イシュタルの冥界下り ~入ったら出られない沼~【春】【旅】【うさぎ】
kanegon
女神イシュタルが一枚ずつ脱ぎます。お楽しみに。
メソポタミアを守護する戦神にして豊穣の女神でもある、偉大にして美しきイシュタルは、冥界へ降りたきり戻って来ない夫のドゥムジを心配した。
冥界を支配しているのは、イシュタルの姉であるエレシュキガルだ。夫を帰すよう、言ってこなければならない。
「ドゥムジったら、散々心配させて。戻って来たらタダじゃ済まないんだから」
心の中では夫の身を案じつつも、ツンツンした口調の言葉を吐き捨てながら、イシュタルは冥界への長い階段を下り始めた。
ただただ長い下り階段が真っ直ぐに続くだけの単調な道だった。当然、地上の光は届かず、手に持つ松明の灯りだけが頼りだ。次第に湿気が強くなり、蒸し暑くなってきた。頬に僅かに汗を滲ませながら、イシュタルは前は進んだ。単調な足音だけが同行者だった。
「もう随分下ったのに、まだ冥界に着かないのかしら」
やがて、イシュタルの眼前には巨大な門が出現した。レバノン杉製でダマスカス鋼で補強されているの頑丈な扉は閉ざされていて、イシュタルの行く手を阻んでいた。
扉の脇には門番らしき男がいた。口を開き、厳かな声でイシュタルに告げた。
「冥界に下り、エレシュキガル様と面会しようとする者は、エレシュキガル様に会うに値するという証を示せ」
「証、だと。エレシュキガルは私の姉だ。妹が姉に会いに来たというのに、何の証が必要だというのだ」
「証が無いのならば、その代わりに、そなたの大事な物を何か一つ手放すことだ。そうすれば自ずと門の扉は開いて道を示してくれることだろう」
「大事な物、とな」
そう言われてイシュタルが最初に思いついたのは、頭上に載せている宝冠と、腰に佩いている宝剣だった。両方とも、神のアーティファクトだ。宝冠は豊穣の女神として収穫や多産を司る魔力を有する。
「この宝冠を手放そう」
そう言ってイシュタルは宝冠を門番に手渡した。すると、勿体ぶったような重々しい音と一緒に扉が開き、更に先へ下る階段が見えた。
下へ下へのイシュタルの孤独な旅は続いた。
もういい加減うんざりし始めた頃、またも巨大な門が見えた。先程と同様、扉が閉まっていて門番の男が見える。太った強欲そうな男だ。
「来訪者よ、証を示せ」
示せるはずが無い。
「ならば、大切な物を一つ手放せ」
またも代償が必要なのか。しかし、先程宝冠を喪ったばかりだ。残っているのは宝剣くらいである。この宝剣はメソポタミアを守護する戦神としての象徴だ。残ったもう一つのアーティファクトを容易に手放すのも躊躇われる。どうすればよいのか。
別の物では駄目なのだろうか。例えば、首に懸けて胸元を飾っている瓔珞はどうだろう。これは色とりどりの宝石をあしらっていて豪華ではあるが、特に魔力や神力を帯びているものではない。金銭的価値は高いが、あくまでもそれだけの装飾品である。地上に帰れば幾らでも代わりを用意できるものだ。
「では、この瓔珞を手放そう」
首から外した瓔珞を門番に手渡すと、扉が自ずと開いた。イシュタルは、ほっと安心しつつも、この先に続く長い長い階段を見て疲労感と徒労感で足が重くなるのを感じた。
「門番よ。この門というのは、この先にもまた存在するのか」
「愚かな質問だ。この先に門が幾つあろうとも、通行の証さえあれば問題無く通過することができるのだぞ。何を心配する必要がある」
「だからその通行の証とやらを持っていないからこそ聞いているのだ」
「門は全部で七つ。ここは地上から二番目の門。冥界に辿り着くまでには、あと五つの門と出会うことになろう」
