でか
香久山 ゆみ
でか
「おう。久しぶり。相変わらずつかれてんのか?」
「ああ、つかれてる。今日は置いてきたけどな」
俺の返事に、甲斐が笑う。
「ははっ。置いてこれんのかよ。それでも憑かれてるっていうのか?」
「うるせえ、憑かれてるっつーの。ただ、あいつが特殊なんだよ」
席に着き、アイスコーヒーを注文し終えた甲斐がすっと真顔になる。
「調べたが、あと関連しそうな資料は、これで最後だ」
そう言って、テーブルの上に数枚のコピー用紙を広げた。
ひょんなことから、ここ二ヶ月ほど俺は幽霊に憑かれている。変な幽霊で、よく喋るし、俺の弟子だと言い張ってくっついてくる。いつまでも放っておくわけにもいかないので、本人には内緒で正体について調査している。死霊と生霊の両方の線を念頭に置き、病院も当たったが、それらしき患者の情報はなかった。また、本人の若くて活発な様子から、病気ではなく、事故か事件に巻き込まれた可能性も高い。そこで、かつての同僚である甲斐に頼み込み、警視庁にそれらしき情報がないか調べてもらっている。しかし、ここ数ヶ月のデータを当たってもらったが、それらしき事件は見つからなかった。そして、今回持ってきてくれたものが最後の情報だという。
「まあ関係ないと思うんだけど。なんか引っ掛かって、一応持ってきた」
甲斐は歯切れ悪く言った。刑事の勘ってやつだ。
資料に目を落とすと、コピーで分かりにくいが、確かに年季の入ったもののようだ。三十年前の日付が入っている。
「……未解決事件番号一桁台か……」
思わず声を漏らす。資料の表紙には『未解決事件No.7』とタイプされている。
「お前が退職したのも、一桁台の事件がきっかけだったな」
「ああ。7番じゃないけどな」
冗談めかして返したつもりが、喉がからからだった。
まだ殺人事件に時効があった時代に未解決のまま捜査終了となった事件たち。中でも特に凶悪なものや異様・不可思議な事件に、一桁の番号が振られている。「一桁台に関わるとろくなことが起こらない」とまことしやかに囁かれる。一時期、ある人とともに一桁台の事件を追っていた。
表紙を捲ろうと手を伸ばしたものの、逡巡した。
「じゃあ仕事の途中だし、そろそろ行くわ。その資料はお前に預けとくから」
甲斐が席を立つ。確かに忙しい奴ではあるが、俺が一人で考えられるよう気を遣ってくれたのだろう。
「それから」
伝票を手に取って、甲斐がさり気なく付け足す。
「たまには杉下さんとこに顔見せに行けよ。もうすぐ三回忌なんだから」
甲斐を見送り、席に残された俺は深い溜め息を吐いた。分かってる。杉下さんは、かつてともに一桁台を追っていた上司だ。彼はずっと単独で一桁台を追っていた。そこへたまたま俺が加わり、二人で未解決事件に当たった。それも、今となってはもう過ぎたことだ。
一つ深呼吸してから、ゆっくりと頁を捲った。
杉下さんの家を訪れるのは、葬式以来二年ぶりである。
杉下家の連絡先を記した手帳を取りに自宅へ寄ったところ、弟子も一緒に行くと駄々をこねたが置いてきた。あんなうるさいのを連れて行く気分ではないし、そうすべきでもないだろう。なにせ、彼女自身が関わるかもしれない事件について調べるのだから。
No.7の資料には、杉下さんの筆跡で多くのメモが残されていた。彼はN0.7の事件も追っていたのだ。
三十五年以上も昔の事件。十代から二十代の若い女性を狙った連続殺人。捜査資料には被害者たちの写真も貼られていた。いずれも華奢な体つきで、共通して黒髪のロングヘアだ。彼女達の写真を見て、真っ先に我が弟子の姿が浮かんだ。
記録としては三十五年前が最後の事件となっている。以降、同様の事件の記録はない。
どういうことだ?
彼女は三十年以上前にすでに死んでいるのか? いや。捜査資料に彼女は載っていないし、実際に彼女が幽霊として現れたのは最近のことだ。
ならば、三十年以上息を潜めていた犯人が、今再び事件を起こし、彼女はその犠牲となったのか。もしも三十五年前に犯人が二十歳だとすれば、現在五十五歳。こちらの方が可能性としては十分にありえる気がする。しかし、現在警察にそのような事件の通報はないし、行方不明の届けもない。さりげなく本人に死因を尋ねたことがあるが、「覚えていない。気付いたら幽霊になっていた。だからたぶん事故だと思う」という、当てにならない感じだった。
答えが出ぬまま資料とにらめっこしていると、スマホに着信があった。最近知り合った男子高生からだ。部活動を再開したと言っていたから、ラグビーの試合を観にきてほしいとか、そんな話だろうと思っていたら、違った。
「今乗ってる通学バスに、先生んとこの弟子の幽霊がいる。いや、幽霊じゃなくて、生きてる」
彼も、俺同様に「視える」人間だ。メッセージとともに、写真が添付されている。バス内で隠し撮りしたようで、褒められたことではないけれど、その画像に俺は目を瞠った。そこには、いつもの白いワンピースでこそないが、長い黒髪を下ろした、紛れもない我が弟子が、吊り革を掴んで文庫本を読んでいる様子が写っていた。
その後、改めて一人で張り込み、彼女の生きている姿をこの目ではっきりと確認した。身元も調べた。家族と暮らす自宅から、沿線の大学に通い、週に二日塾講師のアルバイトをしている。ふつうの女子大生だ。一方、幽霊は幽霊で、相変わらず俺に憑いて毎日楽しそうに幽霊ライフを謳歌している。
どういうことだ?
