アンラッキーセブンスター

いぬきつねこ

アンラッキーセブンスター

「なんだっけ、ラッキーセブンだっけ?」

「ラッキーストライク」

「それだそれだ。ラッキーストライク」

 私はもう一度ラッキーストライクと呟いて、玄関のドアを開けた。

「一緒に行こうか?」

「いいよ。途中でマツキヨ寄りたいから」

「気をつけて」

 頷いて、私は外へと踏み出した。

 空はどこか霞んでいて、それは花粉のせいだったかもしれないし、春特有の霞のせいかもしれなかった。分厚いタイツの裏に汗が滲むのを感じる。

 春だ。春が来ている。

 私は川沿いの道を歩く。町の片隅を南北に流れる川は、やがて海へと辿り着く。ここはちょうど海へと繋がる境目のようなところで、川を覗き込むと鮮やかな錦鯉が悠々と動いていた。

「お前たち、戻ってきたのね」

 私は、その鮮やかだけど模様がちょっといびつだったり、色がちょっと垢抜けない印象のある鯉たちに話しかけた。川の水温が下がる真冬には、ここにいる鯉はもっと海の方に下っていく。そして春になるとこの川を遡って戻ってくる。

 昔、もっと上流の方に鯉の養殖場があり、そこで産まれてしまった形が悪いのとか色が悪いのが川に流されたんだとか。こいつらはその生き残りか、もしくは子孫なのだ。鯉はなんでも食べるから生態系を乱すと言われていて、一時駆除の話も持ち上がったが、じゃあ誰が費用を出すのだということで揉めて立ち消えになった、らしい。昔あったという鯉の養殖場はすでにない。

「お前たちだって好きで産まれたんじゃないよね」

 ついでに、好きで死ぬわけでもない。勝手だ。みんな勝手だ。

 私は川を横目に歩いた。

 川縁かわべりに植えられた彼岸桜ひがんざくらがすっかり満開なのを無視した。それでも、私の視界に、濃いピンクの花びらは強引に入り込む。

「ラッキー、ラッキーセブンストライク……」

 私はどうしてもタバコの名前が覚えられない。

 私が知っているのと言えば、昔好きだった漫画の主人公が好んでいたセブンスター(セッタという略称まで覚えている)だけで、どうしてもこいつが邪魔をする。

 敦史あつしは、いつもその話を聞きたがった。

 中学生だった頃の私は、その漫画の主人公に憧れていて、正直恋までしていて、携帯サイトの夢小説に自分の名前を打ち込んでは悶えていた黒歴史を持つ。コンビニの棚に並んだセッタを見ては彼を思って胸をときめかせていた。

 敦史は、その話を聞いてはゲラゲラ笑い、笑いすぎて涙を浮かべた目元を人差し指で拭っては、訊くのだった。

「俺はその人に似てる?」

 その度に私は「全然」と首を振る。 

 かつて私が恋した二次元の男は、飄々として、でも危険な香りのするかっこいい男だった。それに眼鏡だ。

 全然似てない。敦史は穏やかで、食べ物に例えれば「すあま」って感じだ。柔らかくて、歯応えはなくて、でもじっくり味わうとやさしくて美味しい。眼鏡もかけてない。両目とも2.0。ゲームが好きなくせに。

 無害を絵に描いたような敦史がなぜ喫煙者なのか、私はさっぱり理解できなかったが、敦史が私の黒歴史もとい、二次元への淡い恋を理解できないみたいなものだったのだろう。相手のことを全部理解しなくていいという関係は、私たちにとって心地がよかった。

 川沿いの道は、幹線道路にぶつかって終わり、目の前にはもう眩しすぎるくらい黄色のマツキヨの看板が見えている。マツキヨ。わかりやすくていい。こいつはいつも黄色だ。季節の移り変わりを感じなくていい。

 私は花粉症対策用品が並んだ入口を通り越し、いつでもビカビカに明るい店内を歩いて、生理用ナプキンを買った。こいつも嫌いだ。また一月経ったのかと否が応でも私に自覚をさせるから。

