どこから来て何者でどこへ行くのか

香久山 ゆみ

どこから来て何者でどこへ行くのか

 最初の記憶。目を開けると、薄暗い草原の上。見渡す限り何もない。

 ここはどこ? ぼんやり立ち尽くしていると、どこからか黒い影が近づいてきた。低い唸り声。

 こわい! 反射的に身を固くした瞬間、影は飛び掛ってきて、大きな手でぼくを押さえつけた。身動きが取れず、なすすべもない。

「なんだ、まだ子どもか」

 黒い影が言う。

「名前は?」

 わからない。ぼくはただぼーっと見つめ返す。

「お前は何者だ?」

 何を聞かれているのかわからないままじっとしていると、影はふっと力を緩めた。

「何もわからないんだな。もういい。お前のような、白くてまるくてぷにぷにした小さいものには興味がない」

 影は長い手でぼくを引きずっていく。

「自分が何者かくらい、知っておけ」

 そう言うと、ぼくの体をこんと蹴飛ばした。ぼくの小さくて白くて丸くてぷにぷにした体は、ころころと斜面を転がっていく。くるくると目が回り、ぼくの世界はまた暗くなった。


 次に目覚めた時、ゆらゆら揺られる感覚が心地よくて、すぐにまた眠ってしまいそうになった。けれど、白い光が眩しいし、周りがわあわあと喧しくてとても眠れやしない。

「あら、起きたわ」

「目を開けた」

「まだぼんやりしてる」

「ほんと小さいわね」

 ぼくを囲んで白いもの達が口々に言う。やまぬ声の間から、ちゃぷちゃぷ水音が聞こえる。ぼくは水の上にいた。

「あらあらじーっとこっちを見てる」

「どうしましょうかね」

 白いものたちはひそひそと小さな声で相談して、ぼくを振り返った。

「白くて小さなぼうや、安心なさい」

「私達が守ってあげますからね」

「あなたは私達の宝物よ」

 彼女達はぼくをとてもかわいがってくれた。

「かわいいぼうや」

「あなたはここにいてくれるだけでいいの」

 口を開ければ食べ物を運んできてくれたし、じっとしていれば黄色いくちばしで身づくろいまでしてくれた。

 少しでも動こうものなら「あぶない」と、寄ってたかってぼくを制止した。湖から出ることは許されなかった。

 けれど、ぼくは気づいてしまった。水面をのぞく度に、突きつけられた。ぼくは、彼女達とは違う。体は白いけれども、ふわふわした羽毛におおわれていないし、黄色いくちばしを持っていない、大きな翼もない。

 おしゃべりな水鳥達に囲まれて、ぼくは言葉を覚えた。そうして、ふと黒い影が言ったことを思い出した。

「おまえは何者だ」

 わからない。昔は影の話すことばそのものが理解できなかった。けれど、ことばを理解した今、ぼくは答えがわからない。ぼくは何者か。どうやら水鳥とは違う。この湖でぼくと同じ形のものをついぞ見かけたことがない。

 ぼくは何者か。

 何度も何度も水鳥達に訊ねた。

「あなたは私達の宝物」

「なあんにも心配しなくていいの」

「ただここにいてくれるだけでいいのよ」

 そう言われるだけだった。

 そうして、月のきれいな夜にぼくは思い至った。彼女達もぼくが何者か知らないのではないか。

 ぼくは自分を探しに行くことにした。当然彼女達は許してくれない。かといって、自分で湖を出ることもできない。なにせ、水面に浮かぶゆりかごから一度も出たことがないのだから。泳ぎを教えてほしいと頼んでも、だめだった。

「外の世界は危険でいっぱいなの」

「あなたはなにも考えなくていいし、じっとここにいれば、私達がなんでもしてあげるからね」

 彼女達はとても親切だった。だから、さよならもせずに出て行くのはとても心苦しかったけれど、ぼくは行かねばならなかった。

 皆が寝静まった夜更けに、そっとゆりかごを漕ぎ出した。水に触れると、想像よりもやわらかくて驚いた。腕を伸ばす。水面はぬるいのに、中はひんやりしている。音を立てないよう、伸ばした腕をそっと動かす。ゆるゆるとゆりかごが動き出す。はじめは思う方向に進まなかったけれど、じきに慣れて自由に進むようになった。水鳥達と違うぼくの腕は、こんな風に使うことができるのだ。

