九条冴子は返さない
凪司工房
1
小さい頃、他人から借りたものは返すのが道理だと教えてくれたのが保育園の先生だったのか近所のおじさんだったのか、未だに思い出せないのだけれども、そんな話題を振ったら
「ほな何も貰えん第三者が可哀想にならんと?」
桜が咲きそう、という情報を十四インチの薄型テレビでやっていたニュースで見つけて西公園に彼女を誘ったのだけれど、
膝下までの彼女のスカートの裾が風で揺られるものの、そのすっと伸びた
「正人さ」
市村君から正人という呼び捨てに変化したのは今年に入ってからだが、そのきっかけが何なのか未だに分からない。
「なしてバレンタイン、うちにチョコをくれたと?」
「九条さんがくれないから」
というのは本音でもあるが実はもっと別のところに僕の考えはある。
「今日、何の日か知っとお?」
「さあ。何だったろうね」
普段“非常識がスカートを履いている”と呼ばれている彼女でも、流石にホワイトディが何の日かの知識はあるはずだ。それを知っての質問だろうが、僕はわざとはぐらかす。何としても今日こそは九条冴子から何かを“返して”もらいたい。
「知らんとや? 男子が女子にプレゼントする日たい」
「いやそれチョコ貰っている前提だから。そもそもプレゼントじゃなくてお返しね。分かっとるの、九条さん?」
しらんばーい――と嘯きながら、九条冴子は僕が上げたサンドイッチを一つも残さず食べ切ってしまった。
稀代の変人と噂されていた九条冴子については知っていたけれど、一年生の最初の七月になるまで言葉を交わすことはなかった。その日は偶然、学食で相席になったのだ。
化粧もせず、ノースリーブから細い肩を露出しながらおにぎりを食べていた彼女に、噂を確かめるつもりで僕は自分のプレートに載っていた卵焼きを差し出してみた。
「食べる?」
「よか?」
「うん。ちょっと今日は食欲ない方だから」
「ありがと」
そう言って口を開いた彼女に僕はどぎまぎしつつも箸で摘んだそれを差し出すと、手で掴むこともなく彼女はそのままかぶり付いてしまった。
「これで、今日の可哀想な猫一匹が助かったい」
その理由は三時間後に判明した。連れて行かれた公園で、彼女は捨てられた猫にミルクを買って与えてやったからだ。
「これ、あんたの行為がこの子の今日を救ったったい」
彼女はその日から僕が何か上げる度に、僕以外の誰かや何か、それこそ信号を渡れず困っていたおばあさんを助けてあげたり、駅前で物乞いをしている老人に缶ジュースを買ってあげたり、人待ちをしているタクシーに乗ってあげたりした。試食コーナーに行っては買ってあげ、そのウインナーは子供食堂の寄付に化けた。
どうしてそんなことをするのか、と思い切って尋ねたら、
「知らんとや? 小さい頃に見た映画でそげな作品があったんよ。受けた善行を別の三人に渡すと世界がようなるったいね」
それは僕もレンタルビデオで借りて見たことがあった。ただその作品のラストが何とも可哀想なので、無理やり作った感動話のようにしか思えなかったことを覚えている。
九条冴子のアパートは僕が住むぼろい木造二階建ての一室から自転車で十五分くらいの距離にある。それなのに付き合い始めて九ヶ月を経て、ようやく初めて足を踏み入れることができた。彼女に招待してくれた理由を尋ねると、
「お下がりのパソコン貰ったと」
つまり無線やらの設定ができないという、実に生活に根ざした事情からだった。
女子が暮らしているにしてはシンプルで、物が少ない。フローリングの六畳間にはカーペットすらなく、折りたたまれたマットレスと、食事兼用の小さな机、本は部屋の隅に積んで置かれていて、後はクローゼットの中に衣装ケースやらと一緒に入れられていた。といっても、服以外に特に何もないと彼女は言っていた。
「ほら、うちにくれる人って正人だけやろ? だけん、うちは何も持っとらんの」
「いや、僕が上げなくても自分の為に買えばいいじゃない?」
「そんなことしたってうちは全然幸福を感じられんとよ。正人から貰い、誰かに上げる。それがうちの幸福たい」
「じゃあ僕は誰から貰えばいいのさ」
その問いかけに九条冴子は笑みを浮かべて、
「いつかどこかの誰かが幸福を分けてくれるったい」
と言ったが、そんな奇特な人間が果たしてこの地上七十億の人間の中に存在しているのだろうかと、一晩掛けて彼女に問い詰めたい気分になった。
「ところでさ」
それはどう見ても女子の部屋には似つかわしくない赤茶げた金庫のように見える物体だった。
「金庫がどうかしたと?」
どうやら本物の金庫だったらしい。
「うちの父親の形見たい」
「え? ごめん。お父さん亡くなってたんだ……」
そういえば彼女の家庭の事情とか、何一つ知らないことに思い至る。そもそも彼女は自分の話をあまりしない。この奇妙な思想は何もあの映画だけの影響とは思えないから、おそらく複雑な事情があるのだろうと思ったのだが、
「これも絶対に返さないの?」
そう言いつつ触ろうとしたら思い切り彼女に手を打たれた。
「……ごめん。そんな大事にしてるものだと思わなくて」
――だって積まれた本の後ろに置き去りにされていたから。
それは初めて見る彼女の悲しそうな目だった。
その日を境に、少しずつ九条冴子の付き合いが悪くなったような気がする。
それともただ単に、僕の無意識が彼女を遠ざけてしまっていたのだろうか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます