バースデイ

鱗青

バースデイ

 車が古すぎるせいだと思う。いや…

 思いたかった。

 物理的に説明できないのだもの。かといって自分の精神状態や脳の錯覚のせいにはしたくなかったし。それくらいなら、ライトの調子がおかしくなっていたと思った方がまだマシだ。この世に科学で説明のつかないことなどあるわけないと考えていたから…

 冴えない地方・零細の私立大で、さらに輪をかけて予算の少ない数学科の教授である私こと呉内くれない果子かこ、女子校育ちでどっぷり学究の徒の人生を歩んできた二十五歳独身。趣味は読書、スポーツ観戦、ボルタリング、サイクリング。最近の悩みは職場が近々無くなる恐れが出てきたこと。

 その日も勤務中にイヤなことがあり、ムシャクシャしていた。帰宅途中、川沿いの直線道路で遠くまで信号は青。私は制限速度に抵触しない最高速で『あいつら全員同窓会』を大音量でかけながら、愛車の中古のホンダを運転していた。

 〽︎シャイな空騒からさわぎ♪

 の、ぎ♪のところで。薄闇を背景にしたヘッドライトの黄金の輪の中に、いきなり人の姿が現れた。

 ブレーキを踏む?そんな間すら与えない、唐突な出現。動画をカットインしたごとく、は現れたのだ。

 悲鳴?そんなもの出ない出ない。というか出す暇がない。

 衝突の瞬間、車全体が浮いた。ジェットコースターの急降下のような浮揚感。実際私は運転席で少し浮いた。

『どっせぇぇぇぇい!』

 続く雄叫び。縦方向の衝撃、振動。そして車は停止(ワンテンポ遅れだがブレーキは奇跡的に踏めていたらしい)。

 前後事実を統合し観察したところ私は、車ごと放り投げられ、無事に着地したのだ。

「な、な、な、ナニゴト───」

 完全に腰を抜かして運転席のドアを開けた私の前に、ハタハタとはためく布があった。

 そしてその下にヌッと巨大な節くれだつ筋肉質なが生えていた。その足元には革の粗末なサンダルを履いていた。足のサイズ、目測で約四十㎝。

 ズレたメガネを掛け直し、そろりそろりと視線を上方へと向けていく。

 布の上は臍だった。その周りに八つに割れて盛り上がる腹筋。

 その上に、ライオンを思わせる金の体毛がモジャモジャに覆う双子の鏡餅のような大胸筋。鎖骨のあたりは逆に渓谷のように深く切れ込んで、広頚筋がシルエットを作っていて、さらに胸鎖乳突筋はロープのようで…

 ここまで身長二m以上、体重は百オーバーなのは確実な筋肉オバケマッチョだった。

 そしてそのつるんとした禿げ頭はこれまた大きかった。顔というと渡辺謙とショーンコネリー(晩年)と、往年の名プロレスラーのジ・アンダーテイカーを足して割らない感じの濃ゆさ。そして顎を右手でひねくっている。

 その苦みばしりイケオジマッチョは、肩から腰にかけて一枚の布のようなものを纏っていた。古代ギリシャをモチーフにした絵画に出てくるトーガに似ている───いや、これじゃないか?

『やあ娘御むすめご。怪我は無きや?』

「え、ええはぁ、無傷…のようです」

 ん?私は首を捻る。

『なれば幸甚こうじん女子おなごを無闇に傷つけたとあってはわれおのこすたるなれば!』

 からからから。私の眼鏡まで震わすほどの高笑いをする、マッチョジジイ。

「あの、夜に近所迷惑なので少し静かにしてくれませんか?」

『んん?ふむ。そういえばは夜なのだな。おかしいな、先程までは昼間であったに…それに娘御の輿こし、それはどうやって動いている?我の知らぬ学者どもの発明品かな?』

 うわ。

 あわわわわ。

 私は気付いた。この人、このジジイ、この筋肉、

 うん、一旦落ち着こう。

 この人物は、口を開けて舌を動かして咽喉から声帯を振動させて発声・発音している。だがその内容はというと、カチャカチャルロルロという意味不明な音にしか聞こえない。どこの言語か判らないが、日本語でないことは確かだ。

