七つ前は神のうち
平本りこ
七つ前は神のうち
七つ前は神のうち。幼子は、いつ神の
この地は貧しく、七歳まで生きる子供は稀である。夏は日照り、冬は吹雪き。さりとて春秋が過ごしやすいとも言えぬのだ。
ある年蛍が消えてより、水は腐り、生命は枯れ果てた。
因果が逆だと思うだろうか。水が汚れたがゆえ、蛍が死に絶えたのだと。
けれどもこの地ではそうなのだ。
今や廃れ、人が暮らすには到底不向きな僻地。かつてここは、豊かな水田の実りと清らかな小川のせせらぎ、そして、水面を彩る蛍達の賑わう村落であった。
その村では七年に一度、最後の蛍が落ちる晩、ホタル様と呼ばれる赤子が生まれ落ちる。その子の瞳は、蛍がごとく淡い色を放つ。萌ゆる若草のような、たわわに実る稲穂のような、緑とも金色とも見える、異形の眼光。
村民はホタル様を神の子と崇め、生後間もなく親元から引き離し、
稀に訪れる凶作に村が飢えたとて、ホタル様の食卓は満たされている。元より蛍は水しか飲まぬ。それゆえホタル様も、もっぱら果汁や粥といった、流動食を口にした。その代わり口にお含みになる水は上流の清水である。
ホタル様が社にある限り、どんな天災にも村が滅ぶことはない。ホタル様は村の守り神である。神は人と交わらぬ。
七つ前は神のうち。しからば七つ後は人の子だ。守り神は人にあらず。人と成ってもならぬもの。
ホタル様は数え七つを迎える前年に、蛍になって神の御許へと帰られる。
蛍が放つ黄緑色の
綿々と受け継がれし村の伝統。悪習と言う向きもあるやもしれぬ。されども村落は、ホタル様の神性の下、繁栄を謳歌していたのである。
そんな神の子たるホタル様、元をたどれば母の
当代のホタル様は、
ホタル様の母親は、かつて我が子であった女童をしきりに気にかけた。こうも世話を焼かれれば、幼いホタル様とて察したことだろう。あの女が、己を産み落とした人であると。
本来ならば、女を諫める者があるべきだった。古くから、ホタル様を人に近づけてはならぬ、特に情を与えてはならぬのだと、きつく言い伝えられてきた。されども女は寡婦である。それも、ホタル様を産み落としてから、子を成せなくなったがゆえ夫に捨てられた、哀れな女であった。それゆえか、誰も彼もが女に同情し、ホタル様とのささやかな交流を見て見ぬ振りをした。
そうして訪れる旧暦七の月。ホタル様はとうとう言ったのだ。
「いやです。死にとうないです、母さま」
無論それは許されぬこと。女は泣く泣く社の戸を閉めて、我が子の泣き声に蓋をした。
女は扉に縋りつき、微かに漏れ出る号泣に胸打たれながら、
ホタル様に情を与えてはならぬ。古くから伝えられてきた禁忌である。されども戸の奥で孤独と恐怖に打ち震える女童はもはや、情を得た
人の子であった。
夜が更け、鳥獣の声が静寂を揺らす狭間。やがて、社の奥から年齢と釣り合わぬほど、落ち着きを取り戻した声がした。
「母さま、母さま。ごめんなさい。もう我が儘は言いません。だからどうか、一つ願いを聞いてくださいませ。妾は蛍が見たいのです。ほんの少しで良いのです。どうか薄く、窓を開けてくださいませ」
それとて本来禁忌である。ホタル様は七つになる前に、蛍舞う村外れの社の中で、外界から遮断されたまま、永遠の神にならねばならぬ。
されども女は母である。健気で哀れな我が子の最後の願い、聞き流すことなどできやせぬ。
女は、座したホタル様の視線の先辺りと思われる横板を外し、我が子の願いを叶えてやった。
「母さま、ありがとうございます。これで妾はお役目を果たせます」
後ろ髪を引かれつつ、女は我が子の最後の姿を目玉に焼き付けんと、外れた羽目板の隙間から室内を覗き込む。
