アユ――水属性系男子・魚水海里の事件簿Ⅵ――

水涸 木犀

アユ[theme6:アンラッキー7]

「いつもので」

「かしこまりました」

 お馴染みのバーに腰かけ、古なじみのバーテンダー、塩見しおみに声をかける。今日は接客モードでお辞儀をした彼は厨房に一声かけると、酒の調合に取りかかった。

海里かいり、宝くじって買う?」

 トニックウォーターをグラスに注ぎながら、塩見がふと問いかけてくる。彼はほかに客がいない時、俺に色々と話しかけてくることがある。俺も客として来ている身だし、人見知りとはいえ中学時代からの付き合いである塩見が相手であれば気兼ねなく話すことができる。彼の手元を眺めながら、自分の私生活を思い返す。

「いや、ないな。買ってもどうせ当たらないだろう、あれ」

「堅実派だね。たまにいい夢を見たから買うとか、そういうのもないの?」

「ないない。宝くじで数百円使うくらいなら、ちょっと実用的なカプセルトイを買った方がいいわ」


 俺の返答のどこがおかしかったのか、塩見は笑い声をあげる。大笑いしていても相手に不快感を与えないのが彼のすごいところだ。つくづく接客向きだと思う。ちょうど酒の調合が終わったらしい彼は細いグラスを俺の前に差し出す。

「はいジントニック。……ほら今日って七日だろ? それで宝くじ売り場の前を通ったらさ、『七が付く日はラッキーセブン!』っていう表示があって。ちょっと買おうか悩んだよね。結局今日買っても当たる気がしなかったからやめたけど」

「ラッキーセブンって、パチンコ用語じゃないのか。宝くじ売り場ってそんなこじつけをするのか」

 訝しんで問いかけると、塩見は苦笑を浮かべる。

「こじつけっていうか、ゲン担ぎだよね。やっぱり運試し系のものって、日柄の良い日に買いたいだろ? 大安吉日とかさ」

「個人的には七日より八日のほうが縁起いい気がするけどな。末広がりとかいうし。パチンコやらない人間にとって、七ってそんなに縁起のいい数字でもなくないか?」

 どうしてもラッキーセブン=七が三つ揃った状態=パチンコのイメージが拭えない俺の意見に、塩見は苦笑を深くする。


「でも、七色の虹が見えたらいいことがありそうとか、野球の七回の攻撃をラッキーセブンって言ったりとかするだろう。むしろラッキーセブンって野球が由来だって聞いたことがあるぞ」

「それ、先発投手が疲れてくるから相手が打ちやすくなる的なことだろ。なおのことゲン担ぎ関係ないじゃないか。ちゃんと理屈も根拠もある」

「海里は理屈っぽいなぁ」

「悪かったな」

 変なところが気になるせいで話を盛り上げるのが苦手な自覚はあるので、俺はむくれる。でも本当に、野球が由来だとするならばなおのこと宝くじとラッキーセブンは結び付かないじゃないか。

「まぁ、ゲン担ぎをしたい人はなんでも縁起が良さそうなものにすがりたくなるってことだよ」

 塩見は穏やかな声で話をまとめにかかる。それはそうだろうと思い俺も頷き返したところで、バーの扉が開いた。短髪で清潔感のある雰囲気の若い女性が入ってくる。しかし何かあったのだろうか。表情は暗く、心なしか疲労しているというオーラが全身からにじみ出ているように感じられた。


「こちらのお席をどうぞ。メニュー表でございます」

 塩見から差し出されたメニュー表を見て、女性はうーんと唸る。

「じゃあ、カルーアミルクで」

「かしこまりました」

 塩見が身体をバーの中に引っ込めると、女性は右ひじをついて額に手を当てるポーズを取り、深いため息をついた。

「お疲れでいらっしゃいますね。こちらのお飲み物で、少しでも元気が出ますように」

「……ありがとうございます」

 穏やかな塩見の声かけに女性は小声で答えると、差し出されたグラスを口元に持っていった。

「あー甘いですね。疲れたときは甘いものに限りますね」

「甘いものを摂取するとストレス解消になる、というお話もありますからね。しかし話すことで楽になることもありますから。差し支えなければ、僕でよければお話を伺いますよ」

 カルーアミルクを飲んだことでほんの少し、女性は元気を取り戻したようだ。肘をついていた腕をおろして、視線を塩見へと向ける。


「わたし、自分の名前がコンプレックスなんです」

「そうなんですね。特に女性で自分のお名前が気になるというのは、嫌でしょうね」

 塩見は俺のほうをちらりと見やりながらそんなことをいう。俺も自分の名前――魚水海里うおみずかいり――のせいで子どものころは「みずタイプ」だとか「水属性」だとか随分といじられたものだが、今となっては慣れた。しかし横にいる女性は今でも名前で悩んでいるという。なかなか根深い問題があるのかもしれない。そんなことを考えていると、女性は深く息を吐きだした。

「わたしの名前、あゆっていうんです。あゆみとかあゆことかじゃなくて、あゆ」

「あゆさん、ですか」

 塩見は静かに相槌を打つ。俺はそんなに変な名前じゃないのになという感想を抱いた。てっきり今はやりのキラキラネームで改名したいとかそういうレベルの話かと思っていたので、予想外だ。しかしそこで「案外普通ですね」といった余計なことを言わないのが塩見のバーテンダーとしてのコミュニケーション能力の高さなんだろう。実際、あゆさんは相槌に乗せられたかのように言葉を続けた。

