Episode06:初めての最後の夜
「は、ちょっと待って聞こえなかった」
いつもの如く転寝しながら店番をしていたイリスは悪友からの電話が事実上、二度目のモーニングコールのようなものだった。
しかしながらそれは寝耳に水に近い報告で、寝ぼけ眼を擦りながら、イリスは今一度肩に挟んだ受話器から聞こえる声に神経を研ぎ澄ました。
「今晩、うちの常連だけ招いてリオのステージを
「……マジかよ急だな。そりゃ、まあ行くけれど」
「早く来られるなら、番犬に立っててもらいたいところだな」
「わかった」
二つ返事に引き受けたイリスは、受話器を置いて伸びを交える。じきに、父親が配達から戻り番を代わることもできるだろう。そうしたら、支度を整えて出よう――、そう考えながら壁時計を見遣る。午後四時過ぎ。
ふと、悪友の声を頭で反芻する。リオのステージ。それは多分、実質のラストステージになるのだろう。
「あんなに待ち望んでたはずなのになァ、なんだか、あまり気が乗らないとか贅沢すぎるね」
ため息交じり零し、受話器を置いた。
ここ数日体調の思わしくなかったイリスはリオへの差し入れもユーリィの店へも顔を出せず仕舞いでいた。そんな折のこの報告は、イリスにとってはよくない報せだった。
まだ少し気怠く熱を持つ額を押さえ、初めて彼女を見たあの日を想った。
翡翠色の瞳。蒼とも、翠ともつかないその独特の虹彩にあの夜、ひと目魅入られては時が止まったように永遠を感じていた。
ため息だけが細く長く唇から零れる。
ユーリィが傾倒する紅眼の魅力が、イリスにはさほど理解ができなかった。それこそその瞳に文字通り「魅入られて」いるからこそなのかも知れなかったが。
……と、思案するイリスに店のカウベルが来客を告げる。はっとして見遣ればなんのことはない、父親が仕入れた商品木箱を担いで戻った姿が見えた。
「おかえり。戻ったところ悪いんだけどさ、オレ少し出てくるよ。ミルキィウェイに届ける物があるなら持って行く」
無口な父親は息子を一瞥した際に体調を問うような眼差しを向けたものの、配達がない分注文を受けて来いとだけ声を掛ける。手振りで了承して見せたイリスは、ファーフードの外套を着込んで店を出た。
花雪がちら、ちらと微かに降り始めている。本降りになるとは聞いてなかったが、テルミヤ河を渡す石橋へ差し掛かるのを境にイリスは足を走らせた。
ミルキィウェイの入り口、煉瓦ビル地下への階段からは灯りひとつ見えない構造をしている。中に続く廊下が長い所為だった。ビル前は静かで、人が出入りする様子も見受けられない。
閉店日を示すため、看板を照らすランタンも灯っていない。
階段を下りる手前で周囲を見回したが、後に続く人間は見当たらなかった。
「よう、早かったな。……リオはちょうど着替えの最中だぜ、行ってみるか」
降りた先の硝子戸の手前、ユーリィは居た。
両腕、両足を組みつ、壁へ凭れてはリオをかイリスをか、待っていたような出で立ちだった。
「また平手喰らうのはごめんだよ。大人しく番犬している方がよっぽどいい」
ユーリィが声を立てて笑う。戸を開いて中へ促される彼に続き、角を曲がると店内はまさかの無人であった。思わず、イリスはユーリィに顔で訊ねていた。
ユーリィは目配せをするように一瞥して口許へ笑みを乗せ、カウンターへ腰掛けるように手招いてコースターを天板へ滑らせる。
「ウチの常連ったら、お前だろ。人の口に戸は立てられんからな、今日は俺とお前、あとは
「……うれしかなしだな、こうもなると」
しみじみと呼気交じり零したイリスの本音を拾って、ユーリィの軽口もその時ばかりは鳴りを潜めた。
いつしかお決まりになったニコラシカを頼んだイリスは、ユーリィが自分用にブランデーを注ぐのを待ってグラスをかち合わせた。店を閉めた後に限っては、いつもこうして自ら酒を喰らうのを楽しみとしている男だった。
「腹は括ったか」
「――まさか」
「括れと言ったろ。……ところでお前、キスのひとつぐらいはできたンだろうな?」
「……もう前みたいなお膳立てはごめんだぜ」