イシュタルは絶句した。この様子だと、あと五回も、代償を要求されるということだ。
「ならば引き返すか。ただし、引き返すとしても、既に支払った代償は返すことはできないぞ」
門番に言われるまでもなく、イシュタルには進むという選択肢しか無い。夫を迎えに行くという目的があるのだ。
長い階段を更に下って、そろそろ足が蒸れてきたという頃、第三の門が登場した。イシュタルは穿いていた長靴を片方脱いで門番に手渡した。受け取った門番の男は、長靴の中のにおいをかいでいた。が、扉は開かない。
「門番よ、これはどういうことだ」
「どうもこうも無い。門が認めていないのだ。長靴片方だけでは、お主の大切な物としての価値が不十分なのだ。もう片方の長靴も脱いでみるといい」
言われた通り、もう片方の長靴も脱いで手渡した。すると、やっとという感じで扉が開いた。
イシュタルは小さく溜息を吐いた。片方の長靴で第三の門を、もう片方の長靴で第四の門を突破しようと企んでいたのだが、そのような小手先の誤魔化しは通用しなかった。
裸足の女神となったイシュタルは、下りの旅路を行く。長靴で蒸れていたので、階段の石の冷たさが心地好かった。今までとは違う足音とともに第四の門に着いた。
イシュタルは腰に佩いていた宝剣を外すと、その宝剣を吊っていた腰の革ベルトを門番に手渡した。さすがにそれでは扉は開いてくれなかったので、鞘から宝剣を抜いて、抜き身の宝剣を門番に手渡した。メソポタミアの守護者であり戦神でもある力を司る主体は、実は剣ではなく、豪華な宝飾を施された鞘の方なのである。
しかしまたも誤魔化しは通用しなかった。剣を渡しても扉は開かない。
「どうした。早く大切な物を手放すんだ」
イシュタルは悩んだ。宝剣の鞘を手放すのはどうしても躊躇がある。
迷った末に、結局着ている長衣を脱いだ。今のイシュタルは辛うじて胸と腰を下着で覆っているだけという、裸に近い状態だ。
重い決断をしただけあって、四番目の門の扉が開いた。これで鞘を手に持って先に進める。だが、まだあと三つも門が残っている。
衣服を脱いで下着姿となってしまい、急に心細さが勝り始めた。先刻までは蒸し暑さを感じていた下り階段の道が肌寒く感じる。
五番目の門の前に到着した時には、既に心の整理をつけてあった。イシュタルは躊躇うこと無く、ブラを外した。豊穣の女神の象徴であるので、乳房はかなり大きく重い。ブラを喪ったことで、一歩進むだけで無駄に揺れるようになった。大切なブラを手放したのだ。これで扉は開くだろう。
「な、何故扉は開かないのだ」
イシュタルのブラを受け取った門番の男は、少しだけにおいをかいでから、そのブラを自分の胸に装着しようとしている。服の上からだ。
「大切な物を温存しているからだろうさ。自分でも分かっているんだろう」
そう言われてはもう誤魔化しようもない。仕方なく、鞘を門番に手渡した。
扉は鞘の価値を承知していたのだろう。すんなりと開いた。
「とんでもなく強欲な七つの門だこと」
文句を言いながらも階段を下る。長い階段だが、それだけに考えをまとめる時間は確保できる。
六番目の門の前に着いたイシュタルは、大きく深呼吸した。女神たる者が全ての衣服を剥ぎ取られてしまうの恥ずかしいが、夫を取り戻すためだから仕方ないと開き直ることにする。
アンゴラウサギの毛を編んだパンティを脱いで、門番の男に手渡す。男は例によってにおいをかいでから、その脱ぎ立てパンティを頭に被った。お約束に忠実な男だった。
「ちょっと、どうして全裸になったのに扉が開かないのよ。故障しているんじゃないの」
