筋肉の最後の日

横蛍

筋肉の最後の日

 店内はお客さんで溢れかえっていた。


 色褪せたメニューや壁紙、年季の入ったテーブルと椅子が、この店の味わいのひとつだった。


 もっともそんな壁紙も今ではほとんど見えない。誰がはじめたのか、紙に書いた別れのメッセージが店内の壁という壁に貼られている。


 そう、この店は今日をもって閉店するんだ。


 地元で愛されて観光客も来る食堂。名物は『筋肉すじにくの煮込み』で、これだけを食べるために遥々遠方からも人が来るというほど。


「おやっさん。俺に店を売ってくれよ。おやっさんに恥じをかかせないように継ぐからさ」


「味は教えただろうが。あとは自分でやれ。ここはもう耐震性も駄目だし、人に継がせる気はねえ。オレが始めたんだ。閉めるのもオレだ」


 ふと聞こえてきたのは、ここ一か月くらい毎日のように聞かれる会話だ。三月ほど前に突如閉店を決めた七十代の店主に弟子入りした若い男だ。


 両親との思い出の店と味を残したいと、金を借りても店を買い取って続けたいという気概があるやつになる。


 応援する者も多いが、私には店主の気持ちがよく分かる。我が子同様の店なんだ。年齢を理由に店が出来ないとなっても、人には渡したくないのだろう。


「いただきます」


 私にとってもこれが最後の食べ収めだ。味を継ぐ者がいても、多分、わざわざ食べに行くことはないだろう。


 外食なんてしない無口な親父が、唯一連れて来てくれたのがこの店なんだ。


 温かいホカホカのご飯と、筋肉すじにくの煮込み。何故か漢字で『筋肉の煮込み』と書いてある唯一のメニュー。


 柔らかく煮込んだ筋肉とこんにゃくに、青ネギが散らしてあるシンプルな味だ。


 年中無休で五十年も継ぎ足しながら作られたこの味が、二度と食べられなくなる。




 最後だと、魂に刻むように一口かみしめると涙が溢れそうになる。


 美味いなぁ。


 筋肉の旨味が汁とこんにゃくに溶け込んでいる。肉は柔らかくかつ形はしっかり残していて、口の中に入れるとほぐれるようにこんにゃくや汁と一体となる。青ネギのアクセントがまたたまらないんだ。


 このネギひとつとっても、味が変わらないように毎日選んでいると聞いたことがある。


 私の食べ方は、大振りの茶碗に一杯目はそのまま味わうように一緒に食べて、二杯目は汁を掛けて肉とこんにゃくと一緒に食べる。三杯目は残った汁を吸いつくすようにきっちりと混ぜて食べるんだ。




「おやっさん、ごちそうさま」


「おう、達者でな」


 昨日までは『また来いよ』と声を掛けてくれていた店主の言葉に、込み上げてくるモノが一気にあふれ出した。


 最後に少し照れくさそうに笑う店主をスマホで写真に撮り、私は店を後にした。


 二度と、これほど一つの味で感情を揺さぶられることはないかもしれない。


 寂しさはある。


 ただ、それ以上の幸腹感でいっぱいだった。




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筋肉の最後の日 横蛍 @oukei

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