 そして───ここが重要なのだが───どうやららしい。だからなんというか、本人の渋く艶のある声と同じ声質を持つ声優が即興アテレコしているような妙な感じになるのだ。

『───どうした?押し黙って。娘御、ここはどこなのだ?我は一瞬で移動したらしいのだが、此処はオリンポスではないのかな?娘御も異国の人間…衣服も不思議な物だが、どこから来たのだ?』

 私は咳払いをし、もう一回眼鏡をなおした。背筋を伸ばして深呼吸をすると、教室で生徒達に向かうときのように冷静になることができた。

「失礼。私は呉内果子といいます。隣町で大学の教授をしている者です。貴方は…なんというお名前なのですか?」

 全部日本語、しかも文体口調の質疑。でもこれが最良の選択だろう。

 マッチョジジイは熊も締め殺せそうな両腕をこまぬきながら象牙のような白い歯を見せて笑った。

『物怖じせずよくぞ問うたな、娘御。この我と行き逢うたことをほまれとせよ。なんとなれば我こそはミュケナイよりいでし英雄の中の英雄にしてゼウスの息子、ヘラクレスなれば‼︎』

 

“…でその不審者を飼うことにしたの”

人聞きが悪いひほひひははふひわねはへ支援者はほほーへてよへほ支援者とはほほーへと

“ポテチを取って食べるか、私としゃべるかどっちかにしてよ。で?そのヘラクレス(笑)さんはどこに?”

 PC画面の中で、私の女友達が頬杖で眉を顰めた。

『おう。我を呼んだか』

 のっしのっしとフローリングを鳴らしてヘラクレスがやってきて、リビングのテーブルでテレビ通信をしている私の後ろからPCを覗き込む。と、顎をひねくりつつ味の濃い顔を驚嘆で一層、くどくした。

『おおお!超常!これは…この娘御は、この板の中に封じられているのか?しき者の妖術か?もしそうであれば許せん!待っておれ、今すぐに木っ端微塵に砕き其方を救い出してくれよう』

「しなくていいし、彼女は離れたところにいるだけだし、そんなことしたら私が救われなくなるからやめて。このPC結構高価たかいんだから」

 風呂上がり、私はタオルを髪に巻きつけたパジャマ姿でビールとポテチを開けながら講師仲間オタ友達に連絡をとった。彼女の専門は古代ギリシャ史と言語で、日本では一人、世界でも数人の古代ギリシャ語が理解できる稀有な存在なのだ。

“わー!ホントだ!そのお爺ちゃんの使ってるの、本格的な古代ギリシャ語だよ!ちょっと訛ってるけど…それがまた本物っぽいなあ”

 画面の中で瞠目し拍手している彼女に私はため息をつく。

「やっぱりかぁ。幻覚じゃない、っていうわけね」

“ていうか、果子、あんたなんでお爺ちゃんの言葉が分かってるの?英語もそんな得意じゃなかったよね?”

「うるさいわね。数学の世界には最低限の需要を満たせば問題ないのよ英語なんて」

 夜中に全身を薄布で覆った巨漢の外国人と車道で話し込むわけにもいかず、かといって二十四時間営業のファミレスに連れていくのも気がひけて、結局私のマンションに一緒に帰って来てしまった。

 よくよく考えれば若い女が赤の他人の、それもこんなプロレスラーみたいな(高齢とはいえ)男を一人暮らしの1LDKに入れるなんて、不用心にもほどがある。何かあったときに自分にも落ち度があったと認めるにやぶさかではない状況。

