魔女の毒


 やっぱり美しいわ。


 闇色竜アセンに近付いたリハルは、妖しくも美しい輝きを放つ漆黒の鱗から目が離せなかった。


 そして近寄って判ったことがある。


 アセンから感じる呪毒は備わっているものではない。


 もしかしたら、これは〈術〉なのでは……?


 そしてもう一つ、この闇色竜には魔性の気配とは別のものがある。



「さあ、近くに来たわ。ここへ来た理由を教えて」


 リハルはアセンを見上げながら言った。


「食事だ。腹が減っているのだ」


「……は?」


 この森に竜の餌となるものがあるとは思えないけれど。


 そもそも、竜ってどんなもの食べるのかしら。


「お腹が空いてわざわざここに? いったい何が食べたいの?」


「おまえだ」


 ズズッと闇色竜の大きな貌がリハルの目の前に迫った。


 裂けたような口からせり出す鋭い牙。


 これで口が開けられたなら、リハルなど一飲みだろう。


 おもわず鳥肌が立ち、防御術をかけようかと一瞬思ったが。


 本当に私を食べる気なら、わざわざ言うまでもないし、近寄らせずに襲えるはず。


 ───それに。


 やはりなぜか恐ろしいとは思えない。これは魔女の勘、だろうか。


 この竜───アセンの本質がそう訴えている。



「どういうこと? 血肉が欲しいの? でもあなたは魔物とは違う。……あなたからは人間ヒトの気配がする」


 気配というのか匂いというのか。上手く説明できないが、目の前の竜の中には確かに、魔性とは異なる性質があるとリハルは気付いた。



「さすがメイシィズ家の魔女」


 アセンの眼が笑ったように細められた。



「ワケあって竜だが、この姿は本来の俺じゃない。だがたとえ仮の姿でも腹は減る。しかも決められた食い物を摂取しなければ本来の姿に戻ることができなくなる」



「───わかったわ。そういう呪術をかけられたのね」



 呪毒の呪い。大きな魔力を要する呪術の一つだ。


 アセンの言う『決められた食い物』というのは〈毒〉なのだろう。


 でも……。それがなぜ私?───あ、そうか。



「この毒がほしいのね」


 リハルは籠の中から淡白く発光する邪香花が詰まった小瓶を取り出した。


 匂いは密封されていても〈毒〉の気配というものは残る。普通の人間は気付かなくても魔女や魔物には判る気配だ。


 そしてアセンのように呪術をかけられた者も〈毒〉の気配を察知する。


 それが『決められた食い物』であれば尚更、空腹であれば敏感にもなるだろう。



「違う。そんなものじゃない」


 苛立ったようにアセンは言った。


 絶対当たっていると思っていたのに。



「俺が喰わなければならないのは『魔女の毒』だ。魔霊の力。霊気とも言うやつだ。簡単に手に入るような毒の実や毒草ではない。そんなもの喰っても苦しくもなんともない。逆に俺は魔女が生まれながらに持つ霊的な力をこの身に摂らなければ苦痛が起きるのだ」


 リハルは驚いた。


『魔女の毒』が霊気だなんて。でも確かに魔女の霊気には魔力があり、尊き種族と云われる〈竜〉が忌み嫌うものだ。


 でも闇色竜アセンは……。



「いったいどうして……。誰にそんな呪いをかけられたの?」



 本来の姿が人間だというのなら。アセンは何者なのだろう。



「誰なのか……それは言えない。話すことは禁じられた。頭の中にそいつは浮かぶのに、話そうとすれば声が出なくなり、文字に書こうとしても筆を持った手が動かなくなる」



「言霊封じの魔法ね。それも呪いの一種よ。二重の呪術なんて随分と恨まれたものね」



「これは俺個人にかけられた呪術じゃない。一族にかけられた呪いだ。運悪く俺が呪いと記憶を継いで産まれた」



 呪いと記憶を継ぐなんて。そんなことがあるのだろうか。


 魔女の力を継ぐみたいに。私のように隔世遺伝とか?