酒が少し入ったせいか普段より饒舌になるイリスの手前、ユーリィがおや、と眉を上げる。
レモンを砂糖と一緒に齧ったイリスは、豪快にグラスを煽る。
「大体、ユーリィがいい加減すぎるんだよ。オレが紅眼に巻き上げられた時だって、終いには警察沙汰を逆手に相手を手篭めにしたろ」
「ご褒美ってなモンだろ、お前を助けてやったんだし。美味かったぜェ、後腐れもないしありゃいい経験させてもらったね」
文字通りうっとりと双眸細めるユーリィの表情をよそに、イリスはやれやれと息を吐く。この悪癖は今に始まった事じゃあない。イリスの知らぬところでも幾度とそういう駆け引きがあったのだろうという邪推をしては、首を振って想像を散らした。
「
ユーリィがグラスを置いて、カウンターを離れる。耳を澄ませば僅かにカツカツと硬質なヒールの音がした。
扉まで迎えに消えたユーリィが連れて戻ったのは、水蓮市特有の伝統衣装と呼ばれる詰襟や袖にパイピング装飾が施され、長いスリットの入った濃藍のロングドレスに身を包んだリオだった。その姿はいつになく美しい。イリスは息を飲んでその頭の先から爪先に至るまでじっくりと視線を注いだ。
「……ちょっと、放心しないでくれる」
「うん? ならこうしてやればいいさ」
入り口で立ち止まるリオの背後、するりと細腰へちゃっかりと手を添わせてその耳殻へ口付けをひとつ、ユーリィは落としてみせる。
そんな情景を見せ付けられたイリスは堪らず席を立ち、ユーリィの手を引き剥がすのだった。その顔はむっすりと子ども染みた嫉妬が露わなもので、ユーリィは声を立てて笑い、リオもそれにつられた。
「本当お前はわかりやすいンだから。そう睨むなよ、触れただけだろ」
「煩い、オレを煽った罰は必ず返すからな。覚えてろよ」
ふんすと息を荒げるイリスをリオがまあまあと諫め、その腕を取って組み歩いてカウンターへ移動した。
その様子を見守るユーリィを見て、イリスはちらりと舌を見せる。
「折角のステージなのにふたりとも喧嘩しないで頂戴。……ユーリィ、何か拵えてよ」
スツールの上でリオが足を組めば、肉付きのよい脚が露わになり、男二人の視線を釘付けにするのは造作もない。もう、とリオが声を立てたところで二人して視線を泳がせるのだった。
「喧嘩なもんか、いつもの質の悪い揶揄いってヤツ」
「わかってるじゃないか」
鼻で笑い、ユーリィは酒瓶から数種を注いだシェイカーを軽く振るってみせる。心地好い音が響いて、グラスへと注がれた酒は、乳白色の泡色から、徐々に琥珀に変わる。
イリスは、リオの隣で相変わらずレモンを食んでいた。そうして、時折入り口の方をちらりと窺う。
「今日の客は、もう一人居るんだよな?」
「ああ。遅れるんじゃないか、ヤツは」
「……ふうん、まァいいけれど」
折角のステージに遅れてやって来るとは不躾なヤツだ、とイリスは思いながらグラスの中の氷を弄んだ。
リオが一杯カクテルを空けてから、ステージは幕開けとなった。店の隅に飾った蓄音機の針を下ろせば、流行のナンバーが流れる。そうして、ステージ上へ移ったリオはマイクロフォンを両手へ包み込んで鈴のような声で唄を披露した。
一曲、一曲と唄の最中にリオの眼差しがイリスを捉えてはふとその瞳を緩ませて微笑むように見え、イリスは無意識に高鳴る鼓動を抑えるように胸元へ拳を握った。
透明なウィスパーボイス。目を逸らせないのに、逸らしたいような心地を、グラスの酒でどうにか紛らわせていた。
「……まさに、極上の酒だな」
ぼそりと零したユーリィも、それは同じなのか、カウンターの内側でハイペースでグラスを空けては注いでいた。
三曲目が途切れたところで、入り口から拍手と共に人影が見える。
「素晴らしいね、是非シークレストでも披露して欲しい歌声だ」
薄墨色のシルクハットとスーツに身を包み、三つ編みに結わいた白銀の髪を胸元へ垂らした男は、ユーリィより高めのバリトンを響かせた。ハットを取った下からは切れ長の碧玉の瞳が覗く。
「よう、久しいな紫蓮。……紹介するぜ、俺の旧友でリオの新しい雇い主だ。今やシークレスト在住だが、元は水蓮市で紅眼と薬の生業をしていた男さ」