 いつも買っているやつをカゴに放り込んで、お菓子のコーナーを眺める。

 苺、桜、イースター。ピンクのパッケージはすでに春爛漫という感じで、私は口の中で小さく「くそ」と言った。なんで日本でイースターやるんだよ。仏生会ぶっしょうえをやれ。ダッフルコートを着たあたしを少し怪訝な目で見て、薄いベージュ色のトレンチコートを肩にかけた女の人がすれ違っていく。その人は「桜爛漫限定チョコ」とかいうカカオの誇りを捨て去ったチョコレートをカゴに入れた。なんだ。カカオの誇りって。私は首筋を拭った。汗ばんでいる。当たり前だ。なんせ、もう3月なのだ。暑さ寒さも彼岸まで。春がきている。


 レジで会計を済ませ、黒いビニール袋を下げてあたしは煙草屋を目指す。

「ラッキースターセブン……」

 あたしはまた呟いた。

 煙草家は太い道路にへばりつくみたいに伸びた路地のさらに目立たないところにある。小さな窓の前に置かれた招き猫は日に焼けて三毛猫から白猫へと変わっている。看板の「たばこ」の文字も錆が浮いて「だばご」みたいになっている。こういうのを小汚いというのではなく、「趣がある」と形容するのも敦史のいいところで、そう言えば私にあの川にいる鯉たちが春になると戻ってくることを伝えたのも敦史だった。

「煙草くださーい」

 私が呼びかけると、招き猫が動いて、小さなガラス窓が開いた。

 招き猫は大きすぎて窓のレールに片足が乗っている。明らかに邪魔なのにどかさないのは、この子がお店にお客さんを運んでくれたからなのだと、今顔を覗かせた顔中皺だらけで、どこかヨーダに似ている目の大きなお爺さんが言っていた。

「はいよ」

「ラッキースター?セブン?を」

 疑問符を挟みまくった私の注文に、お爺さんはニコニコ顔の皺を深くして、店の奥から商品を取り出した。

「はいよ。ラッキーストライクメンソール」

「一箱でいいんです」

 ワンカートン差し出されて、——私は前にドラッグストアで訳もわからずワンカートン買わされたことがある。その時に覚えた単語だ。敦史はその時もゲラゲラ笑っていた——私は首を振った。

「いいよ。持ってきな。おねえさん、ここなあ、3月末で閉めるんだよ」

 お爺さんは皺の奥の目を光らせて言った。

 岩から染み出す水みたいに、涙が光っていた。

「え」

「それにな。その煙草、もう終わりなんだ。在庫限りで廃盤。さみしいねえ。おにいさんにも伝えておいてくれよ」

 涙を隠すためなのか、お爺さんは早口だった。

 私は、「ありがとうございます」と、困惑の「え」を交互に繰り出すことしかできず、ラッキーストライクを受け取った。

「おねえさんも体に気をつけて。おにいさんにも伝えておいてくれや」

「ありがとうございます。あの。あの。どうか、お元気で。お爺さんも体には気をつけてください。最近あったかいですけど、寒い時は暖房、つけてください」

 私は、閉まりかけた窓に向かって一息に言った。

「ヒートショック、怖いですから。その本当に今までありがとうございました」

 ペコペコ頭を下げる私を、ヨーダみたいなお爺さんは、一層ヨーダっぽく笑った。


 変わる。春だから。全部変わってしまう。

 私はマツキヨの袋にラッキーストライクを突っ込んでトボトボ歩いた。

 ちくしょう。もうダッフルコートが厚すぎる。裏起毛1300デニールのタイツは最悪だ。春だから、こんなものもう着ていてはいけない。

 また川沿いの道に出る。マツキヨの黄色い看板が遠ざかる。いつも同じ顔しやがって、でも中身は変わっていくマツキヨめ。私は全ての春に恨みをこめて立ち止まった。

 来るな。春なんてくるな。止まっていろ。何が桜だ。苺だ。冬を繰り返してよ。

 なんで煙草が廃盤になるんだ。喫煙者が少ないからか。アイコスなんてものが出たせいか。くそ。ちくしょう。何が喫煙は健康に影響を与えます、だ。人は死ぬ。煙草を吸ってても吸ってなくても、死ぬんだ。突然に死ぬ。ちくしょう。