 満月が照らす水面をすいーっとゆりかごが進む。

 岸が見えてきたところで、ゆりかごがぴたりと止まった。水草に引っかかってしまったようだ。どれだけ腕を振ってももう動かない。急に夜が深くなった気がする。あれだけ心地よかった水のゆらめきが不気味に感じられる。遠くで野禽の鳴く声がする。岸まであと少し。仕方がないので、泳いでいくことにした。ゆりかごから出て、そっと水に身を滑らせる。

 こわい。

 大丈夫。自分に言い聞かせる。泳いだことはない。けれど、ずっと見てきた。水鳥の優雅な身のこなし、水中を泳ぐ魚の姿。そっと手を離す。白くてふわふわ丸い体は、水面に浮かんだ。うん、大丈夫。記憶を頼りに、見様見真似で体を動かす。ばちゃばちゃ水しぶきが立つ。なぜだか、動けば動くほど体は沈んでいく。ぶくぶくぶく……。

 もうだめだ。

 そう思った時、ぐいと体が引っ張られた。すいすい水の中を進み、あっという間に岸辺についた。

「ここでいいかい」

 大きな目と長い口ひげ、湖の主のなまずが助けてくれたのだ。勝手に抜け出して叱られると思ったぼくはもじもじと返事もできなかった。なまずはふっと笑った。

「叱りやしないさ。もう年頃なのだから。この湖にいてはお前さんは自分を見つけることはできないからね。気をつけて行くんだよ」

 そう言われて、ようやく「ありがとう」とお礼を言って、ぼくは湖をあとにした。


 森を進む。すぐにお腹が空いてきた。けれど食べるものがない。

「ごはんを食べるためには働かないといけないんだぜ」

 途中で蟻が教えてくれた。けれど、黒くて小さすぎる蟻の巣では、さすがに働けそうもない。

「きみは白いし、あそこで働けばいいさ」

 蟻に聞いた方向へ進むと、森のレストランがあった。扉を叩くと、小さくて白くてふわふわしたものが出てきた。

「あら、働き者の蟻さんの紹介なのね。なら大歓迎よ」

 すぐに採用され、レストランで働き始めた。店内のフロアでは、お盆の上に料理や食器を載せたうさぎ達がぴょんぴょん忙しく働いている。ぼくはあんな風に身軽に動けないなと心配していると、「あなたはこっちよ」と店の奥に案内された。

「あなたは調理係よ。だってあなたの手はとても器用そうだもの」

 店長と呼ばれるうさぎは、ぼくよりもぼくのことを知っているようだった。

「料理の経験は?」

 ふるふると首を横に振る。

「じゃあ教えてあげてちょうだい」

 そう言って店長は厨房を出て行った。

 ぼくを教えてくれたのは茶色い野うさぎ。とても丁寧に教えてくれて、ぼくもすぐに上達した。玉子を割るところからはじめて、今ではホットケーキでもオムライスでも作れる。特に、雪みたいに粉チーズをまぶした白いカルボナーラはうさぎ達に大人気。

「ほんとに器用だねぇ」

 先生の野うさぎからも褒められた。自分の仕事が褒められることはとても嬉しくて、ぼくはいっそう頑張った。

 レストランは規則正しく運営されていた。朝八時に厨房係は下拵えを始め、十時に開店するとフロアをうさぎ達が駆け回る。昼休憩は十一時からと一時からの二交替制。ぼくは時計も読めるようになった。厨房ではカット係は野菜を切り続け、ごはん係はお米を炊き続け、さかな係は捌き続ける。玉子係のぼくはフライパンの上で玉子料理を作り続けた。与えられた役割をしっかりとこなして、お給料をもらう。ぼくはとても満足していた。

 この仕事はとても充実していて楽しいですね! ぼくが言うと、野うさぎはふっと笑った。

「若いわねえ」

 きょとんとしていると、背後から食器洗い係のアライグマが話に入ってきた。

「ぼうやは、望んで玉子係になったのかしら」

 ちがう。店長に与えられた仕事だ。ぼくに似合う仕事を店長が選んでくれた。

「フロア係の制服って、とてもかわいいでしょ」

 アライグマが言う。ぼくは素直に頷く。動く度にひらひらとリボンが揺れるのだ。

「あたし本当はフロア係になりたかったのよ」

 アライグマがため息をつく。なら店長に頼めばいいのに。

「無理よ。ここは、うさぎのレストランだから。アライグマは、花形のフロアには立たせてもらえないの。――そこの彼もね」

 振り返ると、野うさぎが顔を赤くして俯いている。

「……フロアに出られるのは、清潔感のある真っ白なうさぎだけなんだ。僕は茶色いから……」

 さあ、仕事仕事。と言って、おしゃべりなアライグマはぶくぶく食器を洗いながらも、まだ喋っている。――あーあ、お城で働けたらなあ。お城だと厨房係も素敵なエプロンが着られるんですって。まあ、私たちには縁のない話ですけども。

 アライグマが喋っている間、野うさぎは黙々と俯いたまま料理を続けて、途中で味見させてもらった時、いつもおいしい野うさぎのシチューが今日は少ししょっぱかった。ぼくは玉子係に大満足だったから、フロア係になりたいという二人の気持ちはよくわからなかった。だって、野うさぎは料理上手だし、アライグマは食器をぴかぴかに洗うことができるのだから。

 折しも、メニューの玉子料理を一通り覚えたぼくは、新メニューを開発した。真っ白く焼き上げたスポンジを生クリームとピーナッツバターとチーズを挟んで積み上げ、メレンゲですっぽり包んで、ホワイトチョコでデコレーションする。「ホワイトスペシャル」と名付けた新メニューはとろける甘さで、厨房での評判は上々だった。

 店長に提案すると、店長はすぐに答えた。

「だめ」

 ホワイトスペシャルを一瞥しただけで、一口も食べもせずに、きっぱりと却下した。

「あなたはメニュー通りの料理さえ作っていればいいの。余計なことはしないで、さあ仕事に取り掛かってちょうだい」

 にべもない。その後は何度挑戦しても梨の礫。しだいに、ここで働くことが息苦しくなってきた。同じ時間に厨房に入り、毎日毎日同じ作業を繰り返す。変わらない日々。自分でもどうすればいいのかわからない。仲間は黙々と働いているのに、どうしてぼくは我慢できないのだろう。けれど、このまま我慢して、何かを諦めてしまうことが、こわかった。それが何かもわからないのに。

 ぼくはレストランを辞めた。店長は引き止めてくれたし、仲間達も残念がってくれた。

「若いわねえ」

 アライグマが慈しむように笑った。野うさぎとさよならのハグをした。彼の体はふわふわ温かくて、小さかった。

「ここに来た時よりもずっと大きくなったね」

 野うさぎが言う通り、大きくなったぼくには、うさぎのレストランが少し窮屈にもなりつつあったのだ。

 ぼくは、城を目指すことにした。城は素晴らしい場所だと、以前アライグマが言っていたから。


 城についたぼくはすぐに厨房係に採用された。

 相変わらず決まった料理をつくる毎日だけれど、王様とお后様のお気に入れば新メニューを作ることも許された。お城にはぼくと同じ形の、たくさんの人がいた。衛兵に、執事、馬車係、清掃係、音楽家……。

 休憩時間に庭に出たぼくは、大きな桜の木の下でおじいさんがスケッチブックに絵筆を走らせているのを見た。城のお抱え画家だ。スケッチブックを見せてもらうと、一枚捲る度に美しい世界が現れた。

 薄紅色の花畑。

 新緑の森、澄んだ小川にかかる水車。

 青い海に浮かぶ帆船。

 南十字の輝く星空。

 赤いレンガ造りの町並み。

「お城のお抱えになるよりずっと昔に、世界を旅した時に描いたものだよ」

 もう行かないの? おじいさんに質問しながらも目はスケッチブックに釘付けだ。ステンドグラスの美しい小さな教会のオルガンを、栗色の髪の少女が弾いている。やさしい音色が届いてきそうだ。

「わしももう年だからね。それに、この城で働く者は城壁の外側に出て行ってはいかんのだよ」

 かつて、赤ん坊だった王子を連れて森へピクニックへ行ったところトンビに攫われてしまったためだという。以来、国民を大切にする王様は、誰も危険な目に遭わせないように、城壁の外へ出てはいけないというルールを作った。

