ペルソナを被って、

言の葉綾

ペルソナを被って、

 朝の始まりを言祝ぐ目覚ましのアラームが、僕は嫌いだ。今日も僕たちは『嘘』の世界へ強制召喚され、仮面を与えられて、手錠を掛けられる。牢獄の始まりだ。拷問の始まりだ。朝なんて、永遠に来なければいい。朝がやってきてしまったら、僕たちは『学校』へ行かなければならないから。だから、朝なんて、永遠に来なければいいんだ。

 だからと言って、仮病を使うと母親の逆鱗に触れるので、僕は重々しい、全科目の教材を詰め込んだリュックを背負い、自転車を漕ぐ。僕の体重とリュックの重さによって、自転車の破壊の兆候が見えたような気がしなくもない。長い距離を自転車で漕ぎ、憂鬱で仕方ない学校へ到着。

 十五歳の僕が、『自分に打ち勝ちたい』と願いと祈りを込めて、受験し合格した学校だ。しかし、そんな希望に満ちた想いもつかの間。入学してしっかり日も経たないうちに、中学校の時と全く同じ日々が始まった。

 だから、僕は、学校が大嫌いだ。

 二年三組十三番の下駄箱を開け、サンダルに履き替える。階段を重い足取りで、なるべく教室にいる時間を短縮するためにゆっくり上る。だが、教室に入らなければならない時は必ず来る。二年三組の教室の扉に手をかけ、クラス中を見渡した後、僕は『ペルソナ』を取り出す。そして誰にも見えない、透明なペルソナを装着し、僕はクラスメイトに「おはよう」と言う。

 おはよう、嘘つきの皆。

 クラスメイト、二年三組は女子の比率が高いのでほぼ女子であるが、僕は近くの席の人の会話に少々顔を出す。皆、本音で喋っていない。ペルソナを被っているのが、丸見えだ。きっと、他の人には見えないことだろう。皆、無意識にペルソナを被り、無意識に本音を噛み砕いているから。この恒例行事もいいところだ。中学生の時からずっと続く、『嘘つきの会話』という監獄への収容は。

 噛み砕いてしまった本音の残骸は、いったいどこへ消えていくのだろう。いったい誰が拾うのだろう。中学生の時から、僕はそう自問自答し続けた。だが答えは見つからないままだ。決して誰にも届くことのない、決して誰にも伝わることのない本音。胃の中で消化されていくのだろうか。高エネルギーリン酸結合が切れて、ATPがアデノシン二リン酸とリン酸に分解される時に、エネルギーと共に放出されていくのだろうか。そのような本音など、アミラーゼも歓迎しないだろう。押し潰して、押し殺して。誰も本音を、真実を発さずに、虚言の世界で踊りまわる。その様は酷く醜悪であり、見るに堪えない光景である。そのような光景が、僕が願いと祈りを込めて入学したこの場所には溢れている。僕が願っていた世界ではなくて。僕もその汚さに、埋もれてしまった。

 今日も虚言に塗れた、周りに流される僕たちの、一日が始まる。


 明確には覚えていない。自分の意志が引きこもるようになったのが、いつからであるのか。もしかしたら、十二歳弱の頃にはわかっていたかもしれない。自分の意見を言ったって、微妙な空気が走るだけ。自分の想いを伝えたって、後悔の念が渦巻くだけ。それは他の皆も同じなのかもしれなくて、皆、その場に合うような言葉を選ぶ。同じような経験を、皆積んでいるのかもしれない。だから皆、ペルソナを被る。