 だが。

『ほお〜、りもーと、というのだな?この術は、この国のすべての人間に使えるものだと…なんとまあオーパ‼︎』

 瞳をキラキラさせながら、水道、ガスコンロ、電灯はおろか部屋に入る時の鍵の開け閉めさえ感動してみせるこの自称「オリンポスの英雄」に、私は警戒する心が抱けなかったのだ。

 とはいえ、ヘラクレスがなぜ私の前に現れたのか、それを知るためにも…また今後の彼の身の振り方を考える一助いちじょになればと彼女に助けを求めたわけである。

“そーだねー、これっていわゆる異世界転生ってやつなんじゃないの?知らんけど”

「なによそれ?」

“あ知らない?そっか、あんたはそっち系はあんまり詳しくないもんね。SFばっか読まないでたまにはラノベ読みなよ。最近のは結構面白いよ?”

「まあそれはそのうちね。…で?」

 女友達は私も見たことのない満面の笑みで画面の向こうでワイングラスを傾けた。研鑽を積んできて披露する機会に恵まれなかった古代ギリシャ語を、存分に話せる相手と出会えた思いがけない幸運に巡り会えたのだからテンションも上がるだろう。

“どっちみち転生もののセオリーとしては、何かの使命があってこちらの世界にやってきた…て感じじゃない?”

「使命?」

“そ。それが果たされたらお爺ちゃんも本来あるべき場所に戻ることができるんじゃないかな?知らんけど”

 最後の一言が余計にモヤモヤさせるが、まあ、確かにそんな気はする。

『先程から板の中の娘御が申しておるオジイチャンとは我の事なのか?どういう意味だ?』

 私はその質問をそのまま伝えた。彼女は高齢の男性のことですよ、と古代ギリシャ語で答えたらしい。

 ヘラクレスは途端に渋面になり腕を組んだ。

『この我を呼びならわすなら、英雄と言わんか。いや、英雄王という呼び名が似つかわしいかな?』

“あーその呼び方だけはダメ。FGO信者に抹殺されますよ”

『えふご?とはなんぞや?我はいかなる敵にも真正面から相対するぞ、この筋肉を以て!』

 ヘラクレスは左右の胸筋をグイグイ上げて見せる。体毛が一緒くたにウゾウゾ蠢く。うん。スゴい。キモスゴい。

“ま、とりあえずしばらく面倒を見るんでしょ?とにかく何か起きるまで、一緒にいたらいいよ”

 結局何か分かったような分からないような流れで、私はヘラクレスを預かることになった。

 私はベッドに、そして寝室とドアを隔てたリビングの床にヘラクレスが横になり(体が大きすぎてテーブルの下に入って)寝ることになった。

『懐かしいのう、我が戦場にあった折、ちょうどこのような感じで野営したことがあってな…』

「あのー。声が大きすぎてこっちにまで聞こえるんだけど、静かに眠ってもらえない?」

『おお、すまんな。それにしてもこの部屋は狭い。そういえばデルポイの三脚のかなえもこのてえぶるほどの大きさで…』

「あーもージジイは人の話を聞かない!」

 私はティッシュを耳の穴に詰め込んでようやく睡眠を取ることができた。が、その晩に見た夢は様々な怪物と戦うヘラクレスのものだった。

 次の日。

 職場である私大の駐車場で車を降りると、校舎を回りながらやってくる一団が見えた。

「ゲッ、理事長…」

『どうした果子、我がかつてアンタイオスを絞めた時のような声を出して』

「いえね、私の苦手な奴が向こうからやってきてるのよ…」

 私一人なら車に戻って縮こまったり物陰に隠れてやり過ごしていたのだが、バスケゴールに余裕で手が届きそうなヘラクレスが一緒にいてはそうもいかない。

「や〜あ、やあやあやあ。呉内君じゃないか。君だけだよ?まだ教授準備室の片付けが進んでいないのは」

 私より少しくらい背が高く横幅は四倍くらいありそうな脂肪に包まれた男が、結婚式でもないのに似合わない三揃いを着て片手を挙げる。仕草も表情も、声のトーンも高慢な印象だ。唯一の美点はそう、髪がフサフサな点…だろうか。顔は薄味のザ・文化系といったもので、まさしくヘラクレスとは真逆の男。