 ふうん。よくわからないけれど、お城の中は確かに安心で安全だった。

 ぼくは仕事の合間に画家のおじいさんに絵の描き方を習った。真っ白な紙にカラフルな世界が生まれるのが、まるで魔法みたいで夢中になった。ぼくは厨房係をやめて画家になりたいと執事長に頼んだけれど、だめだった。料理は上手だが、絵は下手くそだったから。どれだけ描いても、おじいさんのように上手に描けない。けれど描きたい。たくさん描くのが上達のこつだと言われ、外に出たいと申し出たけれど、それもまた許されなかった。だからぼくはおじいさんから譲り受けたスケッチブックを、紙の端が擦り切れるまで何度も何度も捲った。

 ある日、お后様が病気になった。城中で看病した。ぼくも温かいお粥やスープを一生懸命つくった。けれど、お后様の熱は一向に下がらない。

「森の奥に生える薬草ならばご病気を治すことができるでしょう」

 お抱えの医者が言った。

 王様は頭を抱えた。大切な国民を城壁の外に行かせるわけにはいかないから。そこで、執事長が提案した。

「ならば、この国に来て一番日が浅い、新入りに行かせましょう」

 王様は仕方なく頷き、それでぼくが行くことになった。あれだけ出て行きたかった外の世界だけれど、いざ行くとなるとこわかった。


 ぼくはひとりぼっちで森を進む。人の手が入らぬ森は鬱蒼として薄暗い。スケッチブックを持ってきたけれど、とても絵を描くどころじゃない。

 ガサガサガサッ。突如藪が揺れて、腰が抜ける。ざっ、と目の前に黒い影が横切る。

「よう。久しぶりじゃないか」

 影は言った。恐る恐る目を開けると、最初にこの世界で出会った黒い影が、また目の前にいた。

「ずいぶん大きくなったじゃないか」

 影は大きな口で笑った。

「それで自分が何者かわかったかい」

「えーと、人間です」

「くっく、そりゃあ見ればわかるさ。では、名前は?」

 ぼくは白くて前より大きくなってもうそんなにふわふわじゃない人間だ。みんなからは玉子係とか厨房係とか新入りとか呼ばれる。けれど、なまえは? 口ごもっていると、影が続けた。

「まあいいさ、名前は。それで、お前はどこへ行くんだい?」

「お后様の薬草を摘みに森の奥まで行くんだ」

 これは自信をもって答えたけれど、影は「そういうことじゃない」と、また笑った。

「まあ、受け答えできるようになっただけでも成長だ」

 そう言いながら、影はぼくが落としたスケッチブックを拾った。ぱらぱらと眺めてふふと笑い、返してくれた。スケッチブックとともに、懐から小片を取り出してこちらへ投げた。両手で受け取ると、それは美しい紋様が彫られた金色のバッジだった。

「赤ん坊のお前が握っていたものだよ。ころころ斜面を転がる時に落としていったんだ。おくるみを留めていたものだろうな、まあそいつが光るせいで野禽にでも攫われたのだろうが」

 お礼を言い、バッジをポケットに入れた。

「薬草を取りに行くなら右の道だ。それから……」

 その絵の場所に行くなら左の道だと教えてくれた。影に名前を訊いたけれど、人に訊くならまず自分から名乗ることだ、と教えてくれなかった。あちこち旅しているから、きっといつかまた出会うだろうと言い残して、影はさっと姿を消した。


 帰って、薬草とバッジを見せると、城中大騒ぎになった。元気になったお后様と王様から、このバッジをどうしたのかとしつこく聞かれた。それで、ありのまま話すと、二人はぼくをぎゅっと抱きしめた。

「ジョージ!」

 王様とお后様はぼくをそう呼んだ。それがぼくの名前で、その日からぼくは「城の王子のジョージ」になった。

 両親はぼくを宝物のように扱った。だから、ぼくは城の外に出るどころか、料理をすることさえ許されなくなった。誰かが作った「ホワイトスペシャル」をじくじたる思いで食べた。ここは間違いなくぼくの居場所なのに、ぼくはまだ居心地の悪さを感じている。

 行かねばならない場所がある。森の分岐を左に進めばスケッチブックに描かれた美しい教会があるという。何度となく思いを馳せた愛らしい少女がいるはずの。

 美しい満月の夜、ぼくはそっと城から抜け出た。森につくと、黒い影の気配を感じた。ぼくは名乗ろうかと思ったが、やめた。新しい名前はまだ十分にぼくに馴染んでいなかったし、影の名前は聞かずとも知っているような気がしたから。

 遠くからオルガンの音色がかすかに聞こえる。ぼくは新しい一歩を踏み出した。

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