 僕自身だって、引きこもっていたい。ペルソナを被る必要のない家の中に。家に引きこもっていれば、あの息苦しい場所へ飛び込むことだってない。

 学校なんて、大嫌いだ。

 こう、一人の場所では、呟いたっていいだろう。誰も、聞きやしないでしょ。ここでは本音を、言わせてよ。

 そう一人、ベッドの中に蹲り、全く光が当たらない中で、そうぼやく。これが僕の日課。


 学校の廊下は、生徒たちのたまり場。通称、真実が見えない世界の象徴。誰もがペルソナを被り、誰もが本音を飲み込んだり、投げ捨てたりしている。真実は、大切だと、世界の暗黙の了解が提唱している。でも、それは本当なのだろうか。本当に大切なら、飲み込んだり、投げ捨てたりするだろうか? 心の内で大切にして、その真実にのっとって・・・自分に正直になって、生きていくものではないだろうか? まあ、僕自身もそんなことを言える立場ではない。僕だって、自分に嘘をついているから。

 嘘の仮面を被る勇士たちが、虚言の戦争を繰り広げる。虚言癖の嘘の掛け合い程、不愉快なものはないだろう。自分に嘘をつき続ける僕たちは、きっと誰しもが、本当のことを話せやしない。本当のことを発する唇が干乾びて、言葉に信憑性と信頼性を伴って空気中に紡がせることが出来ないからだ。あの日、願いと祈りを込めたはずの僕も、同じだ。自分に嘘をつく虚言癖の集い場が、学校と言うものなのであろう。十五歳の時の僕の想いとは真逆。そんな場所に、価値なんてあるとは思えない。

 It is worth it for us to go to school. この「worth」という単語が出てくる構文で、こういうものがあった。この構文に、イディオムに、意味はなさない。私たちが学校に行くことに価値がある。虚言癖の集い場なのに? 行ってしまえば、自分の胸の内が摩耗していくだけ。

英語表現は破綻してしまった。

 複素数の二次方程式の解を求めてください。虚数iと、ルートを含む数が、解答として現れた。つまり、答えは虚数解。判別式の符号は、小なりゼロ。虚数解が正解となった、虚数解が正義なのだ。実数解が破綻してしまった。

 紫式部作、源氏物語、光源氏誕生。現代語に翻訳するためには、助動詞、助詞を確実な意味として拾っていかなければならない。一字一句、品詞分解して、纏まりとして捉えていく・・・・ああ、何だよ。源氏物語は虚構の世界、所詮嘘っぱちじゃないか。そう感じてしまった瞬間、物語はあさましくなる。助動詞はカオス状態になりバグを起こし、過去の意が詠嘆の意になり、過去推量の意が伝聞・婉曲の意になり。助詞は意味を取り違え、主格の意が比喩の意になり、疑問の意が反語の意になり。古典文学は破綻してしまった。

 授業の内容も、虚言に塗れている。虚言癖に嘘を叩きこんでしまったら、ますますとんでもないことが起こってしまうだろう? もはや僕の聴覚は虚言を聞き慣れ過ぎて、重症なのかもしれない。真実を聞き取る能力が著しく低下している。真実をセパレートできなくなっているのだろう。Am I at the end of my liar now? 僕はもはや、虚言癖の末期なのであろうか?

 授業ではグループ学習がある。関係性の薄いメンバー、授業の一環で仕組まれた縁によるメンバーで、グループ学習。しかし、薄っぺらの関係性の所為で、誰も言葉は発さない。この空間を打破しようとした人間が、主導権を握る。その瞬間から、同調と言う名の虚言の嵐だ。言い出しっぺの人間の流れに任せよう。自分のペルソナが、メンバーのペルソナが、そう言っているのを、やたらと虚言の吸収性が強い聴覚が聞き取る。自分の意見を言ってしまったら、話は滞り、円滑ではなくなる。そして、相手にどう思われるか、という恐怖心が募り、面倒くさいという念が勝ってしまう。だから僕たちはペルソナを身に着けるのだ。うん、いいね、Oh, I see. これはただの同調なのか、それはただの虚言なのか。本当は自分の意志が、自分の考えていることが、胸の内に存在しているはずなのに、そうやってペルソナを被る。授業内容も、皆の声も、所詮虚言だ、と思うようになってしまった僕は、酷く醜い。

