水の泡底
米山
水の泡底
ぶくぶくと泡を吐きながら沈んでいくのが分かる。身体中の栓が開いて、僕の身体の内から必要不可欠な色素が抜けていくような感じだ。やけに明るいと思った。一瞬ずつ、僕が現実世界という水面から切り離されていく感覚。泡だけが生きた世界へと向かっていく。
水の重さに身を任せていると、背中が底をつくのが分かった。なんとなく地面をつかんでみると、それは大量のガラス玉で彩られた半透明の水底である。玉同士がぶつかりあって、水中特有のザラザラとした音がクリアに響く。その小気味悪い音は僕の口から溢れる泡を追い越して水面へ近づいていくようだった。
小さな耳鳴りがしたのち、辺りは静寂に包まれる。「わ」と声を出してみるが、音は返ってこない。水が振動を受け止めているのか、僕の声帯が震えていないのか判別がつかなかった。しかし、それは気持ちの悪い無音ではなく、肺の底から落ち着くような無音だ。
僕は天井の青を見つめていた。そういえば昔、僕は宇宙が青色なんだと思っていたんだっけ。外から見れば青いのは、水だって変わらないはずなんだけどな。
ふと目を横に流すと、一匹のカエルが僕に近づいてくるのが分かった。しかし奇妙な事に、そのカエルは地上にいるときのようにガラス玉の上を飛び跳ねる。時たま、二本足で歩いたりもした。足を広げて泳いだりはしないのだろうか。そういう種類のカエルも、いるのだろうか。
「泳げないんですよ」
僕の視線を察したかのようにカエルは語りかける。「昔っから。練習はしたんですけれどね、もちろん」
「君はそれで仲間外れになることはないのかい?」
「もちろん。でも、そんなの本当の仲間なんて言いませんよ」
「確かにそうかもしれない」
「第一、この泉にいるのもあたしだけです」
「それは寂しい」
「いえ。時々こうしてあなたみたいな死に損ないの人間がやってきますから」
カエルは照れくさそうにして足元のガラス玉をもてあそぶ。器用に動くその四肢を見ながら、僕はどうして彼が泳げないのか考える。環境は十分だろうに。
「綺麗でしょう、これ」
カエルはそう言って、ガラス玉を二つ放り投げる。それは私の眼前でゆったりと弧を描き、再び底について死ぬ。「全部あたしが作ったんです」
「全部?」僕は首をひねって泉の底全体を見渡す。端の方は靄が掛かっていてうまく見えなかった。「それはすごい。君の身体の大きさなら、ピラミッドを作るくらいに大変だったろう」
「いえいえ、仕事みたいなものですから」
「職人技だ」と僕が言った途端、カエルは僕の指先からキシキシと爪を剥いでいく。「うわあ」と僕は叫ぶが、その仕草はあまりに滑稽でなんだか恥ずかしい気持ちになった。
カエルは手際よく十個の爪を集めて、「良い爪ですね」と遠慮がちに笑う。
「そういうことをする前に、本人の許可を取るべきだと思うんだ」
「はい? はあ、でも、あなたもうすぐ死んじゃうでしょ」
「それはそうだけど」
「死人に口なしですよ」
「それはもっとも。だけどまだ僕は死んでない」
「いや、もう死んでますよ」カエルは足の爪を剥がしながら淡々と言う。「皿に残ったパスタソースみたいに、ちっぽけな命の残骸です。出涸らしなんですよ」
「ならまだ生きてる」
「あなたはパスタソースだけが残った皿を見て、それがパスタだと言い張るんですか? それはサラダだったのかもしれないのに?」
僕はカエルに何も言い返すことが出来ずに、ただ足の爪が剥がされていく感触を感じている。どうして僕はこんなことを言われなければならないんだろう? 口から溢れるあぶくが揺ら揺らと水中を上っていった。木漏れ日が差す水面に虫や鳥が生命を分け与えられている様を想像する。
カエルは計二十個の爪を集めて、僕に礼を言った。それを何に使うのか、と問うとカエルは不思議そうに首をひねる。否、僕にはそう見えただけで、実際にカエルが首をひねったかどうかは分からない。彼の首はあまりに短すぎる。
「ガラス玉にするんです」
カエルは呟いた。「どれも同じガラス玉に見えるかもしれませんがね、よおく見ると色とか大きさとか、模様とか。ちょっとずつ違うでしょ、特に模様なんて」
カエルは僕の眼前に幾つかのガラス玉を持ってくる。
「ほら、これが爪です。模様が若干、丸っこいでしょう? あたしはこの楕円が好きなんですよ。他にも、ほら。これが眼球です。眼球は綺麗な模様を写すのが難しいんですが、うまくいったときは何よりも嬉しいな。こっちの小さいのは髪から作るんですけど……、あなたの髪はお綺麗だから、きっと美しいガラス玉になる」
「それは嬉しい」と僕は言う。そして僕の背中に広がる冷たい人間の躯たちから、ほんの少し温かみを感じるような気がした。「君は良い仕事をする」
「本当ですか? いやあ、嬉しいな」
「子供が多かったろう」
僕は言う。「この辺りは特に」
「あなただって大人とは呼べませんよ」
「十八歳はもう立派な大人さ」
「ふうん。で、どうしてなんですか? 確かに最近はそんな気がしましたけれど」
「戦争だよ」
「ああ、どうりで」
カエルは不自然な自然さを装って、髪の毛を一本一本丁寧に抜いていく。その手つきはとてもリズミカルで、なんだかくすぐったかった。「あたしとしては嬉しいですけど」
「どこかで悲しむ人間がいれば、どこかで喜ぶカエルもいる」
「生きていくからですね。どの世界でも、似たようなものなんですか」
カエルがプツリプツリと髪を抜いていく感覚に連れ添うように、なんだか頭の芯のあたりがぼうとしてくる。泡はもう消えていた。眠いのかもしれない。
「僕はもう眠るよ」
「そうですか」
カエルは何か言いかけるが、やめる。僕は昔のことを思い出したり、未来のことを思い描いたりした。きっと約束なんてするもんじゃないし、物語には順序と偶有性が必要だ。後悔を許容できるほどには、すべてが過ぎ去っている。
「まだ起きていますか?」
「起きてるよ」
「あなたは良いガラス玉になります」
僕は「それは良かった」と呟いたと思うけれど、カエルは何も言わなかった。
意識と五感が滲みだす。景色は揺ら揺らと曖昧な色へ遷移する。それはゆっくりと、木漏れ日が水底に生命の光を届けるように。宇宙の青色が、空の上辺に溶けだしていくように……。
水の泡底 米山 @yoneyama
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