 金本かなもと制一せいいち。貧乏私大を有り余る資産で乗っ取った、新理事長。

『なんだ果子、この肥満児は』

 ヘラクレスからすると、金本はまずそのたるんだ怠惰な体型が軟弱に映るのだろう。顎をいじる指先がいかにも不機嫌そうだ。

「これでも私より二つ歳上よ」

「や〜?こちらの薄着の外国人はなんなんだい?おかしな服装だな」

『なんだか気に食わぬな、こやつ。こんなに太っていざという時に戦えるのか?女子が護れるのか?』

 本能的に合わないのだろう、金本に頭から噛みつきそうなヘラクレスを背後に押しやり私は作り笑顔を浮かべる。 

「理事、再三言いましたが私は研究を辞めるつもりはないんですよ。新棟なんか作られても、そこで基礎数学の講師をやるなんて…」

「やあ、君にはごく一般的な職務をこなしてもらう。応用数学の研究なんてカネにならないしね。教授室にこもり女性として花の麗しい年代を数式に捧げるよりよほど建設的じゃないかね?」

 私は歯を食いしばる。

 これだ。これが私が現在直面しているイヤなこと。

 失業問題…正確には、教授として専門的な研究に勤しむことを諦める代わりに一年生に基礎数学を教えるだけの講師となるか、それとも完全に失業するかの二択。

「やあ〜、悪い話じゃあないと思うんだよなぁ〜?だって君、この不景気の中でその若さで実績もないのに、よその大学で研究職ができるかね?それよりも、詰まらなくともきちんと高給がもらえる安泰な講師でいた方が良いのではないかね?」

 かね、かね、うるさい!

 ニマニマと言葉で嬲る金本に、俯くだけの私の様子を窺っていたヘラクレスが横から口を出した。

『よいか肥満児。搦手からめてろうするのは男としてだぞ。言いたいことは己の筋肉を以て表現するべし』

「…何言ってるの」

『うむ。こやつ別の思惑があるのに娘御には伝わっていないようなのでな』

「やあ、この話は一旦保留として。その新棟に案内するよ。間近で見たこともないんだろう?ちゃんとその目で確認すれば、賢い君のことだ、きっと気が変わるとも」

 ポンと手を叩き、金本は取り巻きを連れて私を導く。仕方なしに私もトボトボとついていく。その後ろからもどかしそうに顎をひねくりつつヘラクレスものっしのっしと歩いてきた。

 新棟はほぼ出来上がっていた。金本の言う通り、赤煉瓦を基調にした優美な十階建てのビル。建築様式はビクトリア風で、切り立つ三角屋根と破風、煙突まで備えている。

「どうかな?本格的だろう?来年からここにすべての教授と講師が部屋を持つんだ。英国の有名大学で教鞭を振るう気分になれること請け合いさ!」

 それは確かに魅力的だ。ハリーポッターが現れてきそうな玄関も、しっとり落ち着いた色合いもむしろ私の好みに近い。

「やあ〜、呉内君の好きそうなカンジになるよう細心の注意を払ったんだ。ちょうど格安で工事をしてくれる上海系の会社をみつけてね。えーと…ソイパルプグランデといったかな」

