沼らせる女
改淀川大新(旧筆名: 淀川 大 )
嗚呼、分からない。私には分からない!
知っているのはこの空だけだから、黙っていよう。私は視界いっぱいに広がる青空に向けて、そう誓った。
フライトやブリーフィングの合間にこの展望デッキに出て空を眺めると、仕事中の嫌な事は何もかも青い空が吸い取って白い雲に乗せて何処かに流してくれる、そんな気がしていた。
努力して難関を突破し、キャビンアテンダントになった。国際線に乗務し充実した日々を送っている。そう自分に言い聞かせていたが、現実はそんなに甘くなかった。
一度空に上がれば機内は密室同然。嫌な客からも陰湿な先輩からも逃げられない。同乗した便のコー・パイロットが少しばかりイケメンだったりすると、同期とは必ずと言っていいほど恋敵になるし、たとえ二流のルックスの男でも、水面下では皆が狙っているから、いろいろと大変だったりする。
そんな煩い事が面倒だから、私はいつも機長を狙っていた。大抵はおじさまだし、既婚者だったけど、同期や年の近い先輩後輩と奪い合う事はなかったし、機長と付き合っていれば同期だけでなく先輩たちからも優しくしてもらえて、何かと都合がよかった。
年配の男性は財布だけでなく、本当に懐が広いから、私が他の機長と付き合っても、それを許容してくれた。みな経験を積んでいるだけあって夜の方も上手だったし、アニバーサリーには高価なプレゼントを贈ってくれたりもした。最高だった。私は何人もの機長と付き合い、満たされた日々を送っていた。
でも、それが私の絶頂期だったのかもしれない。付き合っていた中の一人の機長の妻から裁判を起こされ、それが会社にも知られた。私は配置転換になり、整備室へと異動となった。
油にまみれて慣れない点検整備の仕事に従事する日々が続いたある日、彼が現れた。昔付き合っていた機長だ。妻からの離婚訴訟に敗訴し、多額の慰謝料の支払いと財産分与を強いられたうえ、旅客機からは降ろされて、今度から訓練機のテストパイロットをすることになったそうだ。それで、その試乗に来たと、ヘラヘラと笑いながら私の背後の機体を指差した。私が点検を終えたばかりのセスナ機を。
彼はその機体に乗って滑走路を疾走していった。セスナ機が風を掴んで高く飛び上がったその時、左右の翼からフラップがとれた。機体は波打つように上下しながら降下し、そのまま空港横の大きな沼に墜落した。
会社から解雇された私は、住んでいたマンションを引き払い、私物を全て処分して、スーツケース一つで旅に出た。そう、新天地を求めて。
あてもなく乗ったバスの車窓から、ぼんやりと外を眺めていると、ふとした景色が目に映った。銀色に輝く田園が一面に広がっている。田圃の水面は青かった。その瞬間、私はハッとして視線を上げた。そこには大きな空が広がっていた。浩々と広がる青空には雲一つ浮かんでいなかった。
私は席を立った。スーツケースを引きずってバスの前まで移動すると、次の停留所で降りた。
そこからどうやってこの村までやって来たのかは覚えていない。私はただ自然の中に戻りたかった。
私がキャビンアテンダントを目指したのは、空が好きだったからだ。今でも好きだ。そして、空が好きなのは、それがどこまでも限りなく澄んでいるから。空は美しい。自然は美しい。自然は尊い。私は自然が大好きだ。自然万歳。農業万歳。そうだ、農業をしよう。米がいい。日本人は米だ。米を作りたい。
高級ブランド物のスーツケースを放り出し、高いヒールの靴も脱ぎ捨て、私は田圃に挟まれた細い一本道を駆けていった。
「いいけ、間違えるなや。この赤いバルブを回して、用水路の方から、こっち側の田圃の方に水を引くんだが。青いバルブは排水溝の弁を開くやつだがや。大雨ん時ゃ、こっちを回せ。ええな」
村の人たちは丁寧に仕事を教えてくれた。私は実家が農家だという訳でもなく、ベランダで植物を育てた経験さえもない全くの素人だから、それは丁寧にいろいろと教えてくれる。稲の育て方はもちろん、農機具の使い方や、脱穀の仕方、とれた米をどこに持っていき、どういう手続きをすればいいかまで、懇切丁寧に教えてくれる。鍬や鎌を使う私を心配そうに見つめてくれたり、田圃の泥に足を取られた私に駆け寄り、丁寧に足を泥から抜いてくれたりする。でも、それは皆、男性の村人だ。
村には若い女性がいない。若い女は皆、都会へと出ていってしまったそうだ。村にいるのは男衆とその妻たちと子供と老人。だからかどうかは分からないが、村の男たちが私のメイクが珍しいだとか、香水のいい匂いがするとか、肌が白くて奇麗だとか言っているのは知っている。中には、あからさまに私のボディーラインについて語ったり、シャツから透ける下着の色について話したりする男もいる。当人たちは小声で話しているつもりだろうが、田舎の人間は声が大きくて、本人の私にもはっきりと聞こえている。でも、不思議と私は不快に思わなかった。
男たちは皆、日に焼けて筋骨隆々、野性的で活力に満ちている。指は仕事で節くれているし、足腰の強さといったら、あの鍛えられた腿を見れば分かるくらいだ。きっと、いろいろとすごいに違いない。
そう思っていたら、やはりそうだった。収穫祭の後の飲み会では、皆顔に墨や
誰だったか覚えていないが、男衆の中の一人から近くの農機具小屋へ誘われた。二人でそこへ行き、そのまま燃え上がった。それは予想以上に良かった。
私はその日から、村の男たちを一人ずつ味わっていった。どの男も凄かった。これが野生の男の素晴らしさかと私は虜になっていった。
半年が過ぎたある日、私は村の婦人会の女衆から、公民館に来るように言われた。雨の中、傘を差して行ってみると、そこには不機嫌そうな女たちがいた。この村の男たちの妻たちだ。私はそこで、皆の前で皆から
ひとしきり私を罵った女たちは、強くなった雨の中を帰っていった。私が帰ろうとすると、私の傘は折られていた。公民館の扉も施錠されている。外は近づいてくる台風の影響で、横殴りの大雨だ。私が軒下で途方に暮れていると、頭上に傘が広がった。村の青年会の会長をしている男だった。
彼は台風対策のために田圃の見回りに行く途中だという。雨合羽のフードを被った彼は、広げた自分の傘を私に預けて黙って畦道の方へと歩いていった。私は彼を追い駆けた。彼に追いつき、後ろから彼に抱き着いた。もう、どうなってもよかった。
彼は振り返り、優しく私の両肩を掴んで、排水溝の弁を開いておくように指示した。そして、農機具小屋で待っていると言ってから畦道の方に駆けていった。
私は傘を強く握り、彼の指示通り排水バルブの方へと急いだ。急いでバルブを回し、そこから用水路に沿って走り、彼の待つ農機具小屋に向かった。
小屋の中で私と彼は激しく求め合った。私の喘ぎ声は川から用水路に流れ込んだ大量の水が流れる音にかき消されていた。
翌朝、小屋から出てみると、昨夜の台風が嘘のように青空が広がっていた。視線を下ろした私は唖然とする。村が泥沼に飲まれていた。田圃から大量の泥水が溢れたようだ。しまった。私は回すバルブを間違えたようだ。
知っているのはこの空だけだから、黙っていよう。
沼らせる女 改淀川大新(旧筆名: 淀川 大 ) @Hiroshi-Yodokawa
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます