葉桜

西しまこ

第1話

 知っているのはこの空だけ――


 僕は葉桜で切り取られた青空を見つめた。

 あの日。五年前のあの日、僕はセンセイと別れた。ちょうど、葉桜の季節だった。だから、僕は葉桜の季節になると、センセイを思い出す。


 僕は子どもだった。どうしようもなく。自分に自信が持てなくて苦しくて堪らなかった。センセイの、大人の女性の苦しみなんて考える余裕もなかったんだよ。

 初恋だった。

 センセイが初めての彼女じゃない。でも、僕にとっての初恋は紛れもなくセンセイだったんだ。こころを全部持って行かれた。嫉妬もした。あんな感情が自分の中にあったなんて、ほんとうに知らなかった。

 センセイが他の男子生徒と話すだけでムカついた。それ以上に、男の先生と楽しそうに話しているのが許せなかった。何より、センセイの「元カレ」のことを考えるだけで、息が出来なくなりそうなほど、苦しかった。


 僕はあれから高校を卒業して大学に行って、大学を卒業して就職もした。だけど、まだあのときのセンセイの年齢に追いつかない。センセイが「人生のサイクルが違うんだよ」と悲しそうに言っていたことを、ときおり思い出す。センセイ、それでも僕はセンセイのことがただ好きだったんだ。どうしようもなく。


 僕は公園に入り、ベンチに座った。

 ここでセンセイと別れた。ちょうどこんな陽気の日だった。青空も葉桜も、まるで五年前そのままだった。でも僕は制服姿ではなくてスーツ姿で、隣にセンセイはいない。


 菫。

 結局、一度も呼び捨てに出来なかった。恥ずかしくて。その資格がないような気がして。

 あのあと、何人かの女の子とつきあったりもした。だけど、センセイに抱いたような気持ちには全くなれなかった。楽しかったし好きだったけれど、センセイへの思いとは比べようもない。こころの全部を使って恋をするような、ずっぽりはまって抜け出せなくなるような、あんな恋はその後一度も出来なかった。つきあった女の子たちはみんなかわいかったけれど、どうしても長続きしなかった。なぜだか、一年くらいで自然に終わりを迎えた。


 センセイ。今の僕なら、もう少しうまく出来るだろうか。……うまく出来るなんて、想像出来ない。センセイに触る男の手、すべてが赦せなかった。センセイを見ることすら赦せなかった。センセイの声を聞くのも赦せなかった。でも、そういうこと全部言えなかった。自分がどうかなってしまったんだと思った。


 今でも僕はセンセイが好きだ。忘れられない。情けない。どうしていいのか、分からない。


 葉桜がきれいだ。葉桜の向こうの青空もきれいだ。でも、僕のこころは全然きれいになれない。いつまで経ってもぐちゃぐちゃのどろどろだ。僕たちがつきあっていたことは誰にも秘密だった。そういうのも苦しかった。僕の恋人だって、ほんとうはみんなに言いたかったんだ。僕たちが別れたことも、あのときの空と葉桜だけしか知らない。


「菫」

 呼べなかった名前を口に出してみる。菫。すみれすみれ。僕はまだ好きなんだ。


「聡くん?」


 幻聴? この五年、ずっと聞きたかった声。

 僕は声がした方へ顔を向けた。


 葉桜から、花びらがひらりと散った。



   了


一話完結です。

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