生霊といえば深い怨念などが原因となることが多いが、傍から見る限り、本体、幽霊ともに生霊になるほどの強い思念を持っているようには見えない。まったく、変な幽霊だとは思っていたが、ここまで変な奴だとは思わなかった。
ともあれ、現在生きているのだから、三十五年前の未解決殺人事件とは関係がないということだ。理性ではそう思うものの、頭の奥の方でチリチリと警鐘が鳴っている。職を辞して久しいが、俺にも刑事の勘が残っているらしい。
甲斐が置いていった資料に隈なく目を通す。杉下さんのメモを一つひとつ読み解く。なにぶん三十五年前の事件だ。残された資料を頼るほかない。
そうして俺は杉下さんの家を訪ねた。捜査資料には書ききれなかった細かな記録が残っているはずだ。案の定、記録魔の杉下さんは多くのメモを残していた。丹念な聞き込みをしたのであろう、詳細な資料が残っている。各被害者の好きなもの、口癖、仕草……。杉下さんが彼女達の無念を晴らすべく真摯に捜査を進めていたのが伝わってくる。そうして、新たな被害者を出さぬよう祈りを込めて。
杉下さんは犯人に当たりをつけているようだった。慎重に周辺の捜査をしていた様子が窺える。しかし、決定打には至らなかったのだろう。資料をひっくり返してみたが、ついに犯人の名前は残されていなかった。
奥さんに礼を述べ、仏壇に手を合わす。遺影の杉下さんは生真面目な顔でじっとこちらを見つめていた。
お宅を辞して、頭の中を整理する。事実から推論を組み立てる。一つひとつの記録を辿るにつれ、いっそうこの事件の被害者と我が弟子の共通点が強く感じられた。容貌、服装、よく笑うところ、通勤通学にバスを利用してひと気のない道を通るところ……。あまりにも似ている。たとえば、息を潜めていた犯人が、再び犯行に走ろうとする契機ともなりうるほどに。
ただ、彼女はいま生きている。一方、幽霊でもある。しかし、ふつうの死霊とも生霊とも異なる存在だ。――彼女は、未来の幽霊なのではないか。――そんな突拍子もない推論に行きつく。彼女は、近い将来犯人によって命を奪われる。時を越えてその幽霊が俺の目の前に現れた。それは未来からの警告ともいえる。
でも、まさか。そんなこと神様にだってできっこない。
たまたま元同僚が『No.7』の捜査資料を持ってきてくれた。たまたま知り合いが弟子の乗ったバスに乗り合わせて連絡をくれた。三十年以上前の事件にも関わらず、質、量とも十分な資料が残されていた。そうして、たまたま俺と彼女は出会った。まるで何者かが、「これ以上の犠牲者を出すな」と警告するみたいに。こんなことをするのは神様じゃない、きっと――。
彼の家を振り仰ぐ。人がいる。家の前に立って、じっとこちらを見ている。
「杉下さん――」
懐かしい顔が夕陽に照らされている。
「杉下さん、あなたが導いてくれたんですね。俺きっと事件を防いで、犯人を捕まえます」
そう言うと、杉下さんは静かに微笑んで頷いた。あの頃みたいに力強い眼差しに、鼻の奥がつんとなる。頑張れよって声を掛けてもらいたい、肩を叩いてほしい。そう思うけれど、できない。俺はただ、視えるだけだから。彼の残した資料から犯人を割り出し、事件を未然に防ぐのだ。必要な資料は残っている。きっとできるはずだ。
「聞けばいいじゃん、本人に」
背後から声がした。驚いて振り返ると、白いワンピースに長い黒髪の我が弟子(幽霊)が、大きな瞳でこちらを見つめている。「あたしを使ったら杉下さんとコミュニケーション取れるんだから。しっかり活用してよ、あたし先生の弟子なんだから」そう言って口を尖らせる。
「なんでここにいるんだよ。留守番してろって言ったろ」
「いや、だって最近ずっと深刻な顔してるからさ、心配するじゃん。それに、あたしに関わることなんでしょ」
「どうして知っているんだ」
「あは。先生一人の時、けっこう独り言いってるよ。トイレでもブツブツ言ってたし。だいぶ集中してたから、壁や天井からあたしが覗いてても気付いてなかったね」
なんてへんたいだ。顔を真っ赤にする俺をよそに、彼女はすたすた杉下さんの元へ進む。
「ねえ、杉下さんは犯人の目星が付いていたんですよね。犯人の名前を教えてください」
堂々と訊いている。
そうして俺達は、犯人の名前を手に入れたのだった。
でか 香久山 ゆみ @kaguyamayumi
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