「幼い頃から呪いの兆候があっても、こんなふうに姿が変わってしまう呪毒の覚醒が起きたのは最近だ。そのせいで記憶はまだごちゃごちゃしているが。摂取する《毒》はメイシィズ家の魔女の毒だという記憶は鮮明だ。最近、と言っても何百年どのくらい前かは謎だが、凪ノ塔に住む魔女の毒を喰った記憶がある。そして塔で暮らす魔女が、十と七の齢になるとき……その魔女と出逢うことで……呪われた運命が変わるという……予言の記憶もあって。……俺をここに向かわせた。……だから……」



 闇色竜の喋りがゆっくりになり、声がかすれ、なんだか苦しそうに息を吐く。


「ちょっと大丈夫?」



「───はやく、喰わせ、ろ!」



 それが魔女にものを頼む態度⁉


 横柄ともとれる態度が気に入らないが。苦痛に悶える竜を見ているのも辛い。



「どうしたらいいのよ。その魔霊とか霊気って、どうやってあなたにあげたらいいの?」



「手を……出せ。片手でいいから」


 リハルは言われるままに右手をアセンの前に差し出した。



「俺がいいと言うまで動かすなよ」



 こう言うなり闇色竜アセンはリハルの手の甲に口を寄せて触れた。


 冷たい感触に息を呑む。


 でもこれって───。



 相手は竜だがその行為は口付けで。


 リハルは心なしかときめきを感じているような気分になった。


 闇色竜はリハルの手に口元を押し付けたまま身動きせず、漆黒の眼も閉じていた。


 アセンが目を閉じていてよかったと思った。


 こんなときに見つめられたらもっとドキドキするだろうし。


 触れてみたいとは思ったが、まさかこんなことになるなんて。


 憧れの〈竜〉(呪われてるけど)に……。


 痛くも痒くもなく、ただ冷たいと感じていた部分が数秒後、熱を帯びた。


 そして一瞬、チクリと痛みを感じたすぐ後で、闇色竜は眼を開き離れた。



「───もういいぞ」



「え、っと。……食べ終ったってこと?」



「そういうことだ」



 差し出していた手をよく見ると、痛みのあった部分に小さな赤い痕があった。



「……痛むか? ───すまない、強く吸い過ぎた」



「大丈夫、痛くはないわ。でもこれって、食べるというより吸い込むという感じなのね」



「今日のはな」



「えッ、いろんな食べ方あるの?」



「い、いや……そういうわけじゃ」



 なぜなのか、闇色竜は慌てた様子だ。



「初めてで……そんないきなり。……俺だって乱暴に喰ったりとかしない……」



 モソモソ声が聞き取りにくい。



「だって喰わせろとか言うから。ガツガツ食べるの想像しちゃって。なのに吸い過ぎたとか言うから」



 リハルの言葉に、漆黒の竜の眼が気まずげに逸れた。



「それじゃあもうお腹がいっぱいになったのね。どこも痛くない?」



「ああ、今日のところは」



「よかったわね」



 ───ん?


 今日のところは……とはつまり?



「ありがとう、メイシィズの魔女リハル」



 横柄だったけど、ちゃんとお礼が言えるやつでよかった。と思いつつもさっき言われた「今日のところは」が気になる。



「ねぇ、アセン。もしかしてこれからもここへ食事に来る、とか?」



「少し違うな。通うつもりはない。この姿で動くのはまだ慣れないし、力も多く必要になる。だから───ああ、効いてきたようだな、おまえの毒……」



 リハルの目の前で不思議な現象が起きた。



 闇色竜の姿がゆっくりと消えて、そのかわり何か別の形が現れた。


 人間だ。


 少し長めの髪色は黒曜石オブシディアンで、艶のある月長石ムーンストーンの色が光の加減で輝いていた。


 端麗な面立ちの中、青紫の瞳はまるで瑠璃石ラピスラズリ紫水晶アメジストの光を混ぜたような色をしている。


 この色は全部、闇色竜の鱗の輝きと同じものだ。


 そしてこの瞳。竜のときは漆黒で色が違ったけれど。冷たい冬の夜を思わせる眼差しは変わらない。


 飾り気はないが生地と仕立ての良い灰色の衣服を身に纏った見知らぬ人間の男がリハルの前に立っていた。



「……アセンなの?」


「ああ、そうだ」



 これがあの闇色竜の本来の姿。


 悪くはないけど。やっぱり竜のときのような迫力には欠けるわね。



「ようやく元の姿に戻れた。二週間振りだ。しばらく世話になるぞ」



 ───はい?


 眉を顰め、なんのこと? というような顔のリハルをアセンはまじまじと見つめて言った。


「やっとみつけた」


「しばらく世話になるってどうい……」


 どういうこと?


 こう言いかけたが、アセンの言葉に先を越された。



「やっとみつけたぞ。俺の魔女───」



 一瞬、周りが真っ暗になったような気がして。次にハッと気付くと、リハルはアセンの両腕の中にいた。



 それは初めて異性に抱きしめられた瞬間だった。




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竜愛づる魔女の復讐譚 ことは りこ @hanahotaru515

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