「それも、魚のあゆなんです。魚へんに占うっていう。ちょっと女子の名前としてはどうかと思いません?」

「そうですね……魚の鮎に美しいで鮎美さんという知人はいましたね。鮎さんは初めてお会いしました」

 塩見の受け答えはなおも無難なものだ。そこに鮎さんは力強く頷く。

「そうなんですよ。せめて鮎美っていう名前ならよかったんですよ。今日も電話口で名前を聞かれて、『あ、あゆみさんですか?』って聞き返されて、『いいえ魚の鮎です』って答えたら相手から一瞬間があったんですよ。絶対変わった名前だと思われたんですよ」

「それはちょっと、お相手が失礼な感じがしますね。自分の名前をスムーズに聞き入れてもらえないと嫌な思いをしますよね」

「はい。本当に。しかも今日そんな感じの電話が三件も来て。厄日ですよ、厄日」

 鮎さんの言葉は勢いを増す。酒を飲むペースも早く、あっという間にグラスが空になった。


「すみません、カルーアミルク、もう一杯お願いします」

「かしこまりました」

 カルーアミルクは甘いが度数はそこそこあった気がする。そんなにハイペースで飲んで大丈夫かと他人ながら心配になる。しかし塩見は表情を変えずに空いたグラスを下げて二杯目を用意した。同じタイミングで本日の日替わり丼ができあがったらしく、俺の前には白いボウル皿が置かれる。しかし塩見の意識は鮎さんとの会話のほうに向けられていた。

「本日の日替わり丼、中華丼です。……今日は七日ですからね。世間はラッキーセブン、いいことがあるかもしれない日と言っていますから。鮎さんにも少しいいことが起きるかもしれませんよ」

「そうですかねぇ。今日はわたし的にはアンラッキーセブンですよ。何もいいことなかったですもん。あ、でもこのお店でカルーアミルクを飲めたのはちょっとよかったです。美味しいです」

「それはありがとうございます」

 丁寧に頭を下げる塩見は、心なしか嬉しそうだ。確かにここまで疲れた雰囲気の女性から出てくる誉め言葉はお世辞ではないだろう。確かに塩見がつくる酒は美味い。だから俺もこうして、毎日のように夕飯を食べに通っているのだから。


「せめて鮎美にするか、あるいは鮎をもっと女の子の名前っぽい……歩くとかアジアの亜に自由の由とかにしてほしかったですよ。毎回名前の話になるたびに嫌な思いをするの、うんざりなんです。いい加減慣れろっていう話かもしれないんですけど」

 二杯目のカルーアミルクを飲みながら、鮎さんはぶつぶつと文句を言う。塩見はかすかに微笑みを浮かべながら話を聞いているが、二人の様子を見ていた俺は自然と声が出ていた。

「魚の鮎は、縁起物だ」

「そうなのか?」

 視線をこちらに向けた塩見に頷いて見せる。

「鮎さん、も言っていたが魚のアユは魚へんに占うと書くだろう。昔、神功皇后が天皇が戦で勝つかどうかを占ったときに釣れたのが鮎だって言われているんだ。だから縁起がいい魚とされている。人名に鮎ってつける場合は、周囲に幸運を呼ぶ人になってほしいとか、そんな感じの意味合いが込められているんじゃないか」

「周囲に幸運を呼ぶ人……」

 鮎さんはわずかに首を下に向け、考え込むそぶりを見せる。塩見ははっきりとした笑顔を見せた。

「つまり、鮎さん自身がラッキーセブンと同じ力を持っているということですね。存在するだけで周囲に幸運を呼ぶ存在。素敵な名前じゃないですか」

「そうなのかも、しれないです」

 顔を上げた鮎さんは、心なしか明るい表情になっていた。

「わたし、ずっと魚のアユと同じみたいで嫌だなって思ってましたけど、アユってそういう意味があるんですね。今度嫌な思いをしたら、今のお話を思い出すことにします。わたしが幸運を呼べるかなんてわからないですけど、少なくともそう思っていた方が幾分かましな気分でいられそうなので」

「そうですよ。ご両親が大切に付けた名前でしょうから。きっと前向きな意味があるに違いありません」

 塩見が力強く同意する。鮎さんは気分がすっきりしたのか、酒に満足したのか、カルーアミルクの二杯目を飲み終えると席を立った。

「なんだか、すごくすっきりしました。一日の終わりにこちらに立ち寄って良かったです。また機会があれば、寄らせてもらいます」

「ええ、是非。またのお越しをお待ちしております」

 頭を下げる塩見に深くお辞儀をして、鮎さんは店を出て行った。


「今日もお手柄だったな、海里」

「たまたまな。魚へん漢字の氏名を持つ人ってそう多くはないだろうから、本当に偶然だ。それに俺は知っていることを話しただけだ。それを聞いてどう思ったかはあの人の考え方次第だ」

「それはそうだな」

 面白そうに俺の様子を眺めていた塩見は、深く頷いた。

「縁起がいいかそうでないか、解釈するのは人間次第ってわけだな。でもどうせ生きていくなら、自分の名前も世の中も、縁起がいいものでできているって思った方が楽しいよな。そうじゃないか?」

「でも俺は、ラッキーセブンはこじつけだと思うぞ」

「こだわるなぁ。その頭の固いところも、海里らしいけどな」

 塩見の笑い声が響く中、俺は黙々と中華丼を平らげるのだった。

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