 ゴソゴソとボタンの留まらない懐をまさぐり、名刺入れを出す金本。

「別に知りたくありません。興味ないですし」

「やあ、そう言わず。そうだ!特別に一番乗りでなかを案内してあげよう。とびっきり見晴らしの良い部屋があるんだ。さあ!」

「え、いえ、だから」

「やあやあやあ、そこに突っ立ってる君、そのデカブツ君も一緒に。ね?」

 完全に気力のない私は金本に手首を掴まれ、逃げることもできずにその新棟に近寄った。

 そしてその時だった。

 突然地面が揺れた。地震だ。大して大きなものではなかった。建物入り口のスロープ付きの階段で止まり、揺れが収まるのを待つ。

 一分あるかないかの時間だった。

 だがしかし、次に起こった出来事は私達の予想外だった。

 金本が自慢げに紹介した建物が、踊っていた。

「───やあ…」

 間の抜けた金本の呟きを合図に、赤レンガが音を立てて建物の内外へ抜け落ち、煙突がゆらゆらメトロノームのように揺れ。そして。

 映画に出てくる恐竜の咆哮じみた音を響かせながら、新棟は私達の方向へ一気に崩れた。私は胸に衝撃を受け、後ろに激しく転んだ。

 ズドドドドドドドドドン───

 もうもうたる土煙。不規則に落ちる瓦礫の音。

『大丈夫だ、もう完全に崩れて落ちた。崩壊は止んだな』

「ヘラクレス、一体何が…」

 筋肉、いや太い腕に支えられて立ち上がる。

 一瞬にして廃墟となった新棟の跡。中で工事していたらしき人はいない。まだ朝で作業員が立ち入っていなかったのが幸いだ。

 しかし。

「やあ…無事かね…」

 建物から弾き出された大きな煙突が横倒しになっている。そしてその下に、金本の肥えた頭だけが見えていた。

「え───」

 ヘラクレスが静かに言う。

『この肥満児な、果子を庇って下敷きになりよった』

 私はいましがたの出来事を思い出す。突然のことに動揺し、瓦礫から逃げることを忘れた私。その私の胸を咄嗟に突き飛ばして、崩壊する建物から遠ざけてくれたのは…

「理事長⁉︎どうして⁉︎」

 こふ。くちから鮮やかな朱色の液体を吐きながら、金本は微笑む。

「やあー…君が無事で…良かった…」

 私は駆け寄った。ダメだ。手をかけて引っ張っても、巨大な構造物は人間の力ではビクともしない。

「手抜き工事…かな…やっぱりケチるんじゃなかったかね…」

「何言ってるんです!そうだ、早く救急車を呼ばないと」

「やあー…それより…離れた方がいいかな…まだ奥の方で、ミシミシと…」

 言われてみれば、煙突の基部あたりで不吉な軋みが断続的に聞こえる。

「!そうだ、ヘラクレス!あなたなら助けられるでしょ⁉︎」 

 だが巨漢は禿頭とくとうをボリボリと掻いて首を振った。

『ふむ、斯様かように巨大なもの、我一人では持ち上げきれんな。昨夜の果子の乗っていた輿くるまくらいが関の山だ』

「そんな!あなた神様でしょ⁉︎英雄なんでしょ!そう自分で言ってたじゃない‼︎」

『果子よ。我とても万能ではない。ましてや我は老いている。全盛期ならば山一つ打棄うっちゃることもできたが、この老体一つでは所詮無理な話よ』

「そんな…!」

『だが、これも何かの縁。ひとつそこの肥満児に尋ねてみよう』

 ヘラクレスは金本の顔の前に片膝をついた。

『カナモト、というのか。其方そなたていしてまで果子を護るとは、なかなかの男だな。ものは相談だが、命助かりしのちには我を奉じ祀ることを誓うか』

 私は翻訳する。

「…やあ…何が何だか分からないが…助かるなら…」

 ヘラクレスはその言葉を聞くと深々と頷き、神妙な面持ちで立ち上がった。

『我、ヘラクレス。オリンポスの神たる威光を以て命じる。この地にありしすべての筋肉よ、我の声を聞き此処へ集え!』

 あれ。私の体が、勝手に動く。指が煙突の端を掴む。

 私だけではない。遠巻きにしていた金本の部下や学校関係者も、ようよう出勤してきた作業員も、校舎の方から生徒達や事務員や教員も…ありとあらゆる老若男女が吸い寄せられるように集まってきて煙突に手をかけた。

