2 掌中宝珠
雨に降り籠められたまま、さらに数日。
気伏っせいではあるが妙に幸せな時を俺は過ごしていた。
娘のルウルウはいつも俺にまとわりついて嬉しそうだった。高い高いが大好きで、腕が鍛えられる。
こんなに遊んでもらえることはなかったから、とリウリウが笑った。俺はもう少し家庭を顧みるべきだったようだ。
妻とはどうするか、少し迷う。
俺がリウリウを愛しているのは間違いなかった。そしてリウリウも俺を想ってくれているだろう。
だが馴れ初めも娶った経緯も知らずに愛を交わすのは酷いのではないか。
寝台で俺にスリ、と身体を寄せたリウリウに触れ、俺は外れかけた
そして雨は止まない。そろそろ天の底が抜けたのかと心配になってくる。
だがその長雨の中、来客があった。聞いたリウリウがぴくりとし、少しの怒気が滲む。
客人二人を戸口に迎えた瞬間、天に稲妻が走った。これまで静かに降りそぼるだけだった空模様の変化に驚く。リウリウの笑顔が冷ややかで、俺はそれにも目を見張った。
「やっと来たのね」
「――ごめんなさい、
謝ったのは内気そうな少年だ。しかし彼に腕を引っ張られている青年は、こちらを見ようともしなかった。たくましい身体、険のある顔つき。口をへの字にし、フン、とそっぽを向く。
「ジャオトゥの仕業だとは思ってたけど、ヤーズィが原因だったの」
「はい、僕がやりました。ほんとごめんってば、バーシア
口にされたその名に、俺は驚いて三人を見比べた。
それは龍から生まれた九兄弟のうちの三人の呼び名だった。
***
兄弟七番目のヤーズィは、喧嘩っ早く無愛想な男だ。そしてすぐ上の姉バーシアが人の嫁になったのが気に入らなかった。
相手は方術使いとはいえ、ただの人。龍の子と釣り合うはずもない。いくら本人同士がベタ惚れでも認める気にならなかった。
一番下の弟ジャオトゥの所で酒を飲んでくだを巻き、姉婿のタイロンに文句を言ってやりたくなった。
争い事を好むヤーズィだ、会わせたらロクな事にならないのがわかっている。もう夜遅いしとジャオトゥは止めたのだが、どうしても行くと聞かない。
一人で行かせるよりはと付いて来たら、ちょうど帰宅したタイロンと鉢合わせた。暗闇に目をすがめてこちらを見たタイロンに、ヤーズィがブチ切れて――。
「まさしく
平謝りしていた少年、ジャオトゥに言い訳がましく説明されて、あまりの事に俺は呆然とした。
睚眦の怨みとは、ほんの少し睨まれたほどの怨みのこと。
大した事ない怨みの例えだとばかり思っていたが、本家本元の
「
記憶封じか。
力では敵わないので、得意の封術で睨まれた事そのものを忘れさせ、ヤーズィを引きずって帰ってくれたらしい。
だが、その術が俺にも掛かったと。
「弱く掛けたからヤーズィ
龍の子と一緒にしないでほしい。
俺は方士なだけで、一介の人にすぎないのだった。俺が眠り続けても無事だったのは、リウリウが気を補ってくれたからだそうだ。
「そんなわけで、ごめんなさい。解くよ」
ジャオトゥは俺に手をかざした。それだけなのに、一瞬ずきりと痛んだ後、頭の
ああ。
俺は、タイロンだ。そして隣にいるのは、リウリウ。
「――リウリウ、君を忘れていてごめんよ」
何もかもに得心がいった。
リウリウとのこれまでも、ルウルウを授かった日のことも、ついでに目の前の二人の義弟のことも。
「ヤーズィは、どうしても目を合わせないんだな」
俺はおかしくなって言った。
「死にてえのか」
一言だけ返ってくる。それでもかなり抑えてくれているはずだ。
龍の子の
ヤーズィは『争』、ジャオトゥは『封』、バーシア――リウリウは『水』。
「さあ、これでいいでしょ