股間を片手で隠しながら、イシュタルは悲鳴に似た叫びを挙げた。
「自分では全裸になったつもりらしいけど、全裸になっていないから扉が認めてくれていないんだろうよ」
門番の男は重々しい口調で言ったが、イシュタルの脱ぎたてパンティを頭に被った状態なので、間抜けだ。
「あんた、両手に黒い手袋を穿いているだろう。それを両方脱いで本当の全裸になれよ」
イシュタルは片方手袋を外して門番に手渡した。扉は開かない。もう片方も手袋を脱いで門番に手渡す。六番目の門の扉も開いた。
全裸となったイシュタルにはもう迷いは無い。雑念を捨てて一心不乱に残りの階段を下った。
七番目の、最後の門と対峙した。足を肩幅に開き、手で股間を隠すことも無く、仁王立ちした。
ここまで、宝冠、瓔珞、長靴、宝剣と長衣、ブラと宝剣の鞘、パンティと手袋、と全ての着用している物を脱ぎ捨ててきた。今のイシュタルは正真正銘の全裸だ。これ以上脱ぐ物は何も無い。
「さあ、扉を開けて私に道を示しなさい」
門番の男は好色そうな目でイシュタルの裸体を眺めながらも、事務的に要件を告げた。
「エレシュキガル様に会いに行く証を示せ。それができないなら、代償を支払え。例外は無いぞ」
「見ての通り、今の私は全裸よ。これ以上何を脱げばいいというのよ」
「何が全裸だ。嘘を言うな。お前はまだ大切な物を持ち続けているじゃないか。その手に」
「も、もしかして、この松明のことか」
「光の届かない真っ暗な下り階段を照らしてくれて、お前をここまで導いてくれたのは、その松明なんだろう」
言われてみればその通りだ。イシュタルは、いまだに火がついたままの松明を門番に渡した。第七の、最後の扉は音も無く静かに開いた。松明も手放して全ての衣服と所持品が無くなり真の全裸となったイシュタルは一歩を踏み出した。
扉の向こうにはもう階段は無かった。ということは、ここがもう冥界なのだろうか。松明がなくても、ほんのりと明るい。湿度が高く、ヒカリゴケが生えているらしい。
「イシュタル、ここに来たのか」
聞き覚えのある男の声がした方に顔を向けると、水溜まりに浸かっている夫のドゥムジの姿があった。
「ドゥムジ、無事だったのか。心配したのだぞ。さっさと帰ろう」
イシュタルはドゥムジに向かって手を差し伸べた。
「無理だ。ここは、入ったら出られない沼なんだ」
「それがエレシュキガルの罠だというの」
真剣な表情のイシュタルに対して、ドゥムジの顔はだらしなく緩んでいた。
「この沼は温泉なんだ。入ったら気持ち良くて出られないんだ。イシュタル、お前だって既に全裸になっているんだし、温泉に入るつもりで来たんだろう」
ドゥムジに手を引っ張られて、イシュタルは沼に落ちた。
「あ、この温泉、本当に気持ちいい」
長衣を脱いで下着姿になってからずっと肌寒さを感じていたイシュタルは、温泉の暖かさを心地好く享受していた。長い長い下り階段を歩いてきた疲れも、温泉に溶け出して行くようだ。
「ああ、気持ちいい。これは人を駄目にする温泉だわ。エレシュキガルって、こんな素敵な場所を支配していたのね。もう地上にも帰りたくない。ずっとここに浸かっていたい」
かくして。ミイラ取りがミイラになった。
温泉の気持ちよさにはまって駄目になってしまい、冥界から帰れなくなった豊穣の女神イシュタルの影響で、地上は永遠に春の来ない不毛の冬の大地と化してしまった。
イシュタルが戻って来ないと困るので、地上からは、イシュタル救出のための勇者が派遣されることとなったのだが、それはまた別の物語である。
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