 学校なんて、大嫌いだ。


 皆は誰に、嘘をつく。友人に、そして自分に。皆はいつ、嘘をつく。友人と会話をしている時、クラスメイトと会話している時。皆はどこで、嘘をつく。学校で、社会で。

 Whoever, whenever, wherever. 英語表現で先生が呪文の如く喋っていた複合関係代名詞は、この日本と言う国で生きている僕らに需要があるものだろうかと疑念を抱いていたが、活躍の場はあったようだ。

 真実が見えない世界の象徴である廊下を、僕はただ一人、歩いている。僕の通う高校は、一学年七クラスの言の葉高校。数多のクラスの名前も顔も知らない生徒たちが、嘘をつき続けている姿を目の当たりにする。ペルソナを被り、その下で、本当の想いを隠している姿を。

 ああ。嘘をつくのが、僕らの特技か。そう、思い知らされる。もっともっと、真実を大切に、自分の意志を大切にできる人間に、僕はなりたかったさ。瞼に温かみを感じる。ペルソナ越しの視界を、濡らしていく。嗚咽が込み上げようとしている。声を上げてしまわないように、僕は必死に堪える。そして、ある事実が僕に見えた。

 他の皆も、ペルソナの下で、涙を流している。見られるまい、知られるまいと、口を噤んでいる。皆、同じなのだ。自分に嘘をつき続け、どうやったら、自分の意志を伝えることできるのだろうか、と足掻いているのは。

 学校なんて、大嫌いだ。

 そして、自分に嘘をつき続ける、自分も大嫌いだ。


 玄関で「ただいま」と言い、自分の部屋に戻った瞬間に、僕はガス切れする。ペルソナは剥がれ、僕にかかる圧力は激減する。その度、僕は思う。毎日、いつでもどこでも、この僕にかかる圧力を封鎖することができたらいいのに。自分に嘘をつかなければ、こういう思いをしなくて済むというのに。虚言ではない、真実で友人たちと、クラスメイトたちと関わることが出来たらいいのだ。いたって単純な話なのだ。自分に嘘をつかなければいい、ペルソナを被らなければいい。なぜこのような安易なことが、僕たちにはできない。

 十五歳の僕は、願いと祈りを込めた。『自分に打ち勝ちたい』と。でも、同時にもう一つ。『自分に嘘をつきたくない』と。十五歳の僕の直感がこの言の葉高校がいい、と言ったのは、間違っていないだろう。そこは、自分に正直になったはずだろう。自分が正直に選んだこの学校を、嫌いになっている、憎んでいる。中学生の頃と全く一緒じゃないか、ペルソナを被って、自分に嘘をつき続けて、生きている。そうでなければ、この学校を嫌いになることはないのであろう。

 僕は夢見ていた。希望と真実に溢れた高校生活は、現実という悍ましい力によって、捩じ伏せられてしまった。実際は、とてもどす黒い。汚い色をしているのだ。僕は悔しい。青春が、汚れていくようで。僕は悔しい。青春が、霞んでいくようで。全部、自分が弱い所為だ。自分が正直になれたことに、憎しみと嫌悪を感じてしまった自分の所為だ。ただ周囲に流されているだけで、自分の意志で動けない。

 この弱い自分に打ち勝てる、強さが欲しい。

『ペルソナを剥がせ。今が、その時だ』

 そう、何かが叫ぶのが聞こえた。声の主は、僕の心の奥底だ。

『中学生の時、悟ってしまった事実など・・・』

「僕の手で壊してしまえ」

 僕の口からも、言葉が出ていた。

 この瞬間に、全てが変わる。


 朝、学校に到着し、教室に入れば、皆はペルソナを被る。危うく、僕もペルソナを取り出しそうになってしまった。だが、僕はこの手で、自分のペルソナを握り潰した。今日からペルソナは被らない、ペルソナは捨てる、そう決めたんだ。

 誰かが変わらないと、この場所は、何も変わらないから。

「おはよう」

 偽りのない声で、言えているだろうか。毅然としているだろうか。客観視できないのでわからないが、いつもより声が、澄み渡っているような気がしたのは、気の所為か?

 今日もある、グループ学習。グループメンバーは案の定、関係性が薄っぺらだから、誰も何も発さない。その空気に耐えかねたのか、一人が口を開いた。他のメンバーは同調、いわゆる虚言を発し始める。僕も最初は同調していた。でも、そこでもう一つの意見を誰かが発さないと、この現状は、変えられない。

 僕が、意見を発せばいい。恐れるな。どう思われるかなんて。意見の上乗せは、悪いことではないはずだろう? そうしなければ、会議も、ディベートも、進まないだろうよ? 

「え、それいいじゃん?」

「いいと思う!」

 意外な結果が得られた。話はとんとん拍子で進む。驚くべきこと、at my surprised.

 そしてもう一つ。このグループのメンバーの皆のペルソナは剥がれた。

 クラスメイトとの会話。他の皆は、自分に嘘をついているので、虚言を吐いている。ちょっと、今は違うことをしたい。やらなければならないことがあるのだけれどな。

「ごめん、ちょっとトイレ行ってきてもいい?」

 クラスメイトたちは、目を見開く。今まで、会話の途中でこう発した人物はいなかっただろうから。自分のやるべきこと、やりたいことがあるなら、その感情に従ってみよう。トイレに行きたきゃ、「行きたい」と言えばいい。一人になりたきゃ、少し席を外せばいい。

「わかった!」

 私もやることあって、やばい予習してなかった・・・・クラスメイトたちは、次々に「本音」を話し始める。「真実」を話し始める。自分の嘘から、解き放たれている。彼ら彼女らのペルソナが剥がれていく瞬間が、次々に瞳に映る。

 人間は案外、これくらいのことで離れていくような、ちっぽけな存在ではないのかもしれない。

 廊下に出てみろよ。虚言塗れの亜空間で、不快指数が上がりそうだ。ああ、ペルソナを被っている。猫被りも、ペルソナ被りも、いずれは厄介になるから。本音隠しほど、つまらないものはないだろう? 

 厄介な災いとなる前に、剥がせばいいだろう。違うか?

ペルソナを剥がして走ってゆく廊下は、こんなにも気持ちが良くて、爽快なものなのだろうか。炭酸がシュワっと溶けていくような感覚。未だ僕が、感じたことのない感覚。この美しい姿で、ずっと前から、この場所に通いたかった。でも、ペルソナを被っていたことで、より美しく見えるのかもしれない。

「ペルソナを剥がせ!!」

嘘なんて、どのような形であれ、よほどのことがない限り、姿を消していればいい。大人になってしまったら、穢れていって、社会の汚さに浸っていくのかもしれないが。ティーンエージャーのこの一瞬くらい、真実に溢れた世界で生きさせてくれよ! 

 ペルソナ被りは、つまらないだけ。どんどんこの場所を、嫌いになっていくだけ。ここに行きたい、と十五歳の僕の直感が言ったのだ。そのような場所で、嘘をついて生きるなんて、時間の無駄も甚だしいね。

 どうですか、僕。ペルソナを捨てた感情は。そうですね。

 毎日が、美しくなる気がします。

 さあ、僕はここで叫ぶ。

「自分に打ち勝て」

 嘘をつき続ける、自分に勝つために。

「ペルソナを破り捨てよう」

 そして、僕は深呼吸をする。ペルソナを破り捨て、自分の青春を開拓した僕に向かって。

「学校なんて、自分なんて、大っ嫌いだ!!!!」


 それが、僕の最後の嘘だった。



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ペルソナを被って、 言の葉綾 @Kotonoha_Aya

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