【KAC20235】筋肉トレッキング、まだ旅の途中

草群 鶏

筋肉トレッキング、まだ旅の途中

 行く手にはなだらかな丘、踏みしめる足元はふかふかとしてとらえがたく、一歩ごとに用心して歩みを進める。なかなか神経を使うし、体幹の強さを試される道のりだ。特にいまは、比較的かたい地盤に薄く上滑りしやすい層が載っているから、重力方向を意識して体重をかけないと容易に足を滑らせてしまう。屈強かつ経験豊かなロウならともかく、若い娘には酷だろう。

 ロウはわずかにペースを落とし、リナの隣に自然に並びかけた。

「貸しなさい」

「いやです、これ以上持っていかれたら私は手ぶらになってしまう」

 肩で息をする彼女は斜めがけした荷物の紐を頑なににぎりしめ、うずくまるように身を捩った。同様の申し出はもう五回目で、当初リナが背負っていた荷物の大半はロウの背に移っている。これ以上は彼女の誇りに関わるらしい。なかなか強情なひとだ、と嘆息しつつ、そういうところを好ましく思ったのだったとわずかに頬を緩めた。

 ひとつにまとめた髪もいまはぼさぼさに乱れてしまって、うなじや耳のうしろにひょろひょろと貼り付いている。すっきりとなめらかなさまもいいが、汗みずくのいまも悪くない。

 つまるところ、ロウはリナに惚れているのだった。結び直してやろうと伸ばした手に、彼女の肩がびくりと震える。向けられる警戒のまなざしに多少の愉悦を覚えつつ、口元にのぼるにやつきを微笑みへと器用にすげ替えて、ロウは髪結の帯を解いた。意図を察したリナはおとなしくされるがままになる。

 しっとりと湿った髪は、分厚く無骨な男の手によってふたたび高く結い上げられた。

「もうすこし頑張れるか」

「もちろん」

 こちらを見上げる瞳に、好戦的な光が灯る。足を止めている間に呼吸もずいぶん整って、喉を鳴らして水を飲むと身体の軸がしゃんと直った。息を吹き返したさまは花のようだ。

 先を行くロウ、すこし意地のほぐれたリナはロウと自分の腰を帯でつなぎ、これを命綱とした。片側に深く切れ込んだ谷を渡り、こまかな起伏のあるのぼりを這い上がる。あたりは熱く息づいて、深い地響きがたえず臓腑を震わせる。リナが窪みに足をとられると、かならずロウが気づいて引っ張り上げてくれた。余裕がなくなるにつれて心が素直になっていくのを自覚する。だんだん、リナのほうから助けを求められるようになってきた。

 プライドがどうのと駄々をこねている場合ではないのだ。じっさいロウは頼りになる男で、リナの非力を嘲ることなく、淡々と力を貸して先を導いてくれる。力あるものの余裕というやつだ。憧れを上回る悔しさ。始終視界に入る己の細腕がいやになるが、行く手の壁はいよいよこちら側に迫り出してきて、四つ足で取り付かなければとても越えられそうにない。

 この機を逃せば、次はいつ登頂できるかわからない。厳しい道のりだが、それでもまだ道が存在するだけ僥倖なのだ。せり出した壁はいっそうふかふかとしてとらえどころがなく、ロウとリナは力を合わせて着実に、しかしできるかぎり先を急いで登攀する。

 難所を越えた二人は、どちらからともなく顔を見合わせてほどけるように笑った。くるりと向きを変えればのぼってきた行程も勾配も一望できる。よくここまで来られたものだ、とリナは己を誇らしく思い、ここまで連れてきてくれたロウに感謝をこめて、すこし離れたところにあった大きな手をぎゅっと握った。

 めったにない出来事にロウがびくりとたじろぐ。その動揺が伝わったかのごとく、あたりにうーんと地鳴りが轟いた。

 天地がひっくり返るよう、二人の足元が大きく傾ぐ。回転する世界にいち早く反応したのはロウで、リナの手を掴み返すなり迫りくる壁を大股に踏み越える。引きずられる腕が抜けそうに痛かったが、リナは歯を食いしばってこらえた。ロウの体躯をもってしても、空中に放り出されないようにするのが精一杯だ。それほどの天変地異。足手まといにならないよう、せいぜい必死に手足を動かすほかない。

 さいわい足場はなめらかに硬く、駆け足でもとられることはない。めまぐるしく変化する面をやりすごし、不動の大地まであとすこし。

 深淵たる谷は広がり、目指す場所は刻々と遠のく。リナが絶望に天を仰ぎそうになったそのとき、視界がぐるんと回って身体が浮いた。

「ひゃあ」

「しっかりつかまってろ」

 ロウはリナの身体をしっかりと抱え込み、ぐっと足取りを早めた。回転にスピードが加わって目が回る。リナはロウの太い首に必死で腕を回した。

 ふわっと世界の速度が緩んで、でもリナの身体は強く抱かれたまま。ロウは宙を舞っていた。

 驚愕にリナが目を見開いている間に、世界はふたたびぐるぐると回転した。ロウが着地の衝撃をいなしたのだ。彼の腕に守られて、リナは一切の痛みを免れた。

 動きが止まって、二人そろって身体を起こす。苦労してのぼってきた道はすっかり様子を変えて、地響きも遠く小さくなった。

「やった……」

「やったな」

 新天地である。ここから、ロウとリナの新しいくらしがはじまる。


 *


「あーよく寝た」

 伸びをしたら脇腹がわずかに攣れた。ようく見るとうっすら赤い引っかき傷みたいなものがたくさん見つかる。いずれも、一定の方向を向いて点々と散っていた。

「足を滑らしたか」

 旅の途中でちょうどいい崖を見つけたので、ひとやすみのつもりで背を預けたらそのまま寝入ってしまったらしい。寝ているあいだに、誰かが身体を上っていったのだ。

「俺の身体は山じゃねえっつの」

 文句を垂れつつ、その表情は朗らかだ。

 大きな身体は隆々と筋肉に覆われて最強の名をほしいままにしているが、彼の気立てがやさしいことはあまり知られていない。

 巨人族のバーレイは崖の上に顎をのせて、どこかへ消えていった小さい者たちに餞を贈った。

「この俺を踏みつけていったんだ、このさきも達者でな」

 視線の先で、木々の梢ががさがさと音をたてた。

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【KAC20235】筋肉トレッキング、まだ旅の途中 草群 鶏 @emily0420

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