第8話 声

 喫茶店を後にして、私はまたあの公園に足を運んだ。いつもの木陰で持ってきた本を開く。意味もなくパラパラとページを捲り、ただただ無駄に時間を潰す。陽が真上に来て、木陰が小さくなっていく。


「あ、この前の」


 声をかけられて顔を上げると、この前と同じ笑顔の彼と目が合った。


「この辺に住んでるの?」

「はい、すぐそこに…」


 隣に腰かけると、彼は体育座りして本を覗き込んだ。


「その本、面白いの?」

「えっ…」


 手に持った本に目を落とす。


「あ、えっと…はい。すごく…面白い…です、いなくなった恋人を探すために旅に出た女の人のお話…すごくロマンチックです」


 何も返って来ず、恐る恐る顔を上げると彼はただ笑って私の手元を見ていた。


「あの…」

「あ、ごめん…なんか懐かしい気がして」


 彼から出た、懐かしい、という言葉に心臓がドクンと跳ねた。彼の眼の中に、あの街が映った気がした。灰色っぽいと思っていた彼の眼は少し水の色が入っているようにも思える。


 今日の私は、やはり変だ。


「君は、愛って…なんだと思う」


 一瞬、時間が止まったように感じた。周りの雑音をかき消して、風が通り過ぎていく。奥に見える水面がさざ波を立てて、無表情の木の葉を揺らす。


 何故、彼がそれを聞くのか、私には理解ができなかった。いや、他の人であっても、意図はわからないだろう。今の、質問は。


「難しい、ですね」


 ようやく、声が出た。答えになっていないのに、何故か安堵した。


「そうだよね…」


 彼は笑って、私の方へ顔を向けた。その眼はどこか遠くを見ていて、私の方は見ていなかった。今となっては傷つきもしない。

 私は静かに溜息をついて目を伏せた。


 慣れ──というのは恐ろしい感覚だ。

 どんな痛みも、苦しみも、継続的にそれが起こってしまえばいつか慣れてしまう。人間、辛いことからは逃げたくなる性分なのだと思う。逃げて、逃げて、私はここに来た。でも結局逃げたとしても何らかの因果が絡みついて離れない。

 そういうものなのだと、今は思う。


 慣れない痛みなんてものが、あるのだろうか。

 そんな恐ろしいことを、私は考えたくない。


「お姉さんはさ、人の痛みがわかる人だよね」


 心臓がドクンと音を立てて跳ねた。


「そう…ですかね。私、ダメ人間だから」


 発した声がぽとりと地面に落ちる。ボールのように跳ね返らず、石のように地面に窪みをつける。


 彼は私の方に視線を戻した。言葉を何か発するわけでもなく、ただじっと、見つめられている。暫くして彼が口を開いた。


「過去に何かあったとしても、どうやって前を向くかが大事だと思うよ」

「そうですよね」


 貼り付けたような笑顔を彼に向ける。


 大丈夫、ばれてないから。

 何も覚えているはずのない彼に、希望なんて抱いてはいけなかった。

 誰も信じてくれない。私の話なんて。


「私、もう行きますね」


 え、と彼が短く声を漏らす。寂しがる子犬のような目で見つめられると心が揺らいでしまったが、「用事があるので」と言ってそそくさとその場を離れた。


 もう、あの場所へは行かない。


 そう覚悟を決めた瞬間、自分の中で何かが閉じた気がした。

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21gの恋が愛に変わるまで 平川彩香 @XTJpx5L1

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