 私はついに暑苦しさに耐えられなくなり、ダッフルコートを脱いだ。片手に持ったそれを、視界に入った彼岸桜の花目掛けて振り下ろした。

 ピンクの花びらが散る。飛び散って、池に落ちる。餌だと勘違いした鯉が群がってくる。お前たちもずっと海の方にいなさいよ。

 八つ当たりだった。桜もいい迷惑だし、人に見られたら通報されるにちがいない。

 私は泣きながら桜を殴り、その枝から全ての花びらが落ちたのを確認して、ひどく虚しくなった。焦茶色のダッフルコートに付着した花びらを一つずつ指で摘んで地面に落とした。

 髪の毛についたものも丁寧に落とす。

 こんな春の権化を連れて帰るわけにはいかなかった。


 敦史が死んでしまったのは、11月の終わりだった。

 私たちは付き合いだして3年の記念日に同棲を始め、それはとても心地よく続いた。

 お互いがお互いを放牧するような、口の悪い人なら「ままごと」と呼ぶような関係だったけれど、私たちは幸せだった。敦史が吸っている煙草の銘柄にラッキー、幸運と入っているのがいい。私たちは、幸せだと、思っていた。

 あの日、敦史はたまたま遅くに起きて、たまたま変な時間にシャワーを浴びる気になって、そしてたまたま私が買い物に行っている間に風呂釜に湯を溜めて浸かる気になってしまい、さらにたまたま私が川の鯉たちを見ていて帰りが遅くなったせいで、死んだ。

 私が見つけたのは、脱衣所とお風呂場の間に倒れた敦史で、彼は几帳面にパンツは履いていた。救急隊が来た時に困ると思ったのかもしれないが、とにかくもう死んでいた。ヒートショックでしょうとお医者さんは言った。風呂にはラベンダーの香りがするお湯が満ちていた。

 パンツ履く余裕があったなら先に119番しろよと私は泣きながら叫んで、縋りついた敦史の体がもう冷たくなり始めたことに気がついてまた叫びながら泣いた。病院と警察から戻ると、リビングに敦史がいた。

 あまりに自然に「おかえり。煙草あった?」などと尋ねてくるので、私はビニールに入れっぱなしだったラッキーストライクを手渡した。

「はい。ラッキーセブンメテオ」

「全然違うじゃん。メテオどこから出てきたの」

 敦史はゲラゲラ笑って、下瞼の縁に溜まった涙を拭った。

 あまりにも自然だったから、私はそのまま敦史と暮らすことにした。

 肉体の敦史が骨になって実家に帰ってしまっても、実家のお墓に納まって、私が仏壇にお線香を上げに行っても、幽霊の敦史はこの部屋にいた。

 どうにも彼は同じ1日を繰り返すらしく。

 あの時間になると、「風呂に入ろうかな」と言う。私はラッキーストライクを買いに行く。

 違うことをしたら、消えてしまう。確信があった。これが幽霊なのか、それとも生きていた可能性だけが部屋に残ったものなのか、おかしくなった私が見ている幻なのかわからないけれど、消えないでほしかった。

 私は仕事を辞め、同じ1日を繰り返した。

 私がどんなに変わらなくても、季節は変わっていった。クリスマスがあって、年が変わって、ついに春が来た。もう同じ格好がきつかった。それでも、私は意地になって同じ日々を繰り返そうとした。


