狂気の女に襲われる

海沈生物

第1話

 寝起きの俺は今、謎の女から心臓に包丁を突き付けられている。女は俺が目を覚ましたことに気が付くと、人差し指を口元に当て、官能的な笑みを浮かべた。


「ちょっとだけ、殺してもいいですか……?」


「殺していいわけないだろ! 頭大丈夫か?」


「頭……そう……頭……私は頭が……あぁ……っ!」


 突然絶叫した女は人生の全てに絶望したような顔をすると、ベッドから床に倒れ込んだ。その顔はどこか、数年前に自殺した妹の顔を俺に思い起こさせた。妹も失敗続きの就活に心を病んでしまい、ちょうど今の彼女と同じような顔をしていたのだ。


 だからつい、俺は彼女に「情」が湧いてしまった。俺を殺そうとしてきた彼女を、どうにか救ってあげたい……と思ってしまったのである。


 俺は床に倒れ込む女の背中をポンポンと叩くと、風船に空気を入れた時のように、彼女はぷくぅと起き上がった。


「あー……その。”頭大丈夫か?”みたいなキツい言葉を使ってしまって、悪かった。俺は別に、お前を責めるつもりはなかったんだ。ただ、一般的な人間の反応として、”殺す”と言われたら”嫌だ!”と言いたくなった……みたいな。そういう、反射的な反応としてそう言っちまったんだ。だから、その……悪かった! そんな顔させるつもりはなかったんだ! ……すまん」


 俺は両膝をつき、誠心誠意を込めた土下座をした。俺の様子を見下ろした女は、少しだけ表情が柔らかくなったような気がした。しかし、それは一瞬のことだった。彼女はぶんぶんと激しく頭を横に振ると、包丁を俺の喉元に突き付けてくる。


「謝罪とか求めてないわ! 私が求めているのはただ、お兄さんを殺すことだけよ! それなのに……それなのにそれなのにそれなのにそれなのにそれなのにそれなのにそれなのにそれなのにそれなのにそれなのにそれなのに! どうして、お兄さんは私に殺させてくれないの? どうして? ねぇ、どうして! 答えてよっ!!!!!」


 突然激昂した女は瞳孔ドウコウを小刻みにプルプルと震わせながら、手に持っていた包丁で俺の頸動脈を切ろうとしてきた。その顔は普通じゃない狂気に満ちていて、それはどこか妹が死んだ時の俺自身の顔を思い起こさせた。


 だからつい、彼女の顔にグーパンチを喰らわせてしまった。咄嗟のことだった。俺は俺の顔が嫌すぎて、つい殴ってしまったのだ。


「な、なによ? なんで、私を止めようとするのよぉ! なんで……なんで……」


 突然泣き出した女は手から包丁を床に落とすと、俺のベッドに顔を埋める。俺は落ちた包丁を拾いながら、その姿に淀んだ息を漏らす。


 この女は死んだ妹と同じだ。きっと過去に「何か」があって、今のような普通じゃない状態になってしまったのだ。だから、俺が救わなければならない。普通に戻してやらなければならない。妹と同じ結末をこの女にも送らさせるわけにはいかない。


 ————しかし、一体彼女をどうしてやればいいのか。


 普通に考えれば、彼女を病院に行かせてやるべきなのだろう。だが、それで彼女は幸せになれるのだろうか。病んだ人間はこの世に生きているだけで、辛いものなのだ。



 だったらいっそ、俺がここで—————————



 俺は手に持っている包丁にギュッと力を入れると、ベッドに顔を埋める彼女の背中に包丁を突き付ける。


「……なぁ、女」


「……なに。やっぱり思い直して、私に殺させてくれるつもりになったの?」


「……それはない。その逆だ。お前はこの世に生きていたいと思うか? そんな普通じゃない性格で生きていて……辛くないのか?」


 女はのっそりとベッドから顔だけ上げる。泣き腫らした目は真っ赤だったが、そこには先程のような狂気や絶望はなかった。ただ、そこには貼り付けたような虚無だけがあった。


「生きていて辛くない日なんて、ないわよ」


「だったら、俺が殺————」


「————でも、死にたいと思ったことは一度もないわ。だって、当たり障りのない普通の道を選ぶより、数倍は波瀾万丈で、楽しい人生を過ごせているもの! 私の人生は狂気と絶望に満ちたものよ。でも、その息もできないぐらい苦しい地獄の毎日の方が、どこかの会社で社畜として無惨に死ぬより、ちゃんと生きているって感じがするわ! たとえ、次の瞬間にどこかの誰かさんに殺されてしまうのだとしても……ね?」


 女はくるりと背中を翻すと、俺にニコリと微笑みかけてきた。その顔に満ちていたものは明らかに希望ではなく、狂気そのものであった。しかし、俺にはその笑顔が希望に満ちた顔の何倍も眩しく見えた。その姿に、俺は目が眩んだ。



 俺は————油断した。



 次の瞬間だった。女は油断した俺の手から包丁を奪い取ると、そのまま俺の頸動脈を切り裂いてきた。予想だにしない行動に対応できなかった俺は、口から胸元から血を吐きながらその場に倒れ伏す。


「ごめんなさいね、お兄さん! でも私、人を殺さないと生きていけない人間なの! 許して、なんて許しを乞わないわ。ありがとう、なんてお礼も言わないわ。私は私を偽らない。私は自分の狂っている人生に言い訳をしないわ! だから、お兄さんはただ一言だけお別れの挨拶をするわ。…………さようなら、お兄さん! 向こうの地獄でまた会いましょう!」


 狂気に満ちた顔をしている女は人差し指を口元に当て、官能的な笑みを浮かべた。そのまま背中を向けて、俺の部屋から立ち去っていく。


 床の上でその姿を見送りながら、俺はニコリと頬を緩めた。

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