龍の子は天に泣く
山田あとり
1 不可思議
目覚めたら、知らない部屋だった。
寝台に身を起こし辺りを見る。丸い飾り窓の外は明るかった。昼のようだ。こんな時間まで寝ているなんて。
「どうしたんだ俺は」
呟いて、はたと気づいた。
――俺は、誰だ?
わからなかった。
慌てて自分を確認する。
手や腕は見たところ若いがそれほど筋肉質でもなさそうだ。着ているのは白く素っ気ない
どうやら若い男である、ということしか判明しなかった。
寝台から足を下ろしかけて
室内に置いてあった暗い色の
覚えのない物を流れるように身に着けるのは、いつもそうしていたからか。
となると、ここは俺の部屋なのだな。
困った。
部屋を出れば家人がいるのか。顔を見ても誰だかわからない自信があるのだが。
するとパタパタと足音が近づいた。俺の立てた物音が聞こえたのかもしれない。
緊張して待ち受けた俺の前に姿を見せたのは、小柄な女だった。藍の深衣がしっとりと美しい。
「タイロン!」
女は駆け寄ってきて俺にすがりついた。迷いなく。そういう間柄なのか。
だが情けないことに俺はよろけた。踏ん張りがきかない。それに気づいた女がうろたえた。
「ごめんなさい、大丈夫? そうね十日も眠っていたんだもの、力が入らないかも」
「十日?」
眠っていたとはどういうことだ。俺はタイロンという名なのか。そして気安げなこの女は――。
「君は、誰なんだ?」
おそらく傷つけるのだろうと思いながら、そう訊くしかなかった。
女はキョトンとして動きを停めた。
***
女はリウリウと名乗った。俺、タイロンの妻なのだという。
「りう、りう。リウリウ。リウリウ」
心配そうなリウリウに手を握られながら、小さく繰り返し口に出してみる。とてもいい音に思えた。
不思議なものだが、その名を呼ぶと笑みがこぼれる。それで俺はこのリウリウを愛していたんだなと腑に落ちた。
――なのに何故、妻のことを忘れてしまったのだろうか。
「……おとしゃん?」
「まあ起きたの」
ふにゃふにゃ目をこすりながら幼女が顔を出して、ぎょっとした。おと、さん、だと。もしや俺の娘なのか。
その腕には布で作られた龍の形の玩具が抱えられていた。昼寝のお供だったとみえる。女の子の物にしては可愛らしくないが。
「おめめが覚めても泣かなかったのね。えらいわルウルウ」
リウリウが玩具ごと幼女を抱き上げる。果たしてこの子は、俺の娘だそうだ。リウリウの娘で、ルウルウ。ややこしい。
「ルウルウ、か」
呟くとルウルウは俺の方に手を伸ばした。
「おとしゃん」
抱っこをせがんでいるのだろう。俺は自然に近づき、リウリウから娘を受け取った。
「大丈夫?」
「もう平気だ」
さっきは起きたばかりでフラついただけだったようだ。今は何の問題もなく娘の重さを支えられる。
ルウルウは柔らかくあたたかく、炊きたての飯のようないい匂いがした。
優しくぎゅっとすると胸に何かがじんわりと広がる。この世には、こんなに愛おしいものがあるのだな。
――なのに何故、娘のことを忘れてしまったのだろうか。
「おとしゃん、おはよう。ルウ、おとしゃのおっき、まってたの。おとしゃん、だいすき」
「ああ、父さんもルウルウが大好きだ」
覚えていないが、たぶん嘘じゃない。俺はこの妻と娘のことを愛している。
それを忘れてしまうなんて、いったい何があったんだ。
***
その日の夜、俺は家の戸口で倒れていたそうだ。
たまに帰りが遅いこともあるらしいが、その日は戸がガタガタいうなりドサリと不穏な物音がした。リウリウが駆けつけると俺が路上に崩れ落ちていて、他に誰もいなかったという。
そして俺は怪我もないのに、何故かこんこんと眠りこけたというわけだ。
「で、俺は普段何をしていたんだろうな?」
膝の上で遊ぶルウルウの肩を撫でながら、俺はひとりごちた。ルウルウは今日も龍の玩具を抱えている。これにままごとの相手をさせているようだ。
「おとしゃ、わるものやっつけるよ」
「……官吏なのか?」
俺を見上げるルウルウの瞳には、父への信頼があふれている。ごめんな、俺は今、自らの生業すら思い出せない。
「おとしゃ、やまいのひと、たしゅける」
「……医者か?」
何がなんだかわからない。
俺はルウルウのふくふくの両頬をフニ、とつまんだ。唇をくちばしのように尖らせて、ルウルウはひゃらひゃら笑った。
ここは俺の書斎のようだ。棚には書籍が山と積まれていた。
商うほどあるのだなと呆然とする俺に、リウリウは吹き出した。自分が集めたくせに、だそうだ。
書を読み、考えるのも仕事の一環だったのだとリウリウは言う。
思い出すまではのんびりしていればいいじゃない、と嬉しそうなので役所勤めなどではないらしい。それでも家には下男下女を抱えている。では俺は何の仕事をと問えば、リウリウは首を傾げる。よくわからない、と。
夫の仕事を知らないことなどあるのだろうか。それとも俺が知らせないようにしていたのだろうか。
自分の正体が判然としないのは気味の悪いものだ。
ここには様々な書物があった。中で多いのは、医術、方術、錬金術、神話に言伝え。なんとも怪しげだ。
外では雨が降りしきっていた。室内にも湿った匂いが入ってくる。それは柔らかく俺を包み、決して不快ではなかった。
俺が目覚めてすぐに降り始めた雨は、もう四日もやまない。強くはないが弱まることもない霖雨は俺の心を映すようだった。
「あらあら散らかして」
入ってきたリウリウが微笑んだ。
記憶の手掛かりを探していた俺の卓子には、あさった書物が何冊も散乱している。それを山や谷と見立てたか、ルウルウは龍をそこで冒険させていた。
「ああ、すまん」
「いいのよ。散らかし屋さんなのは変わらないのね」
「――前から、こうか」
うなずいてそっと傍らに立つリウリウの腰を抱き寄せた。細い身体。
これは俺が守るべき人なのに、俺は自分のことすらわからない。だがリウリウは俺の頭を優しく抱きしめてくれた。
膝の上に娘、腕には妻。こんなに満ち足りることもなかろうが、やはり心には穴が空いている。ぽっかりと。
取り戻したかった。彼女らを愛してきた思い出を。
「大丈夫、そのうち思い出すわ」
俺を見透かしたようにリウリウがささやいた。
「書物に答えがあるとは限らないのだし、根を詰めないで」
「そうは言ってもな」
「きっとすぐ、何かが起こるから」
リウリウのふわっとした言い方に俺は苦笑した。
「何かって、不可思議に頼るわけにはいかないだろう。せめて人の世の
世の理を求め、人が記した書物しかここにはなかった。人ならぬ不可思議のことは人にはわからない。もどかしいものだ。
そう考えて俺は驚いた。何故そんな。俺のこの有り様は、理に外れた何かのせいだとでもいうのだろうか。
どうやら千々に乱れているのは、室内よりも俺の心のようだった。
そう。
ふと思いついて離れない気がかりが、俺にはある。
俺は、どうしてピンシャンしてるんだ。
十日も飲まず食わずで眠っていて、俺は少しも衰えていなかった。
――俺は何者だ?
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