 私は家の前でダッフルコートを着込み、息を整えた。ラッキーストライクの封を開けて、一箱だけ取り出して残りをプランターの後ろに隠した。

 あと9個。残りを数えることがひどく罪深いことのように思えた。

「ただいま」

 私はいつものように言った。

「はい。ラッキーセブンメテオ」

 箱を差し出す。

「全然違うじゃん。メテオどこから出てきたの」

 敦史はラベンダーの香りがする指で箱を受け取った。

 このあと、敦史は「夕飯作るよ」というのだ。メニューは回鍋肉。調味料が合わさったパウチのやつで作る。それを食べて、テレビを見て……。

 私はこの後のことを、何度も繰り返してきた幸せな日々を思い出していた。


「柑菜、待って」

 だから、敦史が発した言葉に私は固まった。動けなかった。敦史は私のダッフルコートのフードの中から、ピンク色の花びらを摘み出した。

 丸くて、小さな、彼岸桜の花びらだった。

 彼岸という単語がぐるぐる回る。花びらが嘲笑っている。これは罰だ。

「なんだ。たくさん入ってる。いち、に、さん、し……」

 敦史は手のひらに花びらを載せて数えた。7でカウントが止まる。「しち」が微妙に「ひち」っぽく聞こえる彼の発音の癖を、その時思い出した。

「そうか。もうこんな季節なんだな」

 敦史の声に、諦めが含まれていることに私は気がついた。

 彼の男性にしては華奢な手が私に近づいて、髪に触れ、そして頰に触れた。

「ごめんね」

 触れた指の先が、滲んで溶けた。

 水に落ちたインクみたいに、敦史は溶けて消えていく。僅かに微笑んで、「ごめん」とまた唇が動いた。私は動けなかった。

「柑菜のせいじゃないよ」

 花びらが、くるくる回りながら落ちていく。

 地面につく頃には、もう敦史はいなかった。

 ラベンダーの香りもしなくて、微かにラッキーストライクのミントみたいな匂いがした。

 敦史に手渡した煙草の箱も一緒に消えていた。

 もっと動揺するかと思った。

 しかし、どこかすっきりした気持ちだった。

 いつまでも続けられないことを、私自身気がついていたんだと思う。

 最後に持っていくなら、ワンカートン渡してあげればよかったなと私は思い、プランターの裏に9個残ったラッキーストライクを持ってきた。

 9箱の煙草の上に、床に落ちた花びらを並べる。

 祭壇みたいだ。ここに敦史がいた証を残しておきたかった。

 私は煙草の箱を開けて一本取り出した。

 テーブルの上には敦史が使っていた100円ライターがあった。オイル入れて使う、もっとかっこいいの使いなよ。2人で映画を見に行った帰り、私はそう言った。あの映画に出てきたライターがかっこよくて、何よりあの映画でのライターの演出があまりにも良くて、ライター買いな!と私が勧めるのに、敦史は困った顔で言ったのを思い出す。

 それだと柑菜が形見でもらうことになるけど?

 今度は私がゲラゲラ笑ったのだった。

 まさか、本当にそうなるなんて思わないじゃん。

 私はクリアブルーの、中身が半分くらいになった100円ライターを握りしめた。いいか。これでも。

 煙草に火をつけて、灰皿の上に置く。

 敦史が纏っていた香りが部屋に広がって、煙の向こうにまた彼の姿が見えた気がしたが、いくら待っても意味はなかった。

 私は桜の花びらを数えた。

「ラッキーセブンなのにねえ」

 そうして、私はベランダに続くガラス戸を開けた。

 途端に生暖かい春の夜風が部屋に吹き込んできて、私の顔に当たった。風にのって、次々に花びらが舞い込んでくる。川の方から吹く風が、花びらを運んできているのだ。春が来て、桜が咲いて、桜が散って、夏が来る。この瞬間にも季節が動いている。

 記憶は薄れる。思い出も色褪せる。それは不幸なことかもしれないし、生きていくために神様が与えた幸運なのかもしれない、そんな詩的なことを考えて、敦史が聞いたら馬鹿みたいにゲラゲラ笑うんだろうなと私は思った。

 ガラス戸を閉める。煙草の上に置かれた7枚の花びらは静電気でくっついているのか、まだそこにあった。お前たちを今日から「アンラッキーセブン」て呼ぶからね。

 この花が萎れて部屋のゴミと化すまでは、消えてしまった敦史の喪に服して、彼の好物だけを作ろうかと、私は変わっていく明日のことを考えていた。









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