ジャオトゥが苦笑いする。リウリウは俺がうなずくのを見て、泣き笑いした。
「だって。私を忘れるなんて、悲しかったんだもの」
それで天は泣き続けたのか。俺はずっと側にいたのに。それでも悲しくて悲しくて、泣いていたのか。
俺がリウリウを抱き寄せると、空は急に明るくなり始めた。それを見てジャオトゥがホッと一息つく。
「この雨で、まずいって気づいたんだよね。もっと早く来ればよかったんだけどさあ」
「てめえが引きこもりだからだ」
「ヤーズィ
物騒な事を言いながら義弟たちは帰っていった。
見送って、俺は改めてリウリウを腕にすっぽり収める。こんなに大切な存在を忘れていたなんて、一生の不覚だ。
「まったく――
今日はまったくこちらを見ようとしなかったヤーズィ。それが彼なりの不器用な謝罪なのだと俺にはわかる。ただ姉思いがすぎるだけなのだ。
「タイロン――」
リウリウ――
「もう忘れちゃ、嫌」
「ごめん。君を忘れたかったわけじゃないんだ」
「わかってるけど」
拗ねた口ぶりのリウリウに、俺はそっと唇を重ねた。君を忘れていたこの数日、憚っていた柔らかさ。たかが義弟の術ごときに君への想いを封じられるなんて。
――だが少し、不安もある。
「リウリウ、もう一度確認するよ。俺は君を置いて死ぬ。それでもいいと言ったよね?」
俺は人。リウリウは龍の子だ。リウリウの生きる時からすると、俺の命はあまりに儚く消え失せるだろう。
そんな喪失を味わわせたくなくてリウリウの前から去ろうとした俺を、君は必死で引き留めた。
それでもいいから。何もなかったより、二人幸せだった思い出がほしいから。過ごした時間があれば、その後も生きていけるから。
そう言ってくれたのに、ここしばらくの天気といったらどうだろう。
「俺が死んだら、すべてを沈めてしまうのかい?」
「そんなことない」
言い返すリウリウをすんなり信じられるものじゃなかった。また泣き出しそうな君を見て俺も悲しくなる。
俺だって、リウリウを遺していくなんて嫌だ。でも仕方がないじゃないか。俺は、人だから。
「違うの、だってあなたはここにいるのに、私を知らないなんて言うんだもの」
それは――酷い仕打ちかもしれない。
「タイロンが眠ってるのはよかったの。あなたは働き過ぎだと思ってたから、少し休んだらいいと思って。でもタイロンがそこにいるのに。そこにいるのに、私があなたの中にいないなんて」
とうとうリウリウはポロリと涙をこぼした。俺は慌てて指でそれを拭う。
震えるリウリウを抱き直すと、俺の胸に顔を埋めてリウリウは呟いた。自分に言い聞かせるようだった。
「大丈夫。本当に大丈夫。私、たくさんあなたを覚えておくから。それに、ルウルウもいるわ」
ルウルウ。俺たちの娘。二人の掌中の珠。
そうだな、あの子が君に寄り添っていてくれるなら。
「おかしゃん、おとしゃん」
トコトコと、奥からルウルウが出てきた。叔父たちに会わせて危険があってはと、表に出るのをリウリウが禁じたのだ。ヤーズィもいたのだから、さもありなん。
「おいしゃんたち、こんどはルウとあそんでくれる?」
「そうだといいな」
俺はしゃがんで娘を抱き上げると、リウリウと二人まとめて抱きしめた。
母の肩にぽすんと頭を預けるルウルウの襟の内に、白く小さな背中がのぞく。そこには薄っすらと銀の鱗が浮かんでいた。
この子は人の子。
そして、龍の血をひく者。
だがその前に、俺とリウリウの愛しい娘だ。
龍の子は天に泣く 山田あとり @yamadatori
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