「ご丁寧に言葉を選びやがる、相変わらずだね、お前は」
カウンターを出たユーリィは紹介の後に軽く握手とハグを交わして紫蓮を席へと案内した。イリスも左手を差し出して握手を交わし、その手に名刺を貰った。
リオも、ステージを降りて紫蓮と握手を交わす。
「先日振りね。向こうでも歌わせてくれるのかしら」
「そうだな、それもいいと思ったよ。テレヴィジョンへ女優として売り出そうか、きっと稼げるぜ」
テレヴィジョンという単語が聞き慣れず、イリスとリオは首を傾いだが、ユーリィだけはわかっているのか割って入る。
「馬鹿言え、そんな目立つことしてちゃお前の胸に風穴が開くぜ」
「ごもっとも。……けれど未だこの国を棄てる気にはなってないみたいだからな、案外と地元が世界の蛙なのさ、水蓮市貴族ってのも」
紫蓮はおどけた口調で笑ってユーリィに同じブランデーを頼み、グラスを手にしたところで三者へ向けて軽く掲げて見せた。
「俺の開業祝いと、
それは、
ブランデーはまるで水のように空けられる。いい飲みっぷりだったが、イリスはわずかに表情を曇らせてしまった。心からは喜べない自分への嫌悪がそこにはあった。
リオが再び、蓄音機の針を滑らせる。いつの間にか、手際よくレコードを入れ替えていたらしく、品の好いジャズピアノが空間を満たした。
しばらく、イリスを除いた三者間での会話が続いた。会話の内容は他愛なく、いつでも加わることができる程度のものだったが、イリスにはその意思がなかった。言葉通り、心此処に在らずだった。
喜べない理由は子どもの駄々と同じだった。いくら自身に言い聞かせても心に棲むもうひとりの自分がヘソを曲げて頑として聞かないでいるのだ。
良心の一方では、彼女を笑顔で送り出して安心させてやりたいとも強く願っているにも関わらずだ。
「ねえイリス、わたしと賭けをしない?」
気がつけばリオが隣へ腰掛けて顔を覗き込んでいる。
雪のような肌を見せる肩と太腿がぴったりと密着すると、イリスは思わず動揺で身体を震わせた。
空のカクテルグラスの縁を指先なぞりながら、リオは猫のように瞳を細める。
なんのために。口にするのも億劫だと感じてイリスは怪訝な視線を返した。まるで不機嫌を隠さない態度だったが、そんなことを気遣うだけの細やかさも高濃度のアルコオルを二杯空けた彼には残っていない。
リオは、そんな様子に少しだけ面食らいつつも続ける。
「来年のお互いの所在に、賭けましょ。わたしは、イリスがヘリトロオプを離れる方にベットするわ。……あなたはどこに賭ける?」
「下らないよそんな賭け。賭けになってないじゃないか、大した自信だな」
「……そうね、確かに純粋な賭けじゃあないわ。どうする? あなたは、その逆に賭けるのかしら。それとも」
イリスは胡乱な眼差しを返したものの、少し真面目に逡巡してみせた。
「オレは……一年後も君がここに居ない方に賭ける」
ぼそぼそと漏らして、咳払いを挟んだ。酒で少し喉が焼けていた。
「だけど。オレは戻って来て欲しいとずっと願ってる。多分、ずっと」
「胸に留めておく。わたしだってほとぼりが冷めたら、きっと戻るつもりでいるのよ。ここで歌うのは格別気持ちがいいしね」
だったら――。未だ、心を占める声をイリスは噛み殺した。ぎり、と歯が鳴る。両腕に、言葉の代わりとリオの細い身体を掻き抱くようにして手繰り寄せた。
音楽が途切れて訪れる沈黙に、互いの鼓動だけが規則正しく響くように聴こえた。
「明日の早朝の列車で発つわ。きっと、今夜は朝まで眠れやしない」
彼女の冷たい指先がイリスの顎先をそっと捉え、ふたり視線を絡ませる。
柔らかい微笑みに対して、イリスもまた弱々しくも応えて見せる。
傍に居てくれる? 言の葉は音を伴わずに唇だけで紡がれ、答えは声なくして示された。重なる影の向こう、残された二人の男たちは既に居ない。とうの昔に、舞台はふたりだけになっていた。
長く短い夜を振り返って、イリスはしみじみと悟る。
永遠とは、瞬間を切り取ったものであるのだと。
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