It's a good excuse

橘 紀里

例えばあの時

 その男を見かけたのは、唐突で全くの偶然だった。再会とさえ言えない、雑踏の中で彼が一方的に気づいただけ。


 日がとっぷりとくれた歌舞伎町で、最後に見た時のヨレたシャツ姿とは似ても似つかぬ高価たかそうなスーツをかっちり着込んで、明らかに堅気カタギではなさそうな男たちと並んで歩いていた。

 声をかける暇もなかった。それでなくとも、まともに話したのはたった一度。向こうは覚えてさえいない可能性の方が高い。それでもその姿が目に焼きついたまま離れなかった。教師だったくせに、失踪するように消え失せて、そのくせ思わぬほど近くでしれっと元気に過ごしている。


 無駄に動揺する自分に苛立ちながらも、結局気になってネットで検索してみれば、わりとあっさりとセンシティブな個人情報まで含めて浮かび上がってきた。

 まもなく結婚予定の婚約者がいたのだとか、の数日前に両親がで亡くなっていたとか、いなくなった男の古アパートが翌日火事で燃えていたとか。

 ただ不運や不幸が重なっただけ、で済ませるには数が多過ぎたし、掘れば掘るほど一介の高校教師にしては不穏な情報が多すぎる。


 おまけに、目に飛び込んでくるのは異常を知らせる文字列。彼がそれに気づいたのは、あの男を見かけてこうやって情報を追うようになって数日後のことだった。


『店は今のところ順調。XXと会って次の店舗の話をする』


 見るともなし眺めていたあの男のSNSの文字列の知り合いらしい相手の文字がオレンジに染まって見えた。

「何だ……?」

 思わず呟いて、目を擦る。けれどその文字列ははっきりと他の文字とは違う色をしていた。何かの広告かとも思ったが、異常はその文字列だけ。自分の目がおかしいのかシステムのバグなのか、とにかくも意識に引っ掛かるその色が気になって調べていくと、不審な情報にいきあたってしまう。しばらく悩みに悩んだ末、DMを送った。


『XXに気をつけろ。あんたをめようとしてる』


 詳細はあえて伏せた。彼の持っている情報が正しいかの確信は到底持てなかったし、そもそもこんな胡乱うろんな情報など普通は信じない。見知らぬアカウントからのメッセージなど無視されて当然だ。そう思っていたのに、数秒で返信がきた。


『おー、マジか。サンキュ。気をつけるわ』


 たったそれだけだった。愛想よくただ適当に受け流されたのかもしれない。それでも返信が来たことにやけにホッとした自分に苛ついて、煙草を吸おうと箱を取り出したが空っぽだった。

 空箱を握り潰してゴミ箱に放り投げ、上着を羽織って外へ出る。月も星も見えない深夜の曇り空は彼のぐちゃぐちゃな心情を映しているような気がしてさらに苛立ちが募る。

 自販機で煙草を買おうとして、自分が煙草を吸い始めたきっかけがあの男だったことを思い出して手が止まった。ウィンドウに映った自分の、あの時よりもさらに伸びた髪も。


 うんざりして、踵を返して駅地下から馴染みの本屋に入る。深夜営業をしているこの本屋は彼にとっては精神安定剤のようなものだった。文芸書のコーナーはいつも閑散としていて、入れ替わりはあっても、常に膨大な見知らぬ誰かの思考で埋め尽くされた書棚を眺めて、やっと普通に呼吸ができる気がした——のに。


「よう、久しぶり」


 ニッと笑った顔には先日はなかった無精髭。かろうじてスーツだが、自堕落な雰囲気が漂っていた。実のところ、彼の記憶にはそちらの方が似合うのだけれど。


「ご助言ありがとな。おかげで助かったわ」


 改めて見れば小脇にウサギのぬいぐるみを抱えた男は、獲物を見つけた猛獣みたいな顔で笑う。

「似合わなすぎだろ。プレゼントならさっさと渡しにいけよ」

「そう見えるか?」

 そう言って、男はさらに不穏な笑みを浮かべながらぬいぐるみの背中を彼の方に向ける。そこはざっくりと無惨に切り裂かれていた。

「何……?」

「盗聴器が入ってた。取り出して踏み潰して、でもぬいぐるみに罪はないだろ? とりあえず見せつけるだけ見せつけたが、可哀想だから持って帰ってきた。お前、裁縫とかできる?」

「できるとしてもやらねえよ」

「相変わらず可愛くねえなあ」

 言いながらも男は何やら紙を取り出して彼の前に突きつける。

「どいつが怪しいと思う?」

 何を、と言いかけるよりも先に、その紙に書かれた名前の一つが赤く浮かび上がる。脳裏に響くアラートの深刻度は致命的Critical

「なるほど、こいつか」

「何で……⁉︎」

 正確に彼のアラートを読み取った様子に思わず声を上げると、男は口の端を上げて不穏に笑う。

共感覚Synesthesiaってやつだな。お前は文字から何かが見える。俺は視線から色が見える」

「嘘だろ?」

「そう思うか? 俺がここにいるのに」

「そんなのない。俺に見えるのはあんたがらみの——」

 言いかけて口元を押さえる。それは、知られるべきではないと本能が警告していた。だが、遅かったらしい。男はほんの少し目を見張って、けれどやっぱり不穏に笑った。猛獣みたいな顔で。

「へえ」

 身を翻そうとしたけれど、書棚に押しつけられるように拘束される。筋肉量は圧倒的に相手の方が上だから、分が悪い。

「有効活用したいと思わねえ?」

「嫌だ」

「そう言うなって。俺は俺のビジネスを成功させたい。お前は何だか知らんがその危機リスクを検知できる。超便利だろ」

「人を便利とか言うな!」

 静まり返った店内で大声を上げるわけにもいかないから、低く言って睨みつけたけれど、男の表情は変わらない。どころか、彼の髪に手を伸ばして指先で掴んだ。


 あの時と同じように。


「切らなかったのか?」

「あんたには関係ない」

「分け前は50Fifty-50Fifty。大盤振る舞いだ、一緒に遊ぼうぜ?」

 断ることを許さないどころか、疑ってもいない顔でそう言った。黙ったまま、彼がただ睨み返すと片眉を上げて何やら考え込むようだったが、不意にしたり顔で笑う。


「金がいらないってんなら……キスしてやろうか?」


 あの時みたいに、と耳元で低く囁かれた言葉に反射的に殴りつけた。あっさりと受け止められたが、拘束が外れたことを幸いにその場から駆け出した。

 外に出て、そのまま深夜営業をしている美容室に飛び込む。あいつにあれこれいわれるのは金輪際ごめんだからな、と誰も聞いていないのに意味不明な言い訳をしながら。


『こん中で危なそうなのどれだと思う?』


 五秒後に届いたメッセージをうっかり開いてしまって、やっぱり後悔しながら。

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It's a good excuse 橘 紀里 @kiri_tachibana

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