第七話 歯車
「今日も、おひとりですか」
「え」
短く声置上げると、マスターが僅かに型眉を上げた。
「いえ、なんでもありませんよ」
そして振り返りもせずキッチンの奥へ戻って行ってしまった。
何だったのだろう、いつもと違うことをされると心の中に靄がかかったようにどんよりとし、前が見えなくなるほどに霞む。そこで初めて自分が息をしていなかったことに気付く。
「私のおすすめです」
テーブルに、ことりと置かれたケーキスタンドの上には高級そうなチョコレートが甘く魅惑的な香りを漂わせている。そこへマスターが青い蝶々が描かれたティーカップに紅茶を注ぎ入れた。美しい、青。何処までも深く飲み込まれそうな、青。海を思わせるそれに、一つ、息を吸う。
「
彼は静かにそう告げると再びキッチンの奥へ戻っていってしまった。店内には、静かにクラシック曲が流れている。なんという曲だったか…。チョコレートを一つ指で摘み、口に運ぶ。上品な甘さに包まれ、ふと、店内を見渡していて目に留まった一枚の絵画に魅入った。
絵のタイトルは…「21
短く息を吸い込んだ。その場の時間が止まったような、そんな感覚に陥る。流れているピアノ曲がクライマックスを美しく歌い上げている音がだんだんと遠ざかっていく。はっとさせるような、青。ブルーマノウやセルビアンでも、コバルトでもない、鮮やかな青で描かれている。
「その絵、素敵でしょう」
年配の女性に声を掛けられ、びくっと肩が跳ねた。女性は上品に笑いながら、ごめんなさいね、と言って私の隣の席に腰かけた。
「この絵はね、私がある画家から買って、このカフェに寄付したの」
話してもいいかしら、と聞かれずとも彼女の目を見ればその言葉が読み取れたように見えて頷くと、彼女は静かに語り始めた。
「いつだったか、私が旅行でドイツに行った時に駅前でその地域で有名な画家が絵を売っていたの」
その隣にいたのがペインティングナイフを持った彼だったという。当時の彼女は絵画には興味がなかったようで、素通りしようとしたのだが、一枚の絵を見て足を止めたのだという。それは、真っ青な青で描かれた、波にも見え、空にも見える絵画だった。「この絵はおいくら?」と聞くと、画家の方は小さな彼の方を見て「こいつはまだ見習いだから貴女が値段をつけてくれないか」と言ったそうだ。少し迷って、彼女は20万円を彼に渡し、「これでいつかまた私に絵を描いてほしい」と伝えた。そうして描かれた絵が、この絵なのだという。
「絵の端を見ると、少し桜の色が入っているでしょう」
彼女に言われて真っ青だと思っていた絵をよく見ると、うっすらとした桜色がにじませてあった。細やかなディティール一つ一つに心を奪われる。
「彼からの手紙に、この絵のタイトルの書かれたプレートが入っていたの」
そのプレートがこれ、と彼女は指差すと、そっと取り外して私に手渡した。金属でできていたためか重たそうな印象があったが、実際に掌に乗せるとそれほどそれほど重たくは感じなかった。ふと、裏側に凹凸があるのを感じてプレートを裏返す。
そこには手で掘ったのか、少し歪んだアルファベッドが並んでいた。
『
顔を上げると、彼女は静かに微笑んだ。
「21gってね、魂の重さって言われているの」
どくん、と心臓が強く脈打った。
「不思議よね、目に見えないものに重さがあると考える人もいるのよ。でもそれはきっと、愛する人に自分の一部をあげたいという願望..なんじゃないかしら、ってね」
彼女は寂しそうにその絵に手を重ねた。「これもただの私の、願望かもしれないけれどね」と笑う彼女の横顔には、深く刻み込まれた何かが垣間見えた気がした。
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