『呼べよ筋肉!震えよ心臓!人の子らすべての肉体の膂力こそ我が魂の眷属なり!』

 そして最後に、ヘラクレスその人が完全に倒れた煙突の下にガボッと両腕を差し込んだ。

『皆の者、声を出せ!在らん限りの筋肉に力を吹き込むのだ!たとい一人一人の筋力ちからは脆弱であろうとも───』

 千人、万人集まれば。

『それは一介の凡人を英雄の高みにまで押し上げる、虹のきざはしとなる!筋肉を捧げよ‼︎』

 ずご。

 ず、ずご。ず、ず、ずずずずずずずずずずず…

 夢のような現象だった。

 いや、違う。

 まるで

 私含め百人はくだらない人間が、何十トンものコンクリの塊を持ち上げる。

 まるで現実感のない、だからこそ感動的な光景…

「出て、金本さんっ」

 やあ、と声を出し、金本は這いずり出た。次の瞬間爆発的な反応で、救助を手伝う人間全員が後ろに飛び退る。これもまたヘラクレスの神威によるのだろう。

 再びの轟音。今度こそ完璧に煙突は横倒しになり、ボッキリと真ん中から折れてしまった。

「金本さん…」

「やあ〜……僕は…助かったのかな…」

 嫌悪していた金本。擦り傷だらけで血の滲む三揃い。その彼を膝の上に抱きしめて、私はいつまでもそこに座り込んでいた。

 そしていつの間にか、ヘラクレスの姿はどこにも見えなくなっていた。

 一年後。

「やーあやあやあやあ、経過は順調みたいだねえっ⁉︎」

 私は病室の前に現れた金本にうんざりしてため息をつく。

「どうしてそう毎日毎日見舞いにくるのよ。理事長ってそんなに閑職なの?」

「やあ、そりゃ愛する妻の顔が見たいからに決まってるじゃないか」

 そう。

 私は昨年、あの新棟崩壊事件の後しばらくして金本と入籍した。 

「それにほら!注文していた研究書も届けにね。入院している間も数式と取っ組み合うんだから、君は本当に研究者の鑑だねぇ〜」

「誰かさんのおかげで教授でいられるからね。感謝しながらこの子が生まれてくる日を待ってるわ」

 私は膨らみきったお腹を撫ぜた。

 金本はつまるところ、私をのだ。不器用すぎるとは思うけど、それが彼の…彼なりの愛情表現だったのだ。

 本人は、後から告白した時に「あの事件が無かったら、告白する勇気も出なかった」と盛大に照れながら白状した。

「やあ。それに見てよこのボディを!これを生まれてくる我が子にも毎日見てもらうのさ!胎教にもバッチリだろう!」

 金本に昔日の面影はない。ヘラクレスに立てた(無理矢理に近いが)誓いを守り、筋トレと有酸素運動に邁進した結果、半袖短パンがこの上もなく似合う細マッチョへと進化したのだ。

 ついでにだが、顔の方も変わった。良い方に。脂肪に埋もれていた時には思いもよらなかったが、痩せた今では私が好きな「マトリックス」の頃のキアヌ=リーブスに似ている。本人には言わないけど…

「そっちに持ってるのはこの間ったエコー検診?」 

「やあ、そうだったそうだった。これは君に見せなきゃと思ってね」

 ペタペタとサンダルを鳴らしてベッド脇に来た金本は、一枚の検診写真を差し出した。

 それを眺め、意味を悟ってから私は笑い出した。

 現在の胎児写真の撮影技術は大したもので、子宮内で出産を待つ私の赤ちゃんがクリアに映し出されている。

 モノクロの画像。そこには、渋い顔をした胎児が右手で顎をひねくっていた。

 のバースデイは、もうすぐだろう。

 

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