは、進路方向と真反対のホームの奥を振り返る。視線を感じた気がしたそこには、如何ともし難い複雑を浮かべた悪友が袋を抱えて立つ。イリスが気付いたことで口元を僅かに歪め、歩み寄りながら抱えた袋から紅い物を取り出した。ふうわりと空気を含んだそれは、両手一杯拡げられてイリスの首元へぐるりと巻かれる。
「リオから、お前に置き土産だ」
「ずっと、編んでいたのはこれか。……怒らないんだな、ユーリィ」
「ホームに上がって来たお前の顔見たら、お化けみたいでその気が失せたね。お前の選択だ、俺が何か言ったって仕方がないのも事実だ」
実際、血の気が引いたように指先まで冷たく凍え、イリスの顔は憔悴していた。こういう時に悪友はやたらに気が利く。野暮も冗談も絶えない男ではあったが、場を弁えることができるから信頼を寄せられるのだ。
巻かれたマフラーは、イリスの記憶が確かならリオが編んでいた手製の物に違いないだろう。暇の手慰みだと言っていたが、網目は細やかに並んでいて丁寧に作られていることが分かる代物だった。
指先で弄んで感触を確かめていると、ユーリィがその上へ腕を回して寄り掛かる。
「いいよなァお前、俺も、世話焼いてやったんだから最後にキスのひとつ強請りゃアよかった。お前居なかったのに」
半ば冗談に聞こえない言葉を放りながらガシガシと雑に髪を混ぜるように撫でられ、イリスは声も出ない。それを良いことに、ユーリィはそのままイリスの身体を引き摺る形で馬車まで歩いた。
「俺はお前がここを出る方に賭けるぜ。……そんな気がするよ」
行きしなと違って広くなった荷台の上へ足を伸ばして寛ぐユーリィの声が後ろに聞こえる。
「………いつか、いつかきっとね」
顔を合わせられる日が来るように。不甲斐なさを克服出来るように。それが何年後なのかは想像もつかない。ただ、そう遠くない未来だと、イリスは信じていたかった。
今はそれで精一杯だと感じた、雪のない朝のこと。水紅の歌姫が街から消えた、最後の日。
淡く色づいた想いはその瞳のように儚く。それでいてきっともう元には戻らない。その虹彩が記憶から消えることはないだろう。
水紅色 紺野しぐれ @pipopapo
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