暗黒。一切の明かりもない闇の奥。女童の顔に埋め込まれた一対の蛍が黄緑色の光を湛え、女を凝視していた。
それから時が過ぎ、稲穂は黄金色に輝き重たい首をもたげ、村落は収穫の季節に沸き立った。ホタル様がお役目をご立派に果たされて、村に豊穣をもたらしてくださったのである。
冬の訪れは遅い。今年の積雪は例年よりも少なく、あれもこれもホタル様のおかげであった。
やがて時が過ぎ、年の瀬、百八の鐘が鳴り止んだ後。慣習どおり村人達は、ホタル様をお迎えに行く。村外れの小ぶりな社。固く閉じた錠を解き、戸を軽く引く。
ふわり、と室内から溢れ出た風が、妙に生ぬるく湿っている。季節は冬。にもかかわらず熱を感じるなど、いったい何事か。
社の中は、晩夏の匂いがした。湿った草木の香りとでも言うべきか。水田の側、清き水のさざなみをちらちらと照らしながら恋を歌う蛍達。その幻が見えた気がした。……否。それは、幻ではないのである。ただし、
誰かが、上擦った悲鳴を上げる。
蛍がいた。黒々と、人の形に寄り添って。
その造形はまさに幼子である。ホタル様が座していた場所に、ホタル様の形をした黒の群れが、ぴくりとも動かず貼り付いている。
勇敢な
どうやら、女が外した羽目板の隙間から忍び込んだ蛍がホタル様の身体中に
ホタル様の体表には、漆が塗られている。蛍は水のみを口にする。ゆえに体内に、その粘質な液体を取り込んだのだろう。
女童と黒々とした昆虫が一つとなっている。とうに癒着し、引き剥がすことすらできぬ。ゆえに、ホタル様のお顔を拝見することはもうできぬ。この世のものとは到底思えぬ、恐ろしい光景であった。腰を抜かす者もいる。
けれどもこれとて、ホタル様の導きである。
村人は束の間の戸惑いの後、奇怪な事件など早々に意識の端に追いやって、甘酒片手に新年を寿ぐのである。
やがて時は経ち、次なる周期のホタル様が生まれ落ちる晩夏である。時は満ちたはず。妙なことに、いくら待てども色放つ瞳の赤子は生まれない。そればかりか、蛍の数が激減している。前年の産卵数が少なかったのであろう。それは、なにゆえか。
聡い村人の中には、虫まみれになって命を終えたホタル様の怨念だと言う者がある。さらには、ホタル様が両眼の光で雄に先んじて雌蛍を誘惑したのであるから、産卵した蛍が極めて少なかったのだろうと述べる者もある。
真相はわからぬが、一つ確かであるのは、あれ以降ホタル様が生まれぬということである。そればかりか、あの年より後、水は濁り毒素が流れ、人も家畜も病み、蛍は消え去った。
次の年も、その次の年も、さらに翌年も、ホタル様は降臨されぬ。奇怪なことである。これまでは、ホタル様が神のまま永遠となると、翌年に必ず新たなホタル様が誕生してきたのである。
待てども待てどもホタル様は降臨されぬ。なにゆえか。村人らは、脳裏を
やがて、神の恵みを失い村落は廃れた。水は腐り、生命は枯れ果てた。人の住まうことの出来ぬまで荒廃し、この地は打ち捨てられた。
七つ前は神のうち。しからば七つ後は人の子だ。もしホタル様が人の子になり得たならば。己を幽閉し死の運命を強要した村人らに、どんな言葉をかけるであろう。命を
水に毒が流れ、村に滅亡が訪れたのであるから、答えは明らかなようでいて、されどもその真相は、ホタル様しか知らぬこと。神とて人の心を得れば、七つを待たずに人となる。人の心は複雑怪奇。当の本人にしか、わからぬことよ。
しかしてこの地では、七は不幸の数字となったのである。
終
七つ前は神のうち 平本りこ @hiraruko
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