2

「ねえ、正人くん。ちょっと教えて欲しいんだけどさ」


 家庭教師センターの事務室で、同じ大学に通う古峰未沙こみねみさに声を掛けられた。つい先月まで彼女の弟を教えていたのだけれど、その当時は名前こそ知っていたが、あまり会話をした覚えがない。明るく染めた髪を丁寧に編み込んでいて、口元を押さえて笑う仕草がとても品の良いお嬢さんという雰囲気がある。おそらく僕でなくても良い印象を持つだろう。

 彼女は急に声を小さくすると右の耳元に口を近づける。


「九条冴子と別れたって、ほんと?」

「別れたというか、もともと付き合ってたとかじゃなくて……」

「そっか」


 嬉しそうに何度も繰り返すと、「春休みは何か予定あるの?」みたいな会話からぽんぽんと話が進んで、僕たちはデートをすることになった。

 九条冴子への裏切りの気持ちがなかった訳じゃない。ただ、普通の恋愛をしてみたくなった――と言ったら、言い訳だろうか。

 

 そのデートの日は明け方から降り出した雨がまた冬を呼び戻したのかと思うような空気だった。


「折角出かける約束したのに、なんか残念」


 古峰未沙の部屋は十畳ほどの空間が淡い桜色の壁紙に覆われ、ベッドの上には薔薇の柄の毛布が掛かっていた。心臓をドキドキとさせるのは何かの花の香りだろうが、それが何なのかと尋ねるのにも躊躇ちゅうちょするような空気だった。

 肩を隣り合わせて、座布団に座りながらテーブルの上に置かれたケーキを突く。

 テレビでは十五年前の事件で使われたという拳銃による強盗事件が報じられていた。最初は全くの他人事だと思っていたのだけれど、画面に表示された容疑者の名前を見て僕は固まった。


「九条……貞春」


 単なる偶然の一致だ。そんなものは山ほどある。

 だが逃走した地域が彼女のアパートの近くで、十五年前に離婚した妻か娘に会いに行くのではないか、と言い出したから流石に背中を冷や汗が流れた。

 僕は気づくと彼女、九条冴子に連絡を取ろうとスマートフォンを握っていた。

 だが思い出す。


「あ……九条さんてさ、返さないんだよ」

「メールとかLINEとかも、全然?」

「ああ」


 僕は立ち上がると、


「ごめん」


 そう謝って部屋を出た。

 大通りに出て、何とかタクシーを止めようとする。手持ちは足りるだろうか。


「あの、すみません。千円分だけ」


 五台が通り過ぎ、やっと止まってくれた一台のおじさんにそう言うと、


「いらんばい」


 何故かおじさんはそう答え、九条冴子のアパートの近くまで急いでくれた。


「あんた前に乗ってくれた人っちゃろ」


 これが善意のお返し、というやつだろうか。だとしたら、彼女からの随分と遠回りな初めてのお返しかも知れない。


「ありがとうございます!」


 彼女のマンション近くの路地脇に止めてもらい、僕は叫ぶようにそう言って走り出す。

 ニュースでは以前奪われた拳銃には弾が六発入れられており、そのうち十五年前には三発、今回は二発撃たれており、一発は残っているのではないかと報じられていた。

 階段を駆け上がり、305号室のインターフォンを何度も押す。


「九条さん? いる?」


 その呼びかけに対して彼女の返事はなかった。

 ただ代わりに男の声がする。


「お前助けを呼んだとか!」


 選択肢はなかった。

 隣の部屋のインターフォンを押して出てきたトランクス姿の男を引きずり出すと、ベランダまで走る。間の薄い板を蹴り割って隣のベランダに躍り出ると、慌てて男が閉じようとしていた窓に腕をはさみ入れた。


「九条さん!」


 部屋には転がった彼女と、手に拳銃を持った無精髭の男がいる。男はテレビに顔写真が出ていた容疑者である九条貞春だ。

 強引に窓を開けると、飛び込んだ僕の目の前に男は銃口を向けた。


「分かっとっと? これば見えんとや?」

「まだ一発、残ってるんですよね。知ってますよ」


 撃たれたら死ぬかも知れない。

 それは頭のどこかで理解していたけれど、感覚が麻痺していたのかも知れない。酷く冷静になって、僕は九条冴子に笑みを見せていた。


「九条さんさ、こんな時くらいは返事しようよ」

「やけど……返したらまた不幸になるとよ」


 また――と彼女は言った。


「あなたはそこの金庫にあるものが欲しいだけなんですよね」

「お前……冴子から聞いたとか!?」


 僕は首を横に振る。


「でも分かりますよ、それくらい。それにどうして彼女がそれをずっと大事に持っていたのかってことも。あなたに帰ってきて欲しかったんですよ。そうなんでしょ、冴子さん」


 初めて彼女の名を僕は口にした。それに涙を浮かべながら九条冴子は返事として頷きを見せると、


「うちがそれを返さんとやったら、もう悪いお父さんにならんから」


 僕が欲しかった彼女の本音を、やっと返してくれた。もうそれだけで心が満たされた気になる。


「お、おい。お前何ばしょっとか!」


 僕はゆっくりと歩いて、金庫を抱きかかえる彼女の前に向かう。

 男の銃口はずっと僕に向けられていたけれど、恐くはなかった。

 彼女の前に立つと、両腕を広げて男に向き直った。

 外ではパトカーのサイレンが大きくなり、アパートの前で止まったのが分かった。隣の男が呼んだのだろうか。それとも古峰未沙だろうか。誰でもいい。

 ドアが叩かれる。


「早くここを開けなさい!」


 男の顔色がどんどん青ざめていく。

 と、その時だった。

 僕は背後から突き飛ばされると、九条冴子が男に向かって金庫を投げつける姿が横目に映った。

 銃声が、一発。

 それを聞きつけたのか、ベランダの窓から警官が侵入してきて、男に飛びかかった。

 僕は立ち上がって彼女を見る。


「冴子さん?」


 左腕から、血が滲んでいた。それを押さえながら彼女は僕を見返すと、


「やっぱ返したら、不幸になるたい」


 そう言って彼女は涙混じりに笑った。

 見れば口を開けた金庫から小さな口紅のようなものが転がっている。でももう僕にとってそれが拳銃の弾だろうが何だろうが、どうでもよかった。

 

 その後、僕は彼女からお礼として手作りの料理をご馳走になったのだが、その話についてここに詳細に記述することは止めておこうと思う。何より彼女の料理の腕前について書くということが、罵詈雑言を並べることになりかねないからだ。そんな失礼を彼女に働く訳にはいかない。そもそも僕は九条冴子から何かを返してもらうよりも、彼女に何か与えることで幸福を感じる男なのだ。

 と思うことにしたのは、彼女のこんな言葉を聞いた次の瞬間だった。


「なあ。次の日曜、今度は肉じゃが作ろう思うけん、どやろ?」


 ――お返しはいらない。その愛情だけで充分です。

 

 と、僕は笑顔で返した。(了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

九条冴子は返さない 凪